花にしゃれこうべ
気のせいか、この国に降る雨は甘いにおいがする。
ここ焔国に来てから久しい天の恵みは、鮮やかな色彩の多い花木の薫りをより一層引き立てた。
領主の屋敷の北棟と東棟をつなぐ屋根付き廊下の半ば、中庭を濡らす色彩の美しさはひとしおである。遥か地下にて、焔脈を泳ぐ雄々しき守護神がおわす地とは思えないほどの穏やかさ。
しっとりと纏いつく空気はお世辞にも気持ちの良いものではないが、この光景を次はいつ久しく見れるかというもったいなさについ足を止めてしまった。なんとも色気のない理由である。
たまに吹く微風が優しく甘い芳香を乗せて、一時身を包まれているような感覚を味わう。
「……灯之」
さらさらと涼やかな雨音に混じって、夏風の様な涼しげな声がした。
最近言葉を交わすようになったこの地の領主である。そちらを見ると、相手もゆったりとした所作でこちらに歩いてくる。
「しろび様!」
東棟の入り口で、真白の外套を頭からすっぽりと覆った主が「ちょうどよかった」と肩を揺らした。
清楚な白色の下にその身の一切を覆い隠し、石廊下に裾をずるずると引きずる様は、だらしなさより不気味さを漂わせている。あらゆる意味で他者が距離を置かずにはいられない彼の装束は、これでも普段着だという。
灯之は紗の重ねた裾をさばきながら、しろびのもとへ駆け寄った。さして低くもない灯之でも見上げる位置にある彼の顔は、外套の下に隠れてほとんど見えない。
「珍しいですね。ご自身でお部屋を出るなんて」
「うん。雨が珍しく降っているから。あ!ねえ、灯之に見せたいものがあるんだ!」
怪しい身ごろにもかかわらず、長い袖を振るしぐさや弾んだ声音はいつもより浮かれているように見える。
「北棟の庭を見に行こう。君の部屋の下階だよ。あそこは百科精の花が植わっているから」
「ひゃっかせい、ですか?」
「うん。花精霊の寵花とも言われている。百の精霊がこぞって愛でる可愛らしい花だよ」
「そんなお花があるのですね。…あ、しろび様!」
「ほらこっち」
先まで東棟に向かおうとしていた灯之をしろびはするりと横切った。慌てて来た道を振り返り、自身の衣の裾をつまんで追いかける。
こちらの呼び声などお構いなしに、しろびの背中は灯之の自室のある棟へするすると向かうが、顔を覆い隠す布がたまに振り返るかのように揺れている。様子を見ているのか、もしかすると笑っているのかもしれない。
『骸の君』『訳あり殿下』。彼を指す忌み名はいろいろとあるが、ここ最近で近づいた距離もあって、今はその印象を撤回しつつある。灯之は彼がたまに見せる幼さや、想像していたよりも気安く寂しがりだということに気が付き始めていた。
良くも悪くも、微笑ましいし、反してハラハラさせられることも多いけれど。
「もう!また骨折してしまいますよっ」
「ふふ、大丈夫だよ。灯之は心配性……ああっ」
「あっ」
灯之の物騒な忠告は現実にならなかったが、それと引き換えに非現実な光景をさらす結果となった。
廊下の壁一面の飾り格子の隙間から、いたずらな突風が吹いたのだ。
それは灯之の重たげな黒髪を巻き上げただけでなく、前を歩くその主の頭部を覆う外套さえも盛大にめくり上げてしまった。
その首から上にある容姿はいっそ人本来の姿と言えるかもしれないが、もはや容姿の良し悪しの問題ではない。
肉も皮もない。まさしく白き骨のしゃれこうべがその首の上に乗っていたのである。
「ほら、言いましたのに」
「君は骨折の心配しかしていないじゃないかぁ」
黒い空洞の眼窩で、泣き言をこぼすしろびのなんとも抜けていることか。
すっかり見慣れた輪郭に、驚き慣れした灯之は相好を崩してにっこりと笑った。
「骨こそ大事ではありませんか」
「……意地悪だなあ。君と目を合わせるのも恥ずかしいのに」
「あはは!しろび様ったら、もう」
互いの間を吹き抜けた風は、まだ甘い香りがしていた。
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