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どたん、と大きな音を立ててソラは地面に転がった。
それでもすぐに起き上り、ミホシを背に庇うように立つ。
扉を押しあけて入ってきたのは、顔見知りの研究員たちだった。皆、一様に驚いた顔をしながら、ソラを呆然と見る。
「ソラ、ここは立ち入り禁止だ。その子と一緒にこっちへ来るんだ。晃さんに、ここへ入ってはいけないと言われなかったか?」
園山と違って優しそうな言葉をかけてはいるが、ミホシを見る目は好機に満ちている。
ミホシは冷たい光を目に灯したまま、表情を押し殺していた。
「その子です! そこにいるのが人の形をしたバケモノっ……!」
園山がヒステリックに叫んだ。ソラは精いっぱいで園山を睨みつけた。
ソラは頑として動かなかった。
しかし、少しずつ、少しずつ奥へ追い詰められていく。
駄目だ。
ソラの小さな手では、短い腕では、ミホシを庇えない。
たくさんの手がソラたちに向かって伸ばされた。
その時、大きな声が廊下に響き渡った。
「みんな、何をしているんだ!」
一番聞きたかった声だった。
人波の向こうに晃のぼさぼさの黒髪が見えた。
そして、目の前に白衣が翻った。
ソラたちを庇うように、朔が立ちはだかっていた。
その瞬間泣きそうになった。
晃と朔なら、ミホシを助けてくれる。ソラには出来ないことも、二人にはできる。
朔は冷たい目をして俯いてしまっていたミホシを抱き上げた。彼女と視線を合わせ、慰めるように頬に額を摺り寄せる。
「大丈夫だ、ミホシ。もう大丈夫だ」
静かに、落ち着いた声で囁きながら。
その瞬間、表情を固めていたミホシの眉がみるみる下がり、まるで泣きそうな顔になった。そして、ミホシは朔の首に抱き着いた。
確かな信頼関係を感じて、ソラの胸は小さく痛んだ。
朔はソラに目線で、一緒に来い、と促すと、すたすたと歩きだした。
ソラは慌ててその背を追う。
大きな背中。ミホシを軽々持ち上げてしまう力。ミホシを姶良へ連れて行ってしまうのもきっと、朔と晃なのだろう。
安心感と共に、どうしようもない悔しさに襲われる。
「朔さん! そのバケモノをどうしようというの?! まさか、地下の立ち入り禁止区域で、そのバケモノを飼っていたんじゃないでしょうね?!」
「黙ってくれないか」
ヒステリックに叫ぶ園山に、朔は視線を遣りもしなかった。
ただ冷たい声で返答した。
「こうなると思ったから隠しておったのだ。この子は俺の大事な娘だ。お前にそのように口汚い言葉で呼ばれる存在ではない」
娘、という言葉で、園山は絶句した。
集まっていた研究員たちも言葉を失っている。
その横を、朔とソラは並んで通り抜けた。1階への階段を上ると、そこには険しい顔をした晃が立っていた。
「朔、行け。後の事は何とでもする」
「すまないな、晃」
「いや、いいんだ。相川所長も俺も、ハナからこうなることは予測済みだ。むしろ、遅かったくらいだ」
すれ違いざま、そんな一言をかわして。
二人は背を向けた。
「ソラ、朔についていくんだ。後で迎えに行くから」
「……わかったよ、父さん」
晃を置いて行くことに抵抗がなかったわけではない。
でも、子供であるソラに選択肢はなかった。
早足で遠ざかってしまう朔の背を必死で追いかけた。
朔は肩のあたりに顔をうずめたミホシの頭を、ゆっくりと撫で続けていた。とても愛おしいものに触れるように。
そして、不意にソラを見下ろした。こんな状況なのに、その顔には笑みが湛えられていた。
青空のような色の瞳に吸い込まれそうになって、ソラはどきりとした。
「すまなかったな、ソラ。巻き込んでしまった」
「いいんだ。ミホシが見つかったの、オレのせいだし」
「……ソラのせいじゃないよ。待ちきれなくて、あたしが勝手に扉の外に出ちゃったの」
