2節 スマホを没収するのは違憲では?
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「とっても退屈だぞ」
何度も釘を刺したが、とうとう加藤は大学まで着いてきた。
由良大には、蔵書を探しに何度か訪れたことがある。由良市でもっとも、法律系の書籍が豊富だ。エンタシスの支柱が三本、四階建ての図書館を支えている。入口で手続きをすませて入館する。
「あたし、大学に来ること自体はじめてなんですよ」
加藤は声を潜める。妙にウキウキしている。キャンパスを歩いていたときは、緊張でよそいきの顔をしていた。雰囲気に慣れてきたらしい。
「手伝い頼めるか」
「はい」
エントランスの奥の一角を指さした。パソコンが何台もずらりと並んでいる。利用者が少ない時間帯もあってか、空席が目立つ。高校生が一台を占有しても問題ないだろう。
「あのパソコンで蔵書を調べてほしい」
事前に用意したメモを渡す。
「任されました」
着いてきたのは自己責任だから、放置プレイでもよかったが、教育者としての心が痛む。
加藤に仕事を与えたところで、書庫に入る手続きを済ませる。書庫に加藤を連れていくのは気が引けた。埃っぽいし、本しかない。
本音を言うと学生だったころに、書庫でいちゃついているカップルを目撃したことがあった。それもあって、ためらわれた。
憲法の体系書は二階の書架にあるだろう。たしか、民集の類も外にあった。
とりあえず、特定の事件にしぼって目当ての書籍を拾っていく。事件が古いだけに、手にしただけで崩壊しそうなものもある。
小一時間ほどかかったのではないだろうか。戻ると、まだパソコンの前に加藤がいた。目をパチパチさせて、メモの指示通り番号を控えている。
「どうだ?」
「これぜんぶ読む気ですか」
加藤があきれるのも無理はない。すでに書庫から出したものが四冊。加藤に頼んだ書架にある書籍は十数冊ある。さらに判例集もある。すでに一般人には理解不能な数だろう。
「じゃあ、向こうで読んでるから探してもってきて」
教え子をパシリにしているように思われるかもしれない。でも、研究は基本的に個人作業なので、無理やり協力プレイをするとこういうことになる。
加藤も理解しているのか、不満を言わない。
窓側の小テーブルを占拠する。あとはひたすら読む。とりあえず、方向性は形になっている。それを、先人の業績の力を借りて形にしていく。
自らで、百を生みだそうなんて愚か者のすることだ。わたしたちは誰もがそんな天才ではない。凡人たるわたしたちは、先人が積み上げた業績の上に一を積み重ねる。そして、百一を生み出す。これが研究の基本だ。
傍らのメモに次々と記述を切り取っていく。
びっしり埋まったメモが机上に散乱しはじめたころになって、ガラガラと加藤はやってきた。
「先生、これでぜんぶです」
カウンターで借りたらしい。案外、機転が利く。加藤は、カートに山積みの本を乗せてきた。
「ご苦労」
「ねぇ、先生。ごほうびをください」
そういって加藤は、頭を差し出す。金銭でも要求されているのだろうか。とくにやれるものを持ち合わしていない。仕方ないので、
「じゃあ、スマホ没収についての回答を最初に聞いてもらおう」
加藤の顔が上がる。ゆでたタコのように真っ赤だった。息でも止めていたのか。
「もういいです! で、どうなんですか」
変な奴だ。まあいいか。
「学校教育法十一条は、『……教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。……』と規定している。一時的な没収は、懲戒権の範囲内だから許される」
「え、それだけですか」
この本はなんのため? 口にしなくても言いたいことは分かった。
「待て、ここからが大事だ。文部科学大臣の定めるところにより――文科省がなんて言っているのかというと、通知(一八文科初第一○一九号)に、『学校教育法第十一条に規定する児童生徒の懲戒・体罰に関する考え方』が取りまとめられている。
