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変わり者達のささやかな日常。

彼女と僕の遊戯な夏。

作者: 久希ユウ




校舎に続く桜の並木道は見事に咲き誇っていた。初々しい新入生が次々と校門を通る中、皺の無い真新しい制服に身を包んだ僕は立ち止まって桜を見上げる。

不思議だ。花見で見る桜には綺麗だとかしか思わないのに入学式の桜はこれからの高校生活を彩る特別なものの気がする。

僕は大きく息を吸う。「さて」と踏み出そうとしたその時、風が吹いた。桜が舞い上がる。思わず、踏み出すのを躊躇った僕。

そして、その間に彼女は僕の横を通り越した。黒髪の彼女の横顔は凛としていて颯爽と前を歩く姿は大人びた雰囲気を纏っている。


「先輩かな?」


僕は見惚れながら疑問に思い、僕は数時間後に答えを得る。

彼女は僕と同級生だった。入学式で新入生に用意された席の中に彼女も居たのだから間違いない。

意外な縁だ。そう思ったその日のうちに僕は彼女に話し掛けるべきだったのだろう。

僕と彼女はクラスが違った。故に会う事もなければ、会話のきっかけも容易にない。けれど、僕のように彼女を気にしている奴らは多いようで彼女の噂だけは耳に入った。

数学の難題を簡単に解いた。高跳びで誰より高く跳んでいた。あまり笑わないが、ふと見せる笑顔が可愛い。実は実家が有名企業を営む一族で彼女は社長令嬢なのだ。そんな色々な噂話。

入学して半年経った頃に廊下で向かいから歩いて来る彼女に気付いた。すれ違う僕らは視線を合わす事も言葉を交わす事も無い。

僕にとって彼女は高嶺の花。彼女にとってみれば僕はただの同級生、否それすらも認知されていないかもしれない。

きっと、卒業するまで僕らはこういう関係のまま決して変わらない。そう僕は確信していた。しかし、一体、これはどういう状況なのだろうか。

高校最後の夏から僕は住宅街にひっそりとある隠れ家のような喫茶店でバイトを始めた。そこそこ賃金が良くて過度な労働が無いからと親の知人からの紹介で得たバイト先だ。

カラカラ、コップに氷が詰め込まれる音がする。積み上がった氷が崩れないようにゆっくり注いだ珈琲にミルクを足す。そうして、出来上がった店長自慢のカフェオレを僕は盆に乗せて客のもとに運ぶ。

クラシカルな店内の一番奥の席。涼し気な水色のワンピースを纏った彼女の元へ。


「お待たせしました」


何故、彼女が此処に居るのか。バイトを始めて既に二週間以上が経つが、此処で彼女と出くわすのは初めてだ。扉のベルが鳴った時に「いらっしゃいませ」と振り返った僕が信じられない気持ちで目を丸くしてしまったのは仕方ない事だと思う。

緊張した面持ちで僕はコースターを彼女の前に敷き、カフェオレを出す。


「ありがとう」


彼女は僕に笑う。たった一言。これだけで、僕らの会話と言えない会話は終りの筈だったが、会釈をして下がろうとした僕に彼女は言葉を続ける。


「ねぇ、店員さん。私、貴方を学校で見た事があるような気がするのだけれど」

「…………」


僕はこの時「さぁ、何の事でしょうか」と惚けるべきだったのだろう。しかし、彼女に思わぬ形で話しかけられて、尚且つ僕に覚えがあるというのだから言葉を詰まらせるには十分過ぎた。

無言は肯定。視線を彷徨わせる僕に彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。


「うちの学校、アルバイトは禁止だったと思うのだけど?」

「さぁ、何の事でしょうか」


バレたら良くて生徒指導の先生による暑苦しい説教と反省文、悪くて停学まっしぐら。

今更、惚けてみるがもう遅い。彼女の整った口から僕のフルネームが発せられる。びくりと身体を震わせた僕はどう足掻いても彼女を欺く事は不可能である事を悟り、恐る恐る彼女を見据える。


「ねぇ、黙っててあげようか?」

「そうしてくれると助かるけど……」


彼女が黙っていて何の得になる。決して、彼女が人を陥れるような人物ではないとは思うが、まともに会話すらなく友人でも無い僕を庇う理由は何処にある。


(まぁ、単に僕に興味が無いという事なんだろうな)