ミホシが顔を上げた。
その眼は少し赤かったけれど、朔が来たことで落ち着いたんだろう、先ほどのような冷たい表情ではなくなっていた。
朔は抱き上げていたミホシを下ろすとその頭にぽん、と手を置いた。
「ミホシも、もう泣いておらんな。さあ、行くぞ」
「どこ行くの、お父さん」
「寛二のところだ」
人気のない船のドッグ。
寛二にはすでに連絡してあったのか、いつもの真っ赤なツナギを着て、煙草を咥えて、仁王立ちで待ち構えていた。
「……よう、朔」
「やあ、寛二。すまない、手間をかけるな」
「何をいまさら。お前がここへ来た12年前からずっとそうじゃねえか」
そして寛二は、ちらりとソラに視線を向けた。
「ソラ。ちっと驚いたと思うが、大丈夫か?」
「オレは平気だよ」
この間は、ミホシを連れ出したソラを叱ったのに。
寛二の優しい言葉にソラはまた泣きそうになった――自分が、ミホシが、彼らに守られていたことを知って。
そしてますます、自分の無力を実感して。
「準備は出来ているか?」
「ああ、ばっちりだ。いつでも出られるように整備してある」
寛二は、朔とソラを連れてドッグの奥へ入った。
ソラも入ったことがない、倉庫の奥だ。他の技師たちもほとんど足を踏み入れない、技師長である寛二の城だった。
そこに鎮座していたのは、胴体の丸い、まるで弾丸のような形をした船だった。それも、本来なら灰に沈む船底にガラス窓がついている。人間が、船底に乗り込むのだろうか。
寛二が煙草を咥えたまま、その鈍色をした船体をぱん、と叩いた。
思った以上に軽い音がした。装甲が薄いのか、材質自体が普通の船と違うのか。
「ソラ、ミホシ。これが『とっておきの船』だ。灰の風を受けて飛ぶ『硬式飛行船』――」
煙草のヤニで黄色っぽくなった歯を見せながら、寛二は子供のように笑った。
「『カンジ2号』だ!」
飛行船とは何なのか、カンジ2号ってことは1号もあったのか。いろいろと聞きたいことはあったが、寛二があまりに自信満々なので、ソラは口を閉じてしまった。
朔が目を輝かせてその船体を見ていたせいもある。
晃といい朔といい寛二といい、いい大人なのに、時折、少年のように楽しそうに笑う。
ソラには、彼らの興味のポイントがよくわからず、首を傾げることが多い。
おそるおそる、寛二に問う。
「『カンジ2号』って、何? 寛二さん。2号ってことは、1号もあったの?」
「ああ。1号は試運転で灰の海に沈んだからな。今度は晃に完璧に計算してもらって、慎重に形を整えたからな。絶対に大丈夫だ!」
やはり1号もあったらしい。
そのうえ、ものすごく不安になる事を言っているが、大丈夫なのだろうか。
「さあ行くぞ、ミホシ」
寛二が先に乗り込んでいき、朔もミホシに手を差し出した。
しかし、ミホシも不安そうな顔をしていた。今から何が起きるのか、何となく分かっているが、分かりたくないのだろう。
助けを求めるようにソラの方を見た。
「ソラは? ソラも一緒に行きたい」
ミホシがそう言うと、朔は困ったように笑った。
「そんなことをすれば、俺が晃に怒られてしまう。残念だが、勝手にソラを連れて行くわけにはいかんのだ」
「でも、あたし……」
眉を下げたミホシが、ソラに向かって手を伸ばした。
ソラは反射的に、ミホシの手を取った。彼女の手は小さくて、柔らかくて……とても、温かかった。
「朔さん、オレも連れてってよ。父さんには、後で、自分で謝るからさ」
そして、ソラはミホシに笑いかける。
「オレはミホシの友達だからな! 一緒に姶良に行くって約束しただろ」
「ソラ……」
小さな手がソラの手をぎゅっと強く握りしめた。
そして二人で一緒に、朔を見上げた。
朔は困ったように笑いながら、それでも小さく頷いてくれた。
ソラは、ミホシと手を繋いだまま、飛行船『カンジ2号』に乗り込んだ。