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森の大きなクマさんは  作者: ふとん
2/22

ぶっきらぼうで変な人

 トランクを引きずって歩いた小路の先にその緑の屋根の屋敷はあった。

 森に寄り添うように建つ屋敷は大きくはないが小さくも無かった。屋敷のそばには畑と井戸があって、わずかな採光で家人が食べる分だけ野菜を育てているようだ。


 大きくて古いノッカーを叩いて「ごめんください。ウルリーケ・バウアーと申します」と戸板に向かってウルが呼びかけると、中からどかどかっと音がしたかと思えばドンとウルを押しのけるようにしてドアが開いた。

 そして現れた髭面の大男はまるで熊であった。身につけているズボンとシャツは汚れても擦り切れてもいないが、濃いコーヒー色の髪はぼさぼさで口元も髭で覆われている。

 彼は髪でほとんど隠れた双眸でウルを一瞥すると、


「帰れ」


 その一言だけ放ってドアをばたんと閉めてしまった。


「……え?」


 突然のことにウルは何が起こったのか分からなくなってしまった。

 彼はこの家の家人なのだろうか。いや、ユーディトの話では家人は甥っこ一人だ。

 だとすれば、彼はこの家のあるじだろう。

 ウルは重いトランクを放り出して屋敷のドアのノッカーを再び叩いた。

 ここで訳も分からず放り出されるわけにはいかない。


「ごめんくださいまし! わたくし、ウルリーケ・バウアーと申します! ユーディト叔母様の紹介で参りました!」


 ウルがノッカーを叩きながら叫ぶと、うるさいと言わんばかりに内側からドンとドアが叩かれた。


「手紙で知っている! 帰れ!」


 野太い男の声にウルは一瞬怯むが、ここで泣いてもお金にはならない。ぐっと恐怖を我慢してウルは再びノッカーを打つ。


「困ります! わたくしはユーディト叔母様からこの家の家政婦として働くよう言われて参ったのです! 紹介状もございます!」


 ウルの渾身の叫び声が届いたのかどうか。ドアの向こう側はしんと静かになったかと思えば、今度は静かな男の声が返ってきた。


「俺に家政婦など必要ない。家へ帰れ」


 戸板の向こうから人の気配が消えていく。


(そんな…)


 ウルはドアの前で立ち竦んだ。

 別に歓迎してほしいわけでは無かったが、ユーディトの紹介であるし大丈夫だとタカをくくっていたのである。

 家から持ち出せたお金では宿のありそうな町まで引き返す余裕は無いし、野宿できるほどの食糧もない。


(何とか認めてもらわなくっちゃ…!)


 彼の先ほどの態度で迷惑なのは承知した。しかしウルにものっぴきならない事情があるのである。

 ウルは再びノッカーを叩いた。


「何かの手違いがあるなら謝罪いたします! ですからどうかお話し合いをさせてくださいまし! 納得してくださるまでここでお待ちしますから!」


 今度は返事もない。


(何とかしなくちゃ)


 ウルの人生経験では他にどうするべきか見当もつかない。

 だからウルはトランクを引きずってくると玄関先で座り込んで膝を抱えた。


(私、お姉ちゃんなんだから)


 こんなところで負けてはいられないのである。




 それからどれほど時間が経ったか。


 中天にあった太陽は傾き、とうとう森の最奥へとすっぽり隠れると木々に囲まれた屋敷の辺りはすぐに暗くなった。

 ウルは一枚だけ持っていたショールをトランクから引っ張り出して羽織った。そしてトランクを抱えてうずくまる。


(今日はここで野宿かしら)


 他人の家の前で野宿など滑稽ではあるが他に行くところなど無いのだから仕方ない。

 真冬ほどではないが春ほどに暖かくもないこの時期の森は冷えるようで、ウルの指先はしんしんと冷えてくる。

 実をいうとウルは野宿をしたことがない。だから森でどんな危険があるのかも知らないのだが、背中に屋敷があるだけマシだというものだろう。


(何だか変な気分だわ)


