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駆けて行ってしまったリンを呼び止める暇もなく、伸ばした手は空を切る。
「何だってんだよ……」
立ち上がりかけたが取り残され、ソラは呆然とリンの後ろ姿を見送った。
困惑するソラの隣に座ったのは