自分で気付いて悲しくなる。

彼女は少し暗くなった僕に気付きもせずに口を開く。


「黙っててあげる。だから、一つ私のお願いを聞いてくれない?」

「お願い?」


別に構わないが、一体、何を言われるのだろう。僕は首を傾げた。


「難しくも無いお願いよ。此処によく来るお客さんの中に仕立ての良いスーツを着た会社員が居るでしょう。四十代のちょっと気の弱そうな人なんだけど」

「スーツの良し悪しは僕には分からないけど、もしかして、二日に一回くらい来てくれる男のお客様かな。店長のカフェオレを気に入って下さってる人なんだよ」

「そう。そのお客さんよ。もしも、そのお客さんが珍しく連れを連れて来てテーブル席で書類を広げ始めたら思いっ切り珈琲を溢して書類を駄目にして、これを渡して欲しいの」

「えっ?」

「忘れ物だとでも言えば良いわ。お願い」


知り合いなのか一体、どういう関係なのか。

気になりながら驚いた僕に彼女は小さな手提げバックから封のされた便箋を渡しながら懇願する。

大人の雰囲気がある彼女には意外な子供向けのファンシーな兎の便箋だった。本当はこんな事を引き受けたらカフェの店員としては失格なのだろうが、僕はまだ若く、そして、美人のお願いに弱かった。


(バイトもバレたら困るし)


完全な言い訳だ。悪いと思い、一瞬カウンターでグラスを拭いている店長を見るが、僕はため息を吐いて便箋を受け取った。


「分かった」

「ありがとう」


ホッと安堵した様子で彼女は柔らかく微笑んだ。反則だ。僕は顔を紅潮させて視線を逸らす。

それから、彼女が帰った次の日に例の男は連れを連れてやって来た。お互いにきっちりとしたスーツを身に纏って席で向かい合い話す様子に仕事のやり取りでもしているのだろうと思った。

僕は彼女のお願い通りに行動した。手を滑らせたフリをして広がっていた書類の大半を珈琲の海に沈め、激怒する連れである客に謝り倒し、最後に店を後にしようとした処で男を呼び止めて忘れ物だと彼女の手紙を差し出した。