 ウルが思い出したのは、四歳年下の弟のことだった。

 この弟は普段はぼーっとしているくせに何か気に入らないことがあるとテコでも動かない頑固者だ。彼が怒ると自分の部屋にこもって食事もとらずに出て来ない。

 そんな時、ウルは彼の部屋の外でじっと待つ。

 お腹を空かせて出てきたら、すぐに食べさせるための食事と一緒に。


(食事…)


 食事のことを思い出したウルのお腹がぐぅと鳴る。

 そういえば今日口にしたのは昼食のパンとチーズの欠片だけだ。

 それでなくてもウルは早朝から実家を旅立ち、馬車や荷馬車に揺られてトランクを引きずり歩いてきたのだ。お腹が空いて当然だった。

 空腹を思い出すとウルはどっと疲れがやってくるのを感じた。


(これからどうしようかしら。実家とユーディ叔母様に手紙を書かなくちゃ。それから…)


 ウルの疲れが彼女から気力を奪うように眠気を誘う。こんな森の中で眠ってはいけないと思うのに、うとうととトランクにもたれかかっていると耳のそばでギィと音がした。


「……こんな所で寝るな」


 ウルがトランクから顔を上げると、薄く開いた戸から髭面の男が覗いている。ちょっとした怪談のような様子だが、家の中から温かそうな光が漏れていてウルは羨ましく目を細めた。


「……申し訳ありません」


 ウルが小さく言うと、男は髭の奥から深く溜め息をつく。

 

「畑の脇に薪を置いたのはお前か」


「……はい」


 屋敷に入れてもらえなかったウルは日中暇を明かすために森で薪を集めていたのだ。


「野宿になった時のために火を焚こうかと思ったのですが、あいにく火種の持ち合わせが無くて…」


 マッチ一本も家族の大切な資源である。ウルが持っていけるはずもなかったのだ。

 項垂れるウルに男は再び溜息をつき、今度は大きくドアを開いた。


「入れ」


「え?」


「狼に食われでもしてはかえって迷惑だ」


 森に狼がいるとは驚いた。

 ウルはトランクを慌てて抱え、男の待つ戸口に急いだ。


 ようやく入ることの出来た屋敷はやはり驚くほど広くはなかったが、狭くも無かった。両側に廊下と正面に階段を一本備えていて、それが夜でも伺えるほどランプには煌々と明かりが灯っている。ロウソク代もケチっているバウアー家では考えられないほど明るいのだ。


「こっちだ」


 そう言いながら、男はウルのトランクをするりと手に取っていってしまう。


「あ、あの」


「何だ」


 トランクを持つのはさも当然といわんばかりの男に、トランクを取り返す気も失せてウルは「いいえ」と首を振った。


「……ありがとうございます」 

    

 どういう顔をすればいいのか分からず固い顔で礼を言うウルを男は無視して歩きだす。


(変な人)


 ウルを手酷く追い出したと思えば、息をするようにトランクを持ってくれる。 

 今更ながら、ウルは妙な男の家に来たのだと実感した。


 男に案内されてやってきたのは、ここもランプで照らされた応接間だった。

 森は冷えるのか暖炉には火がすでにあり、凍えそうだったウルを優しく温めてくれた。

 落ち着いた緑で統一された調度品は重厚で、男に「座れ」と指図された椅子の座面はふかふか過ぎてウルは恐る恐る椅子の端に腰掛ける。


「それで、紹介状があるらしいが今持っているか?」


 ウルと同じように応接間の椅子に腰掛け挨拶もなく男が切りだすので、ウルはふかふかの椅子を堪能することもなく慌てて席を立って懐から手紙を取り出した。もしものためにとスカートの隠しポケットにお金と一緒に身につけていたのである。


