8
ソラは中央の操縦席に座った。
目の前には前面に灰の海が広がっている。絶えず火山灰が前面のガラスに当たる音がした。甲高い、パリパリという乾いた音がするから、ガラスに鉱物の欠片が当たって傷つけているはずだ。が、自動複製が働いているのか、傷で曇ることはなかった。
見渡した灰色の風と灰色の海との境界は曖昧で、自分が浮いているのかそれとも沈んでいるのか分からない、不安定な感覚を覚えた。
今は追い風なので、舵を一定にした後は浮力以外のエネルギーを遮断している。
操縦席の目の前に操縦桿。
そして、その向こうには計器が並んでいる。
計器が並ぶテーブルの中央に、円形の方向指示器があった。磁力にあわせてくるくる動く辺縁部と、宙に浮かんだ丸い球。ソラの長指の先ほどしかないその球は鈍い黄金色をしていた。
「この球が示す場所が姶良の方向だ。基本的には、この方向へ向かうといい」
朔が隣の席から指し示した。
今は真っ直ぐ、進行方向に姶良がある。
「今は追い風だが、そのうち風向きも変わる。そうなったら推進機関を動かして、舵を取ることになる。推進機関は、尾部と左右の翼部に大きなものがついている。他にも、船底に合わせて8つだ」
それぞれの推進機関に繋がるスイッチを解説し、いくつかの計器の読み方を説明しながら、朔は飛行船の操縦方法をソラに教えていく。
船の操縦を聞いておいてよかった。操縦方法はどちらもほとんど変わらないようだ。
「ソラは物覚えがいいのだな。これならすぐに任せられる」
朔にほめられて、くすぐったく感じた。
少しでも役に立てるのが嬉しかった。
「ありがとう、朔さん」
不意にそういうと、朔は首を傾げた。
父親には恥ずかしくて言えないが、晃の友人である朔には素直に言える気がした。
「オレ、子供だし、自分じゃ何にも出来ないから……すごく、悔しかったんだ。ミホシも泣いちゃうし、園山さんには怒られるし。でも、朔さんがこうやってオレにいろんな事を教えてくれたら、少しは役に立てるようになる気がするんだ」
そう言うと、朔はくすりと笑った。
「ソラは十分役に立つぞ? 俺はミホシの父親になってやることは出来ても、友達にはなれん。それも、何しろ、ミホシが一緒に行きたいと言うくらいだからな。俺が羨ましくなるくらいだ」
「朔さんが、オレのこと羨ましいって思うの?」
ソラは驚いた。
晃が誰より信用している朔は何でも出来るからだ。父親の晃と同じように、傍にいてくれると安心できる、『大人』だった。
「ああ、もちろんだ。ソラは自分が何も出来ない、というが、それはこれから出来るようになることがたくさんあるという意味だ。それは、本当に羨ましい事だ」
朔は青い瞳を細めて笑った。
「ソラは13歳だったな。そうか、カリンなら樹海を越えた頃だ。そうだな、ちょうど焦るくらいの年頃だろう」
カリン。
再び出てきた名に、朔は自分で気づいて口元を押さえた。
「いかんな、ミホシの前ではあまりカリンの事を話さぬようにしておるのだが……この灰の景色を見ると、どうしても思い出してしまう」
「その、カリンって人はミホシのお母さんなの?」
「ああ、そうだ」
朔はそこで言葉を切った。
大きく息を吸い込んで、深呼吸。
「カリンがいなくなって、もう10年になるか。ミホシも大きくなるはずだ」
「死んじゃったの?」
「……ああ、そうだ」
ためらいがちに、朔は頷いた。
「カリンはミホシと同じ月白種族でな。ずっと暗い場所で暮らしていたものだから、見ての通り、あまり光に強くないのだ。昏海を渡り終え、太陽の下にでてしまった後、急に弱ってしまった。俺が気づいた時にはもう遅かった」