男は彼女の言った通り、気の弱い男であった。しかし、怒鳴られる僕を庇い、連れを諌める心優しい男だった。

最初はきょとんとした様子だった男は何故かその手紙を見た途端に目を丸くした。受け取った手紙をその場で開き、読み始めた男はやがて脱力したように笑うと僕を見据えた。


「君は彼女の友達かな?」

「さぁ、どうでしょうか」


友人ではない。けど、それを認めるのはこの男の前でなくとも良いだろう。

男は小さく「そうか」と頷いた。


「じゃあ、そんな君に申し訳が無いけれど、彼女に一つ言伝を頼んで良いかな?」

「聞いても直ぐに伝えられるか分かりませんよ」


会う予定も連絡先すら知らない。夏休みが開けて学校で彼女を見かけても話しかけれるかどうかも分からない。


「それでも、構わないよ。どうか彼女に『ごめん』と伝えてくれ」

「分かりました」


手紙の内容を僕は知らない。手紙に綴られた内容は男を憔悴させるには十分だった。

仕方ない。僕は更に小さく弱弱しくなったように見えた男の言伝を受け取った。



彼女に会えたのは夏休みも終わりに近づいた夕暮れだった。バイトも終わり、家路に着こうと外に出ると彼女は自転車置き場で僕を待っていた。


「久し振り」


僕に気付いた彼女はあの日と同じ水色のワンピースを着ていたが夕陽に照らされて赤と青が混じった不思議な色合いを放っていた。


「お願い、聞いてくれてありがとう。ずっと、言えてなかったから言いに来たの。お陰で助かったわ」

「何が助かったのかはよく分からないけど、大変だったよ。お客様には怒られるし、店長にも注意されて、母さんにも怒られちゃった」

「それは、ごめんなさい」


申し訳なさそうに彼女は視線を下に落とした。こういう表情もするんだなと思いながら僕は手を振った。


「いいよ、気にしないで。もう終わった事だから。あぁ、そうだ。あの男のお客様から君に言伝を頼まれたよ」

「あの人から?」


パッと彼女は顔を上げた。


「うん『ごめん』って」

「……そう」


彼女はため息を吐くように呟いた。まるで、仕方のない人だと言わんばかりにその瞳には呆れが混じっている。


「あの人ね、私の父なの」

「えっ、そうなの?」


てっきり、恋人かそれに近い関係の人かと思っていた。意外な正体に僕は唖然とし、彼女はそんな僕を見てクスクス笑う。


「困った人なの。弱い癖に全部自分で抱え込んで突っ走って。優しいから付け入られやすくて身内は大変なのよ」

「へ、へーそうなんだ」


自分の父親に対して辛辣過ぎないか。僕は顔を引き攣らせた。


「でも、良い人だったよ。君のお父さん」


珈琲を溢した時、困り顔で微笑みながら連れに怒鳴られている僕を庇ってくれた事を思い出す。


「うん。そうでしょ」


彼女は嬉しそうにそう言うと、ひらりと身を翻した。


「私、もう行くね。予定があるから」

「送るよ」


まだ陽が昇っていると言っても夕暮れだ。薄暗い帰り道は危ない。

僕の申し出に彼女は首を横に振った。


「いいわ。一人で大丈夫」

「でも」

「いいの。じゃあね、バイバイ」


彼女は微笑んで僕に手を小さく振ると駆け出した。僕はその後姿を見送る。今が夕暮れで良かった。真っ赤な茹蛸の顔を誰かに気付かれなくて済む。


(今度、また会ったら話しかけてみよう)


彼女と色々な話がしてみたい。しかし、その思いは夏休みが明けて直ぐに打ち砕かれた。

彼女は転校していた。理由は彼女の家の事情。如何やら、彼女の一族が経営している会社で社長が解任される出来事があったらしい。大企業だったのでニュースにもなっていた。何気なく見ていたテレビに彼女の父親の顔が映った時に僕は驚いた。

ニュースは色々な事を語っていた。男は会社を他の会社に売り渡すつもりだった事を知った僕はふとカフェでの出来事を思い出した。

もしかして、あの時に駄目にした書類はその類いのもので彼女の父親と連れの客は密会していたのではないか。


――困った人なの。


彼女の呆れた言葉。今となっては真実は分からないが、この憶測はきっと当たっている筈だ。


「あーもう!」


まんまと利用された。僕は布団に飛び込んで顔を枕に押し付け、唸る。

彼女は今、何処で何をしているのだろう。彼女は友人にさえも何も言わずに突然の転校という形で去った為に誰一人として彼女の所在を知る者は居ない。遠くの地で新たな人生を家族と共に歩み始めているのだろうか。


「また、会えるかな……」


何時の日か何処かで。僕は彼女の笑顔がまた見たい。


季節は巡る。桜が舞う四月、僕は大学生になった。初めての場で緊張しながら新しい友達を作り、バイトに勤しみながら勉学に励む日々を送りながら僕はある日、数人の友人と遊びに街へ出掛けた。

街は人に溢れている。うっかりしているとはぐれてしまうだろう中を僕は友人達と馬鹿を言い合いながら笑っていた。


「おい、見ろよ。あの人、凄い美人だ!」

「あっ、ほんとだ」


友人が二人、騒ぐ方向を皆で見る。道路を挟んで向こう側、其処には颯爽と道を歩く、スーツ姿の女性が居た。


「スゲェな、まさに働く美人。俺、あんな人が居る所に就職したい」

「もしかしたら、まだ俺達と同じ大学生かもよ。スーツで登校が義務の学校とかあるだろって……どうした、お前?」


友人が驚愕の表情で固まった僕を訝し気に見る。僕は友人を放置して一人、駆け出した。後ろで友人が僕を呼ぶ声が聞こえるが気にして居られない。丁度、信号が青になった横断歩道を渡り、僕は彼女を追い掛ける。


「ねぇ、待って!」


彼女が振り向くのが早いか、僕の伸ばした手が届くのが早いか。


僕と彼女はこうして再会を果たした。


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