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森の大きなクマさんは  作者: ふとん
3/22

お料理上手

 翌朝ウルを待っていたのは、温かな甘い匂いだった。

 

「パンケーキ…」


 ウルが寝ぼけ眼で呟くとその匂いがはっきりと鼻腔をくすぐる。間違いない。

 近頃硬い塩パンばかりだったウルの胃袋がこれはパンケーキだと告げている。母が元気だった頃、時折食卓に並んでは兄弟たちと奪い合いになった。懐かしい黒スグリのジャムの味まで蘇ってきそうだ。

 

 ウルは身づくろいもそこそこに、転がるようにして部屋を出た。早くしなければパンケーキを捕まえ損なうと思ったからだ。


(そうだわ、ここはうちじゃないんだった!)


 ようやく他人の家にやってきたのだと思い出して、ウルは階段を三段駆け降りたところで足音を静めたが「降りて来い」と階下から呼ばれてあえなく顔を赤くした。ばれている。


 渋々、それでも淑女として最低限の矜持で階段を降りたウルを待っていたのは素晴らしい甘い香りだった。

 香りに誘われて部屋に入るとそこは狭いダイニングで、木目の揃った品の良いテーブルや可愛らしい椅子が二脚揃えられたダイニングセットには若草色のランチョンマットの上で大皿のパンケーキが待ち構えている。ジャムとクリームが脇に添えられた小皿の他にベーコンとサラダの乗った皿まである。朝から何と豪勢な食事だろう。


「早く座れ」


 ダイニングの奥から現れたのは、昨晩散々言い合いをした熊男。どうやらダイニングの奥はキッチンに続いているようだ。彼の手には紅茶のポットがある。

 有無を言わさない様子の男に逆らえずにウルが大人しく席につくと、彼はウルの側にセットされたカップに温かい紅茶を注いでくれた。


「も、申し訳ありません!」


 ウルは使用人としてやってきたのだ。いくら雇い主に言われたからといって何を大人しく座っているのか。だが立ち上がろうとしたウルを無視して男は「冷めるぞ」と言って自分も彼女のはす向かいに腰かけてしまう。

 その様子に結局何も言えずにウルも席につく。


「とりあえず食え。あとで話がある」


 熊男はそう言って食べ始めるので、ウルも食欲に負けてナイフとフォークを手にした。このカトラリーも取っ手の部分が丸みを帯びた白で何とも可愛らしい。およそ熊のイメージとは縁遠い。

 そこかしこに伺える熊男の少女趣味は気になるが、ウルはさっそくパンケーキに手をつけた。

 まずそのままで一口食べてみる。


(おいしい!)


 ふわふわの生地から小麦の甘い香りまでするようだ。口解けは柔らかく、喉に通る頃にはすっかりウルを虜にしている。

 急いで次の二口目をとジャムを乗せて食べてみると、ジャムは黒スグリだった。ふんわりした生地に黒スグリの甘酸っぱさが表れてウルを更に幸せにしてくれる。

 次にクリームを乗せて食べると、今度はこってりとしたミルク味がふわふわの生地にしっとりと滲みこみウルの腹を満たした。


(なんておいしいのかしら)


 正直言って実家でのパンケーキは飢えた兄弟たちのために大量に焼くので味は二の次だ。今食べたパンケーキに比べれば小麦はもっとダマになっているし、ミルクをケチって水でとくからかこんなに甘くないしふわふわじゃない。


(みんなに食べさせてあげたいわ)


 故郷の家族の顔が浮かんでウルはうっかり涙ぐみそうになってパンケーキをぐっと睨んだ。おかげで涙は引っ込んだが、はす向かいから視線を感じて顔を上げると熊男がこちらを見ているではないか。


「……な、何か?」


 今更態度を改める必要があるのか分からないがとりあえず繕ったウルに「いや」と男は簡単に答えて、器用にパンケーキを口に放り込んだ。彼の方のパンケーキにはジャムではなく野菜と共にマスタードとソーセージが乗っている。極力甘くないレシピのようだ。


(……今、笑ってなかったかしら)


 やはり今日も熊男の表情を窺い知ることは出来ない。

 

(それにしても、綺麗に食べる人ね)


 表情が分からないほど髭と髪が伸び放題のくせに、彼はパンくずやマスタードを髭や髪に一つもつけずに食べている。ウルも貧乏貴族とはいえ厳しい母にそれなりに教育を受けているので汚くはないが、彼と比べると皿の上がまるで世界地図のよう。


 少し恥ずかしい心地で、それでも美味しいパンケーキをウルが飲みこんで食べ終わると熊男が再び紅茶を注いでくれようとする。


「……あの、私がやります」


 ウルが慌てて席を立ってポットを横取りしようとすると、男はひょいとその手を避けてポットから熱い紅茶をカップに注いでしまう。


「面倒だから座ってろ」


 他人にやらせる方が面倒だというのか。


(物臭なのか几帳面なのかよく分からない人だわ)


 ウルの内心の呆れを知ってか知らずか、男は自分のカップにも紅茶を注いで再びはす向かいに腰かけた。それに倣ってウルも戻ると、早速男は口火を切る。


「手紙でお前の事情は大体分かった。お前の家にはあとどれぐらい金が必要なのか分かるか」


 単刀直入にも程がある不躾な質問にウルは一瞬鼻白んだが、ここで怒り出すのは昨日の二の舞だとぐっと飲みこんで答えることにした。

 自分の家の財政のことを会って間もない人に話すのは危険だと思ったが、ウルがここに居る理由の最たるものだ。雇い主になるかもしれない人には話しておいてもいいいだろう。

 そう判断してウルが答えると、金額を聞いた熊男は少し髭をいじってから「それぐらいなら何とかなるな」と呟いて席を立つ。

 どうしたのかと見守るウルは横目に、熊男はダイニングに備えてあるタンスの引き出しから便箋と万年筆をのっそり取り出してきた。

 そして彼はパンケーキが平らげられた皿と紅茶の入ったカップを不作法に脇に避けると、取り出した便箋の裏にさらさらと何かを書き出していく。


「お前は叔母と実家にこの金額の援助を受けられると手紙を書け。俺が叔父貴経由で援助をしてやるからその旨を叔父宛に手紙を書く」


 さらりと渡された便箋にはウルが言った金額が寸分たがわず書かれていた。


「ええ!?」


 男が書き出したのは、一領主である父の一年の俸禄の三倍の金額だ。

 今朝食べたパンケーキが都会のおしゃれな喫茶店でほぼ一生食べられる。


「な、なんであなたがこんな金額を…」


「名目上は援助とはいえ借金だ。返済期間は十年。利子はいらん。ただしビタ一文まからないから死に物狂いで返せ」


 ウルの質問にも答えないで彼は便箋の裏に次々と条件を足していく。


「正式な証文は叔父に作らせる。それはお前の実家に送るから確認の手紙を返すよう手紙に書いておけ」


 矢継ぎ早に言われてウルは目を回しそうになるのをこらえて「あの!」と大きな声を上げた。

 ようやく便箋の裏から顔を上げた熊男が面倒そうにこちらを睨むので、ウルはお腹に力を入れて対峙しなくてはならなかった。ただでさえ見た目が怖いのだ。睨まれると迫力が増す。


「……どうしてあなたが私の家に援助してくださる気になったのですか」


 追い出そうとしていた昨日今日で随分と態度が違うではないか。

 そう言ったつもりだったが、男は事もなげに返した。


「お前に一刻も早くここを出て行って欲しいからだ」


「え」と思わず呻いたウルを後目に男は肩を竦めた。


「早く静かな生活を取り戻したい。それだけだ」


「そ、それだけのためにこんな金額を…っ」


「俺の退職金だ。あぶく銭だからどう使おうが俺の勝手だろう」


 男のあまりの言い草にウルは眩暈を起こしそうになった。

 彼は小娘一人を追い出すために父の俸禄三年分をポンと渡そうと言うのだ。

 ほんの一瞬、またたきする間だけ「この人は本当はいい人なのかも?」と思ったウルが馬鹿だった。


「お金は大事なのですよ! 何を考えておいでですか!」


 逆立つ髪があるなら天まで届きそうなほど真っ赤な顔をしてウルは怒鳴った。





――その後、援助するしないでウルと男は揉めに揉めたが、結局ウルは援助を受けることになった。


「金が大事というのなら、今まさに金が必要なのはお前の方だろう」


 男のもっともな意見に負けたのだ。

 結局、お金は大事だった。

 だがウルはタダでは折れなかった。


「でしたら、援助していただく分ここで働かせてくださいまし!」


 ウルの提案もまた揉めに揉めたが、これはウルの意見が通った。

 熊男による最大限の譲歩で手紙の返事を待つあいだだけということになったのだ。ウルが働いた分だけ借金から天引きされ、残りは彼の言う通り十年のあいだに返済していくという契約となった。


「まったく、強情な奴だ。勝手にしろ」


 それはお互い様だと鼻を鳴らしたウルが見たのは、伸び放題の髪の奥で熊男が細めた目だった。彼はやっぱり笑っていたらしい。


(なんだ、やっぱり笑ってたんだわ)


 そのことにどういうわけだが安堵したウルは「よろしくお願いいたします」と淑女の礼をとった。



 


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