「だからミホシは地下で暮らしてるの?」
あまり灯りのない、薄暗い部屋を思い出した。
朔は頷いた。
「何より、俺もカリンも、火山灰を吸い込みすぎた。小さな鉱物の結晶というのはだな、肺に溜まると毒になるのだ」
「毒?!」
ソラは弾かれたように叫んだ。
そう言えば、学校でも習った気がする。火山灰の多い日には、必ず口元に覆いをして外に出ねばならない、と大人たちは口を酸っぱくして繰り返す。
禁止するには、ちゃんと理由がある――寛二の言葉を思い出していた。
「朔さんは、大丈夫なの?!」
朔は答えなかった。
代わりに、ソラのぼさぼさの黒髪を撫でた。
晃とは少し違う感触に、ソラは目を細める。
「ソラにお願いがあるのだ。もし、俺がミホシの前からいなくなってしまう日が来たら、必ずミホシの傍にいてやってほしい」
「そんなっ……」
ソラは絶句した。
朔が何を言っているのか、意味が分からなかった。
が、朔はそこでいったん言葉を止めて、大きく何度も咳き込んだ。
ソラが背中をさすってあげると、しばらくしてから落ち着いた。
しかし、朔の手のひらにには、真っ赤な血がついていた。
「肺の病だ。もう俺も長くは生きられん」
息を呑んだソラを見て、朔は笑う。
よく見れば、その眼の下には深く疲労の色が現れているし、もともと白い肌もさらに蒼白になっていた。
「慌てるな、ソラ。静かに。ミホシが起きてしまう」
朔は人差し指を一本立てて、ソラの胸の中央を指した。
「ミホシには内緒にしておいてほしいのだ。男同士の、約束だ」
男同士の約束。
ソラはぐっと唇を噛んだ。
朔さんがいなくなってしまう。ミホシの父親が、晃の友人が、ソラの目指すべき大人の男性像が、消えてしまう。
悲しかった。
胸元に置かれた朔の指を、そっと両手で包み込んだ。
触れてみると、小さな振動が伝わってきた。まるで、モーターの入った車のおもちゃに触れたときのようだった。
「朔さん、左手……」
「ああ、これは義手だ。生身ではないよ」
左手を開いたり閉じたりすると、まるで歯車が回転しているようなキリキリ、キシキシという音がした。
「カリンがいなくなってからはほとんど整備も出来ず、もうずいぶんと動かなくなってしまったが、これにはいろいろと武器が仕込まれておったのだぞ?」
そういうと、朔はにっと笑った。
「武器?」
物騒な単語に、ソラは思わず素っ頓狂な声を出した。
「ああ、そうだ。たとえば――」
朔が説明をしようとした時だった。
ガタン、と大きな音がして、飛行船が傾いた。
そのまま斜めになってしまった床をソラは滑り落ちそうになる。慌てて操縦席の背もたれにしがみついた。
「何があったのだ?」
床が斜めになっているというのに、朔は気にもならないような軽い足取りで後部の窓に寄った。
そして、窓から覗いて顔をしかめた。
ソラも床を這って追いつき、同じ窓から外を覗く。
そこから見えるのは灰色の空。灰色の海。そして――
「船だ!」
何隻もの船が、見下ろした昏海に点々と浮かんでいた。鈍い黄金色をしたそれらは、研究所のドッグにあったものだ。ソラにも見覚えがあった。
そして、その船から伸ばされたワイヤーがソラたちの乗る飛行船の船尾に絡みついている。
「ソラ! すぐにすべての推進機関を起動しろ。船を撒くぞ!」
そういいつつ、朔は踵を返した。
「朔さんは?!」
「俺はあのワイヤーを外してくる。ミホシが起きてきたら、一緒に操縦席にいてくれ。そうだな、先ほど俺が教えたように、ミホシにも操縦を教えてやってほしい」
朔はそう言い置くと、すぐに後部へと向かって駆けて行った。