「こちらが紹介状です。ユーディト叔母様からの手紙は実家にあります」


 ウルから紹介状を受け取ると、男はばっと慣れた様子で手紙を広げ素早く文面を見ると低く唸った。髭面が唸るとますます熊のようだ。


「……これを見ろ」


 今度は男がテーブルの上に放り出してあった手紙をウルに寄越してくる。


(テオドール…)


 手紙の宛名にはユーディトが嫁いだグライナーの家名を冠した名前がある。これが男の名前らしい。


(そういえば名前も知らなかったかも)


 ウルは彼がユーディトの義理の甥という情報だけでやってきたのである。弟が心配するのも無理もない話だった。

 ウルは今の今まで実家を助けるという使命感に支配されていて周りが何も見えていなかったのだ。何とも恥ずかしい思いで男から渡された手紙に視線を落とすと、そこには驚愕の文面が踊っていた。


「こ、婚約者候補…!?」


 見覚えのあるユーディトの文字が綴っていたのは、テオドールと呼ばれる男にウルを婚約者候補として送り出すという強引な報告だったのだ。

 

「……その様子だと何も聞かされていないようだな」


 ユーディトの報告は一方的で男が唸るのも頷ける。        


「あの女狐め。今度は何を考えている…」


 ユーディトは強引だが、男が苦々しく言う言葉にウルは目を吊り上げた。


「……叔母様を悪く言わないでください」


「何を言っている。お前も騙されたんだぞ」


 男の指摘はもっともだ。だが、


「叔母様は親切に仕事を紹介してくれたの」


「仕事じゃ無かったがな」


「でも…っ」


 婚約者候補などというふざけたことは許せないが、この話はユーディトがバウアー家を助けるために提案してくれたのだ。


「大体、ラウレンツ叔父もどうかしてるんだ。あんなに年の違う派手な女。遺産目当てに決まっているだろう」

 

 男の言う通り、確かにユーディトは恋多き女であった。だが、ウルだけが知っていることがある。


「違います! 馬鹿! 熊!」


 ウルが思わず手にした手紙を投げつけたので男は目を剥いた。当然だ。これから雇ってくれるよう頼まなければならない相手にこんな無礼をしたのだから。けれどウルは言わずにはいられなかった。


「叔母様は…ユーディ姉さんは、ラウレンツ様が初恋だったの!」


 ユーディトの三度目の結婚は実は誰もが反対した。元々恋多き女であったユーディトは夫との不仲や浮気で離婚したこともあって、結婚など止めて姉であるウルの母からバウアー家に来てはどうかと言われていた。我が家との交流は長いし、一人ぐらい家族が増えたところで構わないからと。

 だが、ユーディトは皆の反対を押し切ってラウレンツと結婚したのである。

 ウルも反対していたが、ユーディトが「内緒よ」とこっそり教えてくれたのだ。


 ユーディトとラウレンツとの出会いはユーディトの少女時代にまで遡るが、その時すでにラウレンツは婚約者が居た。だからラウレンツとは年の離れた幼馴染として恋心は仕舞ったままにしていた。だがラウレンツの前妻が亡くなり、喪失感に苛まれていた彼をユーディトは放っておけず、自身も結婚していたがラウレンツをたびたび励ましに行っていた。

 それを夫たちに咎められたのである。

 結局ユーディトは全く弁解もしないで二度の離婚となった。

 そんなユーディトを愛してくれたのがラウレンツなのだ。


「ユーディ姉さんは優しい方よ。それは、やっぱり、ちょっと強引だし派手好きだし狡いところもあるし、こういうことをする人だけど、人に悪く言われるばかりの人じゃないわ!」