このなかで、『……近年児童生徒の間に急速に普及している携帯電話を児童生徒が学校に持ち込み、授業中にメール等を行い、学校の教育活動全体に悪影響を及ぼすような場合、保護者等と連携を図り、一時的にこれを預かり置くことは、教育上必要な措置として差し支えない』としている(★②)」
加藤は言葉を咀嚼して、
「では、保護者次第ってことですね」
これは素直に驚きだった。てっきり理不尽だと、不平を口にするだろうと思っていた。いい意味で予想は裏切られた。
「そう。問題は、どの程度の期間スマホを没収できるかだ。
懲戒を重視すると、生徒が学校を出るまで。つまり、生徒の下校時には返却すべきだろう。でも、先の文科省の考え方に基づくなら、『保護者と連携を図り』とあるから、どの程度の期間、学校がスマホを没収するかは、保護者の判断にも左右される」
たとえば、「親が言っても聞かなくて……先生、しばらく預かってくれませんか」
教師と保護者の間に、こんなやりとりがあったとする。この場合、保護者が返せと言うまで、没収することに問題はない。
「まぁ、そんなところだろうと思っていました」
加藤はため息をつく。彼女も高校生、やっぱり先生にスマホを没収されることは、一大事なのだ。現代っ子らしい。歳は十も離れていないが、このあたりは子どもだと思う。
「――で、ここまではネットで調べた話だ」
「えぇ?」
「スマホの没収が教育上、問題ないことは教師なら誰でも知っている。質問は、『憲法違反』だと指摘する。だったら、ちゃんと憲法で回答してあげるべきだ」
何冊か本を借りて帰路につく。
「もう真っ暗ですよ。もちろん送っていただけますよね」
加藤が言う。そのつもりだったからいいが、カバンは本でかなり重たくなっている。あまり歩きたくない。
必要経費ということで、タクシーを呼んだ。
乗り込むと家の住所を言わせる。加藤はほんの一瞬、逡巡して、
「安芸音高校までお願いします」
わたしの戸惑いを察したらしい。加藤は膝上のカバンに顔をうずめる。
「学校に戻るわけじゃないですよ。……先生は知っていますよね。体育館側にマンション建っているでしょう。そこであたし、独り暮らしなんです。名前も本当は、加藤じゃなくて四季坂っていうんです。季節の四季に、坂道の坂で、四季坂。きれいな名字で好きだったんですけど」
高校生のくせに、親に甘やかされて、とは思わなかった。家庭の事情があるのだろう。日本のでは一年に約二十万組の夫婦が離婚する。それだけ、破綻する家庭は多い。
ふと、師匠の言葉を思い出した。
――子は親を選べない。わたしの親は仲が悪かった。勝手に結婚して、性交渉して、わたしを産んだ。それでも貧困な家庭ではなかった。わたしは恵まれた立場だと思う。恵まれているのを自覚しているから、社会への義務を果たす。
と言って、金を湯水のように師匠は酒に注いで経済を回した。
このまま無言というのも気まずい。そもそも、生徒をなぐさめるのは教師の義務ではないか。
でも――お前もたいへんだな。そんな陳腐ななぐさめを加藤は求めないだろう。
「法学者になりたかったんだ」
「え?」
「なりたかったの、だよ。訊いただろ。
大学三年生のときに憧れだった松本先生のゼミに入った。薫って名前もあって、女性だと勘違いしていたけど、実際の松本先生は五十過ぎのおっさんだった。
けど、運命の出会いだった。先生は天才なんだ。この人のためなら、自分の人生を賭ける価値があると思った。だから、弟子入りしたんだ。博士課程も面倒みてくださいって」
研究者の世界は徒弟制度だ。卒業後、松本先生のもとで院生として五年間、指導を受けるつもりだった。
「でも、先生はここにいます」
加藤は静かに言った。月夜に照らされた横顔は青白く見えた。
「実は、めんどうくさいから嫌だよ。里子に出すからって断られた……どうしてお前が泣くんだよ」
加藤の伝う涙に戸惑う。差し出すハンカチを持ち合わせていないことが悔やまれた。
唯一の救いといえば、学校までの道のりを、運転手が影武者のように息を殺して、何も言わずにいてくれたことだった。