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短編

落つ花、流るる川を想ふ

作者: あざみの

尹延(いんえん)


 声をかけられ、尹延は振り返った。

 回廊の向こうに見慣れた顔があった。楊喜(ようき)だ。

 初春に相応しい淡い裳の色が、肌の白さに合っている。切れ長の、意志の強さを感じさせる漆黒の双眸を光らせて、彼女は片手をそっと上げた。


 供の女官たちが下がると、彼女はてくてくと無防備に尹延に歩み寄り、顔を覗きこんだ。

 尹延は表情を変えず、同じように供を下がらせたが、内心穏やかではなかった。


 彼女の、この静かな笑みは油断ならない。

 黒い双眸は炯々として、彼女の心情をすっかり隠しているのに、逆に尹延の心は完全に見透かされているような気がする。


 彼女はある理由から、めったに人に交わらず、邸宅の奥でひっそり暮らしている。


「何か?」

「何か、じゃない」


 笑顔のままぴしゃりと言われて、尹延は口を引き結んだ。

 楊喜は、横柄に腕組みをして、自分より高い位置にある尹延の顔を睨んだ。


「私に何か言うことがあるだろう、尹延」

「……殿の命がなければ口外できませぬ」

「否定はしないわけ」


 皮肉気に口の端を上げて、楊喜は頭を振った。


「まあ、嫁き遅れの妹を片付けるよい口実になるだろう兄上も。肩の荷がおりるというもの」

「貴女は……」


 どこまで知っているのかと訊きかけて、尹延はやめた。

 おそらく、総てを知っているのだ。

 この奥殿から出ることなく、男社会の動きをつぶさに観察している。


「殿のことです、貴女がどうしても嫌だとおっしゃれば、無理強いは……」

「だろうな。兄上は私をとても可愛がってくださる。だけれど、外聞が悪い。妹の(こう)も隣国へ嫁いだというのに、その姉の私はまだ嫁がず、役に立つのか立たぬのかわからぬ進言ばかり。さっさと片付けたいものだろう」


 私はいつ誰に嫁ごうといっこうにかまわん、と楊喜は言う。


「だがな、(こう)家のあれが嫌がるぞ。せっかくの報奨が、私のような嫁き遅れでは」

「自虐的なことを言うなんて、貴女らしくない。何かあったのですか」


 答えたくないのか、楊喜はただ笑んで見返してくるだけだった。

 戦死した親友・楊飛(ようひ)の、同い年の異母妹の考えが全く読めず、彼は首をひねった。

 楊喜はくるりと身を欄干に預け、庭先で囀る小鳥を見やる。尹延はその背に問いかけた。


「昂典とはお会いした事がありますか?」

「ああ。利発だった。尹将軍と先の合戦前に舌戦したと聞いたが」

「からかわないでいただきたい。あれは彼がうまく取りまとめてくれねば、国の分裂すら起こりうる状況だったのです。今は零落したといえ、三大貴族の昂家の当主ですよ、彼は。その発言は、他の豪族にどれ程の影響を与えているか」

「だからくびきとして、私を嫁すというのだろう。……ふふ、黙り込んでも、肯じているようなものだ、尹の兄上」


 指で肩に落ちた黒い髪を弄えながら、楊喜は視線を落とした。


「再び、昂家が反発せぬように友誼の、そして支配の証として楊家の女を渡す。実に模範的な婚姻じゃないか」

「無理強いはしないと殿も仰っています」


 最早隠す振りをしても仕方がないと、尹延はため息混じりに告げた。

 その秀麗な横顔に、困ったように微笑んで、楊喜が頭を振る。


「嫌だ、嫌じゃないという問題じゃないだろう。それにもう私も、この奥殿で身を隠しているのも限界なんだ。御存知だろう。私がどれだけ衰えたか」

「衰え、ですか。そもそもが私には到底理解できぬ世界。ですが、婚姻ということはその力の源を失うことになるのでは?」

「もはや、あってもかわらない、なんの意味もない能力だから。どうなってもよいだろう。それとも(さい)の兄上は形だけの婚姻と言うのかしら」


 苦笑して頬杖をつく。彼女の横顔には疲れの影が見えた。憂き世に飽いたというそんな顔。

 政を預かる者として、そんなことを言うことはできないとわかっていても、尹延の胸中には、彼女こそ理解ある良き伴侶を得て、日々の安寧を手に入れるべきだという思いがあった。

 肉親と言っても過言ではない情を持っているからこそ、そう思う。

 皮肉屋で、それでいて繊細な娘。昔はもっと影のない笑みを浮かべていたはずだ。

 あの顔を再び誰かが咲かせてくれはしないのだろうか。

 考えても詮無いことと、思考を中断する。


「ともかく、もしそうなったら、殿からお達しがございましょう」

「そうだな。……悪かった、時間をとらせて」


 軽く尹延の肘を叩いて、楊喜は身を翻した。

 裾を引いて去っていくその後姿に、かすかな罪悪感が沸いて、尹延は視線を逸らした。

 まさに今から、その話をしに、国王・楊崔に会いに行くところだった。



 この(しょう)という国は、大陸を分割する七国のうち、もっとも若くもっとも勢いに富んだ国だ。

 はじまりはわずか三十年ほど前。先代の国王・楊楽(ようらく)が、義賊から身を起こし、この山河に囲まれた土地に根を下ろしたところに遡る。

 以来、地方に根を張っていた豪族を滅ぼし、あるいは併呑して版図を拡大してきた。

 不凍港に恵まれ、交易が盛んであり、また険峻な山脈に守られ、他国からの攻め手は緩い。


 唯一不安があるとすれば、土着の豪族らの扱いである。


 硝の成長と供に土地とその財を奪われてきた彼らは、もちろん楊家によい思いを抱いていない。中には、歯向かって一族郎党を鏖殺された家もある。

 それは国王が楊楽から嗣子の楊崔(ようさい)へ代替わりしても代わらない。

 昨年は隣国・(えつ)との戦直前に、三大豪族の二家が叛旗を翻し、あわやというところまでいった。

 このときは、残りの一家・昂家の当主、昂典(こうてん)が仲立ちをしてことなきを得た。

 昂家は先代・楊楽の時分、継嗣である昂典とわずかな親族を残し打ち滅ぼされた一家だ。

 その昂典が、敵である楊家に肩入れする。

 そのことを、口さがない者たちは『油断を誘い、寝首をかくつもりだ』と言う。

 だが、当の昂典は常に、ただ目を伏せ議場の片隅で沈黙を続けているのだった。



楊喜(ようき)が……。そうか」

「嫌ではない、そういう問題ではないと一応の理解をしてくださったようです」


 苦く言う尹延(いんえん)の前で、まだ若い君主は顔をしかめた。


「尹延、この件、お前はどう見る」

「悪くない話でしょう」


 当たり障りのない言葉を聴かされて、楊崔の顔が更に曇る。

 できれば「これで行くべきだ」と、背を押して欲しかったようだ。

 深く嘆息して、楊崔は組んだ手を見つめる。


 先日の密議で上がった進言が総ての原因だった。

 そう思い出して、何故あの家臣はこんなことを思いつくのだと腹立たしく思う反面、確かに今この手をうっておけば安泰とまではいかなくても、小康であるとはいえるだろうと納得している自分がいる。

 楊家ゆかりの家臣だけを集めた会議が行われたのは、先月の終わりだった。

 過日、外征で手柄を立てた昂典を含む数名の豪族らの報奨を決めるという議題だった。


 土地か、宝物か、官位か。未だ合一しきっているとは言い切れない硝の内情を鑑みると、手柄を立てた者を労わなければ不満が沸くし、あまり力を付けさせると、以前のように内訌を試みるやもと、微妙な駆け引きがある。


 最も処遇に困ったのは、三大名家の生き残り、昂典だった。

 今は心を入れ替え楊家に仕えているとはいえ、彼に大きな力を持たせるのは危険だった。

 だが同時に、土着豪族筆頭の彼が軽んじられるとまた反発が生まれる。

 だからこそ、困った。官位、つまり発言力はともかくとして財力を上げるのもまずい。

 土地もしかり。となると――。


 答えを出しあぐねていた楊崔に、家臣の一人が恐縮しきって進言したのは、未婚の長女・楊喜を嫁がせるという案だった。


 姫一人を降嫁させて、昂典に不満が出るはずもない。その上、楊喜の身柄が楊家と昂家、昂家を頭とした豪族らの紐帯となるだろうというのだ。


 思い返せば単純かつ合理的な案だった。古くからの、常套手段である。

 だが楊崔は怒った。末の妹・香を隣国に嫁がせたのとはわけが違うと。

 その楊崔に待ったをかけたのが尹延だった。

 場を解散し、楊崔が落ち着いたころ、再び話そうということになったのだった。

 そして、今に至る。


「殿、迷っておられますな」

「……ああ」

「私の言葉をお聞きになる勇気はありますか」


 今から言うことは、耳に痛いぞと先に念を押した尹延の目をじっと見つめ、やがて楊崔は力なく頷いた。

 尹延は、戦で死んだ楊崔の弟・楊飛と三つ年上の親友だった。今年で二十二になる。

 今は楊崔の頼りになる家臣だ。


「楊喜様の力は弱まっています」

「予知の……」


 楊崔が呻いた。


「亡き父上が大きな宝――不凍港を得られること、そして崩御なさるのを予知されたのは確かだ。あのころの冴えはすばらしい。しかし、その後、楊飛が没したころ。楊喜は時期すらわからぬと言ったな」


 異母兄が死んだとき、何故読めなかったと泣くことをこらえて歯を食いしばっていた楊喜の姿を思い出し、楊崔の眉根が寄った。


「その後、小さな予知はぽつぽつと当たったものの、不鮮明な予言も多く、場所や時期が不明だった。直近では、例の粤との会戦の前、二家の内訌のことも予知できなかった。幼い頃は、そういった不祥事が起こる前は必ず予知があったというのに」


 楊喜の母もまた、不思議な力を持った女だった。失せものを言い当てる力があった。

 だが、先代王に見初められてからはその力は消えた。

 母親の力を強く受け継いだと思われた楊喜は、巫女と同じ扱いを受け、世俗を離れた暮らしをしてきた。もちろん、夫を迎えることなどない。そんなことをして、貴重な力を失っては困るという周りの思惑があってのことだ。

 だが、力が薄らいでいるというのなら、いつまでもしまっておかず、利用したほうがよい。

 世知辛いが、そうして家を支えるのが、女の役目である。


「あれは、許すだろうか」

「許すも何も、仕方がないと仰って……。それくらいならば予見もなさっていたでしょう」


 楊崔はまだじっと中空をみつめていた。彼の心が複雑であることは確かだった。

 これまで守り神のようにしてきた妹を、敵とまではいかずとも心が通っているとはいえない相手に引き渡すのだ。肉親としても割り切れないだろうし、なにより政の目から見ても一様に賛同はできかねた。神聖な標を失うのは、硝の国民の精神的支柱がなくなるにも同じ。

 しばらく口を閉ざしていた楊崔が重い腰をあげ、向かった先は祖先の廟であった。



 昂典(こうてん)は、一人、城の後園へ向かっていた。


 藍の地に銀の縫い取りをした着物は上等だが、上役と会っても礼を失しない程度に質素だ。


 庭には大きな池に雅な朱塗りの橋がかかっている。湾曲して波を描く橋の先には、水上に張り出して東屋が建てられている。そこに人影を見付け、知らず頬が緩む。


 ここにいるのは、必ず彼女一人だ。

 彼女は昂典が訪れるとき、月が顔を出す前に人払いをしてしまう。

 昂典がその来訪を前もって知らせることはない。だが、彼女はそれがわかるという。

 今日もまた、彼女はひとり、退屈そうに欄干に肘をついて、欠けた月を見ている。


「姫、今晩もお一人ですか」

「そういうお前も一人だ」


 振り返りもせずにそう言って、楊喜(ようき)は手で隣を示した。

 並ぶことを許されて、昂典はおずおずと足を踏み出す。

 楊喜が振り返る。墨を刷いたような黒髪を一つに結わえ、黒曜石のように濡れて輝く黒の双眸が、月光を掬い取る。

 はじける美しさはないが、静かな湖面のように凪いだ美しさがある。美形というよりも、その湖の上澄みの下に沈殿した澱が、豊かな色味を添えている美しさである。


 昂典は水面に映った己の顔を見た。涼しげな眉目だが、武人としては迫力に欠ける。密かに周りに『武官の癖に優男だ』と馬鹿にされている事実を思いだすと、さらに気分が落ち込むし、楊喜より二つも年下ということも更に自信を奪っていく。


「二月ぶりか。それで?」

「多忙にかまけて御報告が遅れてしまいましたが、無事に外征より戻ることができました」

「それは何より。若く才あるお前が戦で散るのは、我が国の最も深い痛手となる。この国のためにも身を愛おしんでくれ」


 そのうち報奨がくだるだろう、といった楊喜の声音が下がって、昂典は、おやと思った。

 楊喜はいつも凪いだ湖面のように感情の起伏を面に出さない。

 といっても、それは負の面に限る。喜びや楽しみなどは見せても、悲しんだり不安がったりしているところを人に見せない。

 それが声音を下げるなど、よほどなにか気がかりがあるのだろう。


(お力になりたい)


 即座にそう思った己を、昂典は心中で叱咤した。

 出すぎた真似をして不興を買ってしまったら、この場に来られなくなる。それは嫌だった。

 しかし、できるならその不安を散らしてやりたいと思う気持ちも強い。

 少し考えて、楊喜が自分から話すまでは黙っていよう、話しやすいように心をほぐそうと決めた。


「この度の外征、姫の御助言のおかげで命を救われました。伏兵がたしかにありました。危ないところでした。ありがとうございます」

「役に立ってよかった。次も役に立てるかもわからないが、気が向いたらここへ」


 それだけ言うと、楊喜は池のほうに向き直り、昂典に背をむけてしまった。

 いつもなら他愛ない話ができるはずなのに、気が向かぬといわんばかりの態度である。

 それに幾分傷つきながらも、いよいよ何かあったなと、昂典は勘繰った。


「……そういえば、もうすぐ桃の季節ですね。姫は桃がお好きですか?」

「好き。果実は特に好き。甘いものはなんでも好きだ。最近肥えてしまった」


 あからさまに強引な話題転換だったが、今度は穏やかに話しに乗ってきた。

 おそらく、政に関する話題が嫌なのだろうと昂典は読んだ。

 この先視の姫が、楊家の秘宝であることは知っている。

 彼女の進言で、先代の楊楽が昂家を攻め立てたことも。

 そのことに負い目を感じて、本来なら話しかけるどころかこうして横に並ぶことすら許されない身分の昂典を、気安く傍に立たせることも。

 他愛ない話を続けながら、昂典は数年前、初めてこの不思議な姫と会ったときのことを思い出していた。



 今よりさらに(しょう)の内部が複雑だったころ。昂典(こうてん)が家を滅ぼした男に仕え始めたころ。


 覚悟はあった。恨みや憎しみを押さえ込み、昂家復興のために尽力するという覚悟は。

 だが心というのは御し難いもの。憎しみと、大いなる目標とのあいだで板ばさみになり、まるで自分が真二つに裂かれたような苦しみを感じながら、昂典は毎日を過ごしていた。

 会議はその最たるもので、昂家として豪族の肩を持てば、(よう)家との関係が悪化して復興が遠のき、かといって豪族らをおろそかにしては昂家の影響力が下がってしまう、ぎりぎりの綱渡りの連続であった。


 人より少し怜悧な頭を持ってはいたが、それでも心まで理詰めで処理できるものではない。

 その鬱屈に胃の腑が締め上げられ、眠りを妨げられた。

 つまらないことでかっとなり家臣を怒鳴りつけてしまったり、些細なことで塞ぎこんで何も手がつかなくなったりと、とにかく正常な精神とはいえない状態が何日も続いていた。


(限界だ……)


 無人の書庫でひとり曙光を見ながら、頬を濡らしていた。

 帰っても家人はなく、夜語りに付き合ってくれる者もいない。孤独感に苛まれながら、手元の竹簡を開く。

 それでも会議の資料を読まねばならない己を激しく嫌悪しながらだった。

 開いた竹簡に、木の札が挟まれていた。

 新しいもので、とても小さい。書かれている文字も新しい。墨の香りが消えていない。


『駐屯』


 その二文字が書き記されていた。角張った、だが乱れのない手蹟である。

 誰かが覚書をして、誤って巻きこんでしまったのだろうか。

 そう思いながら、その(ふだ)を近くの棚に置いてまた当然のように、資料へ目を戻した。



 彼はその晩、不思議な気持ちで書庫をおとなった。

 その日の会議の議題で、昂典に与えられた問いの答えが、『軍を駐屯させ、示威する』というものが最も適していたからだった。

 問いかけをされたとき、疲労でまともに頭が働かず、とっさにその言葉を吐いていた。

 あとは驚くほどすんなり話が通ってしまった。

 交戦派と黙認派に分かれた国境防衛の議題は、交戦派である尹延(いんえん)と黙認派にあたる地方豪族とで揉めに揉めていた。

 皆が互いの主張を譲らずに、収拾の付かない状態に陥っていた。


 そこに、豪族代表の昂典が折衷案を出し、ゆるゆると収束していったのである。


 結局は折り合いをつける頃合を逸しての議論だった。そもそもそこまで揉める程ではないつまらぬ話なのに、確執が互いの正常な判断力を奪っていたといえる。

 その踏み出しづらい部分に、昂典が一歩足を出したことが効を奏した。

 いずれは、折衷案を採らねばならぬことは、誰の目にも明らかだった。きっかけを作った昂典に、楊崔(ようさい)だけではなく豪族の一部からも密かな褒詞を受けた。


 心が、少し軽くなった。


 書庫に戻ると、あの(ふだ)はなくなっていた。

 一体誰が書いたのだろう。不思議に思いながら、昂典はまた書庫を訪れていた。

 それから、度々、書庫で開く竹簡に牘が挟まれていた。

 そこには簡潔な言葉が載っているだけだったが、それが大いに昂典の力となった。

 発言のきっかけとなったり、振る舞いの規範となったり。

 いつからか、昂典は牘の主を探っていた。会って礼をしたい。これだけ何度も繰り返されれば、これが偶然でないことは明白である。

 では誰がこのような真似を。そう問うと、一人しか思い浮かばなかった。

 噂でしか聞いたことのない楊家の長女だ。予知の力があるという。

 だが、なぜ彼女は自分を影で助けてくれたのだろうか。

 不思議だったが、とにもかくにも、礼をしたかった。

 誰も味方のない、静かな戦だと思っていた人生に、味方がいた。どれだけ嬉しいことか。


『一度、会って御礼申し上げたく』


 昂典は万感をこめ、言葉を牘にしたため、竹簡に挟み込んだ。

 果たして、翌日、その牘は消えていた。

 代わりに挟み込まれていた牘には『礼には値せず』とそっけない一言があった。


 その日から、牘に短い一言を書付け、言葉を送ることが増えた。


 それは礼の言葉だけではなく、他愛のない話もあった。

 顔も知らない相手は、律儀にそれに返してくれる。それがたまらなく嬉しかった。

 いつの間にか、心身の不調も失せていた。

 昂典は常にその『先視姫』に「会いたい」と思っていた。

 会って、彼女が、どのような人物か知りたい。それは身分を思えば大それたことだった。

 その日、昂典は書庫で待っていた。

 もし、彼女が自分を拒みたければ、その日に書庫に現れることはないだろう。

 先視で、避けるはずだった。

 一日千秋とはこのことか。緩慢な時の流れを感じながら昂典は待った。

 もはや、諦めかけた暁のころ、静かに書庫に滑り込んだ人影があった。


『こんな遅くまで起きていたら、朝議で居眠りをするのではないか』


 そう言ってにやりとした娘こそ、楊喜(ようき)であった。姫巫女という神聖さに冷たさを感じるような人物ではなかった。たしかにそこに、体温のある人がいる。

 この人が自分をずっと見ていてくれた。

 昂典は自然と頭を下げていた。

 その涙をぬぐって昂典を立たせると、楊喜は逆に泣きそうな笑顔で告げた。


『礼を言われるのは心苦しい。昂家を攻めるよう兄に進言したのは私。お前は私のせいで、これから苦界で生きていかねばならぬ。これはせめてもの罪滅ぼしだ』


 だから礼はいらぬ。だが、私は楊家のために、お前に謝罪は出来ぬ。

 その総てを許容して内包して、痛みを飲み込んだ笑顔を見て、昂典の胸が締め付けられた。

 この人は自分と同じ苦しみを抱えている。

 見たくもない政や戦の血生臭い部分をつぶさに見てきた。

 そして、己の使命感――(しょう)の永続――の為に、あらゆる手段を講じて影で苦しんでいる。

 その一環に自分への助力も含まれているのだろう。


 頬の涙をぬぐい、肩を優しくなでてくれる、華奢な手のぬくもりを感じる。

 この人は、その苦しみをこの細身ひとつで耐えているのだろうか。


 ――その苦しみを肩代わりすることは、……せめて分かち合うことはできないだろうか。


 さっとうなじのあたりが熱くなったことを覚えている。

 楊喜が先視はできても読心ができなくてよかったと、心底思った。

 なにしろ、この不遜な思いを吐露する覚悟は、まだない。

 そして、気づいた。

 その心を打ち明けることができる日が、来るはずがない。

 彼女は楊家の生き神なのだから。身分が違いすぎる。


 生まれたと同時に黙殺される運命の心に、懊悩するようになったのは、その日からだった。




「姫、何か心配なことが?」


 しばらく雑談を楽しんだあと、昂典(こうてん)は尋ねた。

 楊喜(ようき)は表情を変えなかったが、それまで盛り上がっていた雑談の余韻の熱が、すっと引いていくようにまとう空気をかえた。相変わらず、笑顔だが憂いがある。

 長い沈黙の後、楊喜は重い口を開いた。


「昂典、お前はいきなり私を妻にと言われたらどうする」

「は……」

「そんなに嫌そうな顔をするな。……まあ、おそらくそう言われればどんな男も貴方と同じような顔をするのだろう」

「嫌だなんて、そのようなこと、断じてありません。断じて!」

「ふふ、そんなに慌てて取繕わなくても、怒らん」


 楊喜はくつくつと笑った。


「ですから、本当に……! それより、なぜそんなことをお訊きになりますか。まさか」

「降嫁されることとなった。内密ゆえ、相手についてはお前にも言えないが」

「降嫁……」


 急に膝から力が抜けるような感覚を覚えて、昂典は必死にふんばった。

 形容し難い疼痛が、胸に生まれる。ぎこちない笑顔を浮かべるので精一杯だった。


「昂典?」


 楊喜が、なんともいえない顔をしている。

 昂典は後悔した。自分の気持ちは悟られただろう。なんとみじめなことか。


「姫の、幸せを祈っております」


 そう短く告げて、昂典は踵を返した。逃げるようにしてその場を去った。

 背中に楊喜の呼ぶ声がかかったが、振り返る勇気などなかった。



 走り去った昂典の背中を、茫然として楊喜は見つめていた。

 それまで穏やかに笑んでいた昂典の顔が、まるで仮面をはぐようにさっと青ざめていった。

 それは月下でも分かるほど、鮮やかな変化だった。

 胸が、圧迫されるように痛む。頬が熱い。


 ――まさか、そんな都合の良いことがあるのか。


 確かめようにも、彼女の繻子の靴では、軍靴の彼に追いつけるはずもない。

 一人になってしまった東屋を、池の漣の音と自分の心臓の音が支配している。

 やがて彼女は頭を振った。その顔は打って変わって、苦渋に満ちたものだった。

 楊喜は知っている。あらゆる意味で、別な男に嫁いでも自分に幸福などないことは。


『貴女は、(しょう)の未来を担う祝女(はふりめ)。硝のために生き、硝のために死ぬのです。何においても、硝を――楊家の存続を優先するのです。どれほど忌まわしいことをしてでも』


 寝台に臥せって楊喜が思い出したのは、おぼろげな母の顔だった。

 同じ様な力を持っていた母は、その言葉通り硝に尽くして死んだ。


 もう嫁いでしまった末の妹・(こう)を母が身籠ったとき、楊喜は五つだった。


 楊喜は産褥熱で母が死ぬ事を予知した。そして、香を隣国・(ろく)に嫁がさなければ、(ろく)と麓との挟撃にあい、硝が滅すことも。


 母は迷わず香を産み、死んだ。

 幼いながら、楊喜は悟った。これが、自分も辿るのであろう未来だと。

 その言葉は、今でも杭となって楊喜の胸に残っている。


 目を閉じる。


 見えるのは、燃え盛る炎。自分は、誰かの力強い腕の中にいる。


 もう一つの光景が重なって見える。老人が喀血し倒れる瞬間。

 それは老いてはいるが、たしかに兄の楊崔(ようさい)で――。


 きつく目を閉じ、楊喜は自分の胸に手を当てた。たしかに心の臓が時を刻んでいる。


(こんなもの、止まってしまえばいい)


 そんなこと、楊崔や尹延(いんえん)、そして昂典の前で言えば叱咤されることだろう。

 わかっていても、楊喜はそう思わずにはいられなかった。

 おそらく、……いや、必ず自分は昂典との婚姻を承知するだろう。

 それが、忌まわしい未来――楊家断絶を回避するためのたった一つの道だから。

 だから、昂典のもとへ嫁ぐ。その為に、嫁ぐ。


(本当は……)


 本当は。そんな建前など、欲しくない。

 昂家の再興に力を尽くす彼に、そっと寄り添っていたい。

 それができたら、どれほど……。

 目を閉じていると、見える景色がふわふわと変わっていく。

 火の中の自分の意識は消え、代わりに兄の葬式を見る。

 兄の血族が、総て死に絶えていることが『視えた』。


 楊家断絶。硝の消滅だ。


(許されない。それだけは、許されない。父上から受け継いだ血脈を絶やすなど)


 もう一つの景色が見える。

 晴れた草原で、昂典が笑んでいる。足元を走るのは、小さな子供だ。


 ――昂典の子。そして、楊喜の子。楊家と昂家の血を未来へ繋ぐ、唯一の存在。


 穏やかで屈託なく笑う昂典の双肩に、やがて硝の王としての重責がのしかかるのが視える。

 豪族をまとめ、他国との力を拮抗させるという重責。

 昂典との婚姻は、楊家を繋ぐために必要な措置でしかない。

 それ以上でも、それ以下でもない。彼は楊家に利用されるためだけにある。


(苦しい)


 目を開くと、天井があった。未来の景色は消え去る。

 力が弱まったなどというのは、嘘だ。総ては昂典に嫁ぐための布石。

 昂典でなければならないのだ。硝を背負えるのは、彼しかいない。そう、天が示している。

 そんな打算で、あの誠実な青年を操るのは、苦痛だった。

 彼の一生を縛り付けることになる。その罪悪感に比べれば、自分の心を秘めたまま、彼に恨まれたほうがましだった。いや、それこそ、昂典への罪滅ぼしになるのではないか。

 昂典には、子を成した後、先視の総てを吐露しよう。そうして自分を嫌ってくれればよい。

 せめて、彼の心だけは自由にしてやりたい。自分なんかを想って、その為に死んでいくなど、哀しすぎる。


「――ふふ、それじゃあ、私の心はどこへいけばいいんだ」


 つぶやくと、眦から涙が一筋だけ零れた。



 足を止めると、魂さえ吐き出せそうな深い深いため息が漏れた。

 歩哨が訝しげにこちらを見ている。その視線を遮るために、ゆっくり歩き始めた。

 邸宅に戻る気にならなかった。戻れば、使用人たちが世話を焼いてくれるだろうが、今は野辺でごろりと横たわってしまいたい。


(まさか、今晩、こんな決着がつくとは)


 自嘲気味に笑う。ずっと温めてきた想いを、こうも容易く打ち破られるとは。

 戦場では『若獅子』などと渾名される昂典(こうてん)だが、今はただの十七の青年だった。

 肩を落として、楊喜(ようき)に会うために整えた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

 酒は苦手だが、今夜はそれに頼らざるを得ないだろう。そうでもしないと、心の均衡を保てない気がした。

 髪をかき回した手を見る。剣を使うときにできた硬いたこがある。


 初陣は十四のときだった。その時はただ討ち死にに怯えて出陣した。

 だが、今は違う。一つでも多くの首級をあげて、あの人に褒めて欲しかった。

 怪我をすれば、あの人は怒ったような困ったような顔をして、いたわりに満ちた手で優しく傷に触れてくれた。それが何よりの報奨だった。


 それも今日で終わり。


 彼女が自分のものになることはないとわかっていた。

 これからは昂家の長として、ただただ昂家復興のために力を尽くせばいい。

 そして、それが成ったら――。

 成ったら、なんだというのだろう。

 そこにあるのは、ただの干からびた、夢の残骸だった。


(父上、こういうとき、私はどうしたらよいのですか)


 仰向けば、憎らしいほどにきらめく星と月。


「昂典ではないか」


 耳に覚えのある声がして、昂典は振り返った。歩哨がしゃっちょこばって拱手する。

 楊崔(ようさい)が、尹延(いんえん)と数人の供回りを連れて歩いてきた。

 こんな時間にこんな場所を歩いているような人物ではない。

 ぎょっとし、拱手した昂典の頭の上から、声が降ってくる。


「父上の墓前に参ったのだ。お前はこれから帰るのか」

「はっ」

「少し付き合え。尹延、お前だけ着いて来い」


 緊張したまま、昂典は偉丈夫の後を追った。城の方へと逆戻りである。

 通されたのは、楊崔がよく尹延ら腹心と会食を行う部屋だった。

 すぐに酒が運ばれてくる。杯を手に、楊崔が口を開いた。


「お前、室はいたか。何人いる?」

「は……? あの?」


 唐突な問いに、昂典は困惑しながらも首を横に振った。

 十七にも成れば妻や側室は当然、子も一人、二人はいるものだが、昂家の逼迫した状況から昂典はまだ独り身であった。

 楊崔が杯を一気に煽った。


「お前に嫁がせたいものがいる」


 今一番、避けたい話題だった。露骨に顔に出てしまったのだろう。楊崔が鼻息を荒くした。


「貴様、我が妹では気に入らんとでもいうか」

「殿、殿。まだ昂典は何も言っておりません」


 楊崔は酒が好きだが極端に弱い。たった一杯で顔がゆでたような赤になっている。

 尹延が宥めると、楊崔はさらに杯を仰ぐ。


「お前は先の外征で、目覚しい成果を上げたからな。褒美だ。何、美女とはいかぬが、声などはなかなかよいぞ。歌も上手い」

「昂典、殿は先ほどまで大殿の墓前で激しく懊悩なさっていたのだ。神聖なる楊喜姫を嫁がせるとは、これ大事。その相手が貴殿である事は、光栄であろう」

「少し嫁ぐのが遅くて、何が悪い!」

「殿、殿。もう、そのくらいになさってください」

「おい、昂典、何か言え!」


 胸倉を掴まれて、ようやく昂典は瞬きをした。

 だが、頭の中は混乱の極みにあった。


 楊崔の妹を娶る。それは、つまり――。


「殿、……よろしいのですか。その、楊喜様を、私のような若輩に」

「なんだ、なにか文句があるのか!」


 昂典の心臓が、強く脈打った。そこから、溢れんばかりの喜びが、全身に広がるような錯覚を覚え、彼は膝の上の拳を強く握った。

 ぐでんぐでんになっている楊崔の前で、叩頭する。


「ありがたく、……ありがたくお受けいたします!」

「昂典、安心しなさい。今、殿は酔うていらっしゃるが、酔いがさめてもこのことは覆らぬ」

「はいっ」


 心臓がはちきれそうに高鳴っている。地の底から、天のきわみまで放り投げられた心地だ。


「誰か! 殿はお休みになる!」


 尹延が叫ぶと、さっと数人の召使達がやってきて、尹延と供に正体をなくした楊崔を連れて行った。

 残された昂典は、頬が緩むのを禁じえず、じっと空の杯を見つめていた。


(姫が、私の元に)


 これ以上の僥倖があるだろうか。

 踊りだそうかというところで、ふとひっかかるものがあった。


(姫は暗い顔をなさっていた。……まさか、私のことが、お嫌いなのか)


 ありえる。そこで気持ちが一気に萎んだ。

 更に気になることが一つ。


(力が、弱まったというのは……?)


 楊喜は外征の前など必ず昂典に助言をくれた。それのどこが衰えたというのだろう。

 喜ばしい事なのに、ちくちくとひっかかりを覚えて、昂典はまた下を向いてしまった。



 暗い部屋に、薄ぼんやりとした獣脂の蝋燭の明りが灯っている。


「つかめたか」


 声は、尹延(いんえん)のものだった。彼を含めて人の気配は、全部で二つ。


「はい。三人ほど、(えつ)の者が紛れ込んでおりました。今、他の者を吐かせているところです」

「ぬかるな。一人も残すなよ」

「御意」


 いらえとともに、気配が一つ消失する。

 残された尹延は、暗闇の中、長大息を洩らした。

 粤との戦は終わっていない。少なくとも、尹延にとっては。

 先ほどの男のような、尹延が飼っている『虫』たちは、粤の懐にもぐりこみ内情を探り、ときに行動に移す。

 しかし、それは粤も同じ。おそらくこの硝にも、粤の細作が複数もぐりこんでいることだろう。これは静かな戦であった。


 尹延がこういう細やかで汚れた仕事をこなすのも、総ては(しょう)、ひいては楊家の者たちのためだ。やがては、昂典もこれに携わるようになることだろう。


 ――昂典(こうてん)


 あの不遇で健気な青年を思うと、尹延は同情と期待を覚える。


 まず信頼に足る人物だ。たとえ、過去の事があろうとも、彼は誠実であり、よく分を弁えている。武の才もある。いずれ自分と比肩する殿の寵臣となるだろう。

 彼になら、楊喜(ようき)のことも任せられる。

 だが、楊喜を預けるなら、もっともっと強かになってもらわねばならない。

 調査によれば、粤ではこんな噂が広がっているらしい。


『先の敗戦は、硝の先視の巫女が搦め手を予言したためだ』


 楊喜の身が心配だった。奥に匿われていても、油断はならない。

 一刻も早く、敵の細作を洗い出さねば ……。



 楊喜が会ってくれない。


 とぼとぼと、無人の東屋を後にして、昂典は空を仰いだ。今晩は新月だ。

 あの晩から、毎日ここに通っているのだが、楊喜は現れてくれなかった。


 自分が礼を失して走り去るようなことをしたからか。

 あるいは、自分がこれから問いかけようとする内容を予測してなのか。


 のぼせていた頭も、流石に冷えてくる。


 なんとかして、話す事はできないだろうか。

 そう考えて思いついたのは、書庫だった。(ふだ)に用向きをしたためて、竹簡に挟もう。


 誰もいない深夜の書庫にもぐりこみ、筆をとる。

 以前はよくここでこうして夜を明かしたものだと、懐かしく思う。


(どうかあの日のように、この牘が、あの方へ届きますように)


 磨ったばかりの墨の香りが、鼻腔をくすぐる。



 月がない夜は、やはり見通しがきかない。

 だが、東屋の人影が、しょんぼりした足取りで帰っていくのは見えていた。

 二階の外回廊から、帰っていく昂典の後姿を見送って、楊喜は唇を噛んだ。あの背に一つ声をかければいいのに、舌が凍り付いてしまう。


 そうこうしているうちに、何日がたっただろう。


 兄からは、明日、昂典に降嫁することを朝議で正式に決定すると通告された。

 その前に、せめて一言、言葉をかわしたかった。


(でも、一体何を言うというのか)


 苦笑しようとして、失敗する。諦めの吐息が夜の風に消える。

 踵を返し、私室に戻ろうとしたときだった。


 物音を聞いた。使われていない、開き部屋からだ。

 ねずみの足音にしては、重たい。


 好奇心に突き動かされて、楊喜はそっと格子窓を覗き込んだ。

 格子に、指先が触れたときだった。びりっ、と指先に小さな痛みが走った。


 警鐘だ。そう理解したときには、もう遅かった。


 格子の中、爛々と輝く双眸と、目が合ってしまった。

 黒装束の男が一人。その男の腕の中には、動かない歩哨が一人。血溜り。


「あっ……」


 悲鳴をあげようとした楊喜の首筋に、衝撃が走った。



 ふと、手が止まった。墨の香りに混じってきな臭さが鼻をついた。

 昂典(こうてん)は、(ふだ)を懐に仕舞い、書庫を出た。歩哨が拱手するのを手で止める。


「何か、臭わないか。きな臭いぞ」

「た、たしかに……。ああっ、あれは……!」


 歩哨が叫んだとき、昂典は走り出していた。

 奥殿から幾筋かの煙が上がっている。箇所はばらけていて、ただの小火には思えない。


「誰か! 奥殿が火事だ! 水を持て!」


 昂典の叫びに、室内にいた者たちが出てきて、大騒ぎになった。

 渡り廊下を駆けるのももどかしく、昂典は欄干を飛び越えると、玉砂利の敷き詰められた庭を横切り、剪定された細木を踏み倒して後園に飛び込んだ。


 蜂の巣をつついたような騒ぎだ。侍女が悲鳴をあげて逃げ惑い、兵士達が怒鳴りあって火に水をかけたり、財物を運び出している。

 火の一部は天井に達しており、夜空をじりじりと焼き焦がしていた。


楊喜(ようき)様は? 楊喜様はいずこにっ」

「ぞ、存じ上げません。半刻前から、お姿が見えずに……」


 問いかけた女官はおどおどするばかりだ。舌打ちした昂典に、横合いから声がかかった。


「昂典! 無事か!」

尹延(いんえん)様。私は無事ですが、姫が……! それに、この大火は一体?」

「探させているが、楊喜様は行方が分からぬ。……っく、こんなときに。私は、あちらを探す。お前はそちらを。(えつ)の細作がまぎれている可能性もある。気をつけよ」

「粤の?」


 最後の一言は、耳元でのささやきだった。聞き返すも、尹延は既に走り出している。

 みしみしと不吉な音を立て、屋根の一部が倒壊し、悲鳴が上がった。

 こうしてはいられない。昂典も腰の剣を確かめてから、走り出した。

 

 厨房、応接の間、宝物庫、閨房、そして後園。


「楊喜様! 楊喜様っ!」


 声の限りに叫んでも、返事はない。炎の燃え盛る音にかき消され、届きもしないだろう。

 逃げる人々に踏み荒らされた後園で、弾む息を整えるため、足を止めたときだった。


 炎をぎらりと何かが反射するのが視界の隅に映った。弾かれたように、昂典は振り返る。

 二階の回廊に、黒い影が一つ。さっと炎にまぎれて消えた。


「待て!」


 昂典は欄干に駆け寄ると、飾りを踏みつけ勢いよく飛び上がり、二階の欄干に手をかけた。

 膂力に任せて欄干をよじ登り、影の消えた炎へ身を投じる。



 軽い眩暈と吐き気がする。ゆるく首を振って意識を覚醒させると、焦げ臭さが鼻についた。


 楊喜は目を開けた。がらんとした、開き部屋だった。

 後ろ手で縛られている。足首もだ。頬を床に擦り付けるようにして、転がされている。

 目だけを動かして、格子窓を見ると、外は昼のように明るかった。

 燃えているのだ。悲鳴や怒号、それに混じって建物が崩壊する音が聞こえる。


(一体、何が……。たしか、黒装束の者を見て……)


 昏倒する直前の記憶が甦った彼女の前に、音もなくその人物が降り立った。


「楊喜、で間違いないか。偽れば殺す」


 髪を鷲掴みにされて、首筋に冷たいものをあてられた。楊貴の背筋が粟立った。


「……楊崔の妹、楊喜をさがしているのなら、そうだ」

「よし、ならばその力を見せよ。もっているのだろう、予知の力を」


 殺されるわけにはいかない。だが予知の力とて、万能ではない。逡巡の後、楊喜は言った。


「これから私を探しに、一人の青年がくる。昂典という名だ。彼はお前を殺す」


 とっさに口を突いて出たでまかせだった。願望、でもあった。


「ふん、それは愉快だ。行くぞ」


 髪を引っ張られて、肩に担がれる。この男が何者かは知らないが、硝もしくは楊家に敵対する者だということはわかった。

 男はごく静かな足取りで焼ける回廊に飛び出すと、疾風の如く走りだした。

 楊喜の簪がしゃらしゃらと転げ落ちる。炎の手が頬を撫でる。煙に目を刺激され涙が浮く。


(ああ、あの先視はこのときの)


 強い腕に絡めとられ、炎の中にいる自分。あの景色が今、実現している。

 天井が、不気味な音を立てている。もうすぐ崩落するだろう。


(こんなことになるのなら、躊躇せずに昂典に思いの丈をぶつけるのであったな)


 己を嘲笑して、彼女は涙をこぼした。

 その時、風が唸った。楊喜の耳元を過ぎ去って、それは太い朱塗りの柱に刺さった。

 護身用の懐剣だった。男が足を止め、振り返る。


「姫を放すがいい、下郎!」


 息をきらし、眉を吊り上げて昂典が欄干の上に立っていた。


 

 刃同士をすり合わせ、攻撃と防御が入り乱れる。

 昂典(こうてん)の剣が下から跳ね上がり、黒装束の顎を狙う。黒装束はその斬撃を、素手で剣の腹を殴り、避け、間髪いれず、腕を交差させた鋭い突きを繰り出す。

 昂典は突きを避けず、逆に打って出て、黒装束の剣を持つ太い腕を掴み、それを支点に地を蹴った。孤を描き、黒装束の男を飛び越え、後方に着地する。すぐさま地に這えば、昂典の髪の数本を切断する横一閃。


 刃が頭上を通り過ぎる風圧を感じながら、昂典は、具足を纏っていない黒装束の男の足首を薙いだ。


「ぐっ……!」


 呻き、男は体を傾がせた。苦し紛れの大振りの一太刀が降ってくる。

 その剣に交差させるように、昇竜のような突きを、昂典が放った。


「姫!」


 喉に剣を生やして、どう、と倒れる黒装束の男など振り返らず、昂典は楊喜(ようき)に駆け寄った。

 楊喜は髪がほつれ、靴も脱げ、薄物の上掛けも裂けてしまっている。頬には煤と涙のあとが残っていた。


 柱に突き立った懐剣を引き抜き、楊貴の手足の縄を切り落とすと、白い肌には赤黒いあざができていた。

 昂典は思わずその柔らかな頬を両手で包むと、汚れを指で拭っていた。


「姫、姫、御無事でよかった。よかった……」


 しかし、おかしい。体に力が入らない。いけない、と思ったときには、楊喜にもたれるようにして、倒れていた。



「昂典、しっかり!」


 黒装束の男の最後の一太刀を肩に浴びた昂典は、それすら気付かぬ様子だった。

 どくどく流れる血を、楊喜は必死に手で押さえて止めようとする。


(毒が……、毒が塗ってあったらどうしよう)


 昂典の顔色はみるみるうちに蒼くなっていった。天井が軋んでいる。


(もう、助かる道はない)


 諦念が、楊喜を捕らえた。


「……姫、欄干より飛び降りるのです。池に落ちればきっと助かります。私のことは捨て置いてください」

「いやだ。お前を置いてはいけない。お前、私の夫となるのだろう」

「一時の夢でしたが、それで十分私は幸せでした」


 満足そうに笑い、昂典はまた楊貴の頬に手を添えた。たこのあるごつごつした感触がする。

 その手をとって、楊喜は叫んだ。


「ばか者! まるで、し、死ぬようなことを申すな! お前は私の夫となって、(しょう)を担うのだ。死ぬまで私の横で、馬車馬のように働くのだ! そういう運命だと先視がでている。どうだ、憎かろう? 仇の娘に人生を握られるのだぞ。悔しかろう。悔しかったら、こんなところで死ぬなどと申すな!」

「まさか、そのようなことを気になさっていらしたのですか。そんなことは、些細な……」


 力なく笑って、昂典は目を瞑った。

 返事はない。

 楊喜は、昂典の胸に顔を伏せて叫んだ。


「いや。……駄目だ、昂典。逝くな! 逝かないで!」


 お前は、私と子を成して、この楊家を盛り立てるのだ。先視が、絶対の先視がそう出ているのだ、違えるはずがない。


 そう、違えるはずがないのだ。


 顔を上げた。楊喜の黒い双眸には、強い光があった。決意の光だ。


「私の、……この力が揺るがぬ限り、私たちは今ここで死ぬはずがない」


 立ち上がり、昂典の脇に腕を通して、渾身の力で引っ張った。欄干までの距離はわずかだ。

 重たい。重たい。重たい。音を上げたくなる。だが、止めない。

 真っ赤な顔をしてどうにか運ぶと、昂典を欄干に寄りかからせて、自分はその外側のわずかなでっぱりに降り立った。風でも吹いたら落ちるだろう。

 全力で、昂典を引っ張り上げる。不可能かとも思える作業だった。


「楊喜様! なんということを!」


 下から、尹延(いんえん)の悲鳴が聞こえた。無視する。

 奥の廊下で不吉な音が響いた。きっと崩れ落ちたのだ。

 身を預けた欄干が軋んだ。支えている柱が傾いている。もう、もたない。


「昂典、お前は私が守るから! お前に恨まれても、お前を生かすから!」


 昂典を抱きしめて、楊喜は体重を後に傾けた。その時、欄干が崩れた。


 落ちる。まっさかさまだ。下は、池。


「楊喜様―っ!」


 尹延と家臣の叫びが聞こえた。


 放すまいと、腕に力を込めた。

 その上から、頭を抱え込まれた。

 昂典のにおいとぬくもりに包まれる。


「姫。それでも私はお慕いしております」


 耳元で、確かに囁かれた言葉に、楊喜は目を見開き――、閉じた。

 涙が一粒零れる。


 ――今、このとき死んでも悔いはない。


 そして、大きな水柱が上がった。



「殿、申し訳ありません。残りの間者は取り逃しました」

「追手を(はな)っておけ。……今は、楊喜(ようき)が無事であった事だけで十分だ」

「亡き大殿がお守りくださったのでしょう」

「そうであろうな」


 焼け落ちた奥殿を本殿の渡り廊下から見ながら、楊崔(ようさい)尹延(いんえん)は話し合っていた。

 死者はおそらく三十を越し、怪我人はさらに倍に達するだろう。

 全焼した奥殿のまわりには、人だかりが出来ている。


 その輪から離れたところに、簡易の寝台に横たわる昂典(こうてん)の姿がある。

 典医は命に別状はないと診断した。


 彼のかたわらに立つのは、ずぶ濡れの楊喜だ。


 楊貴の言葉に頷いては微笑む昂典は、疲れてはいるが、晴れがましい顔をしている。

 二人を見て、楊崔と尹延は顔を見合わせ、苦笑した。


「ばか者! こんな大怪我をして! 命を落としたら、どうするつもりだったのだ」

「姫を救えればそれでよかったのです」

「私はよくない。ちっともよくない」


 半泣きの楊喜を、昂典が穏やかな目で見つめている。


「私は、今まで、楊家のためにお前を利用するために恩を売るような真似をしてきたのだぞ。力が弱まっただなどと嘘までついて、お前の懐に忍び込もうとした女なのだぞ」

「それは酷いですね。せめて、手に手をとって共に歩もうとおっしゃってくださればいいのに」


 昂典は苦笑した。今まで押し殺されてきた楊貴の本心を聞けることに、満足していた。


「そんな図々しい真似、……できぬ」

「それならば、私の望みを一つ叶えていただけませぬか。そうすれば、硝の為、楊家・昂家の共栄の為、ひいては姫のために、惜しまずこの一生を捧げましょう」

「何を……?」

「――九泉に旅立つまで、傍にいてください」

「……ばか者」


 己の手を握り、縋るようにしてむせび泣く楊喜の髪を梳り、昂典は静かに笑んだ。

 焼け残った後園の桃の蕾が、ようやく、咲き初めようとしている。


〈了〉


蓮が咲いてるのに桃の季節って書いてる…。

あちゃーとなりましたが、あえてそのままにしておきます。

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