 恥ずかしい話だからとウルにだけ教えてくれたユーディトが、少女のように微笑むのをこの男が知っているはずもない。

 母も知らないこの話をこんな男に喋るつもりは無かったが、あまりの言いようにウルも頭に血がのぼった。

 だが一息に言いたいことを言ってしまうと、のぼった血は一気に下がっていく。


「……ごめんなさい。やっぱり帰ります」


 男にしてみればユーディトやウルの思いなど知ったことではないのである。

 暴言を吐く使用人などもってのほかだ。

 ウルが淑女の礼をとって帰ろうとすると、


「――待て」


 溜息混じりに男が制止してくる。

 怪訝にウルが振り返ると、男は椅子に深く腰掛けて足を組んだ。今更なことだがこの男、長身のせいか厭味なほど足が長い。

 男は呆れ調子にウルに問いかけた。


「こんな夜にどうやって帰るつもりだ」


「……ええと、歩いて?」


「狼に襲われたら」


「走ります」


「死んで喰われたらどうする」


 恐ろしいことを言う男である。

 ウルがあえて考えたくなかったことをわざわざ言わなくてもいいだろうに。

 だがウルは仕方なく答えた。


「お手間を取らせますが私の骨を拾って実家に届けてください」


 せめて骨ぐらいは実家に帰りたいのである。

 そう真面目にウルが応えたというのに、男はふっと息を吐いただけだった。


(今、笑った…?)


 髭と髪に隠れて男の表情はよく分からない。

 ウルがますます訝ると男は「分かった」と言う。


「ついて来い」


 唐突な命令に戸惑うウルを放って、男は再び彼女のトランクを手に応接間を出ていくではないか。ウルは慌てて男の後を追う。

 応接間を出ると男はウルを連れて二階へ上がり、一室の前で止まってドアを開ける。「入れ」と言ってウルを部屋に入れると、男は部屋のランプに明かりを灯す。

 すると、レースが飾られた寝室が姿を現した。

 しんと冷えた部屋の空気からはかすかに優しい花の香りがする。

 どう考えても男の部屋とは思えず、ウルが髭面を顧みると「ここで今夜は寝ろ」と男は彼女のトランクを置いて部屋を出て行ってしまう。


「あの」


「鍵は閉まる」


 どうして鍵のことなど言われたのかウルには分からなかったので、彼女は別のことを訊ねることにした。


「……あの、どうしてここに泊めてくださるんですか?」


「外で寝たいのか、ここでは不満か」


「いえ、そういうことではなく…」


 いちいち引っ掛かる男だがウルは我慢強く尋ねた。


「……無礼をした私をどうしてここに泊めてくださるのかと思って」


「無礼ならお互い様だ」


 男はドアを閉めながらウルを見遣った。


「ユーディト叔母に対する暴言は謝罪しよう。ついでにお前を締め出したことも」


「えっ」


 無礼尽くしのこの男が謝罪をするとは思っていなかった。

 ウルが驚くと「じゃあな」と男が今度こそドアを閉めようとするのでウルは「待って!」とドアにしがみつくようにして止める。

「何だ」と怪訝そうな男に、ウルは咄嗟にここで礼を言うのもおかしいことに気付いて、


「あ、あなたのお名前をまだお訊きしてませんでした。私はウルリーケ・バウアーです。ルリでもリーケでも好きに呼んでくださって構いません。ただしウルはやめてください」


 ウルの間抜けな自己紹介に、男は意地になるのも面倒くさくなったのか彼女を振り返って「何故」と訊ねてきた。まったく嫌なことを聞いてくる人だ。だがウルは渋々答えた。


「……近所の犬がウルというのです」


 近所の牧場で飼っている犬の名前がウルというのである。その牧羊犬は働き者なので皆から可愛がられているが、ウルと呼ばれているのを聞くたびに微妙な気分になる。

 だから年頃になってからというものウルは、ウルと呼ばれることがあまり好きではない。


「テオドール・フォン・グライナー。テオでいい」


 男はぶっきらぼうな印象のまま名乗り、ウルからドアを取り返すようにドアを閉める。


「今夜はここで休め。――ウル」


 ぱたんと静かに閉められたドアを、ウルは思わず睨んだ。


(意地悪な人!)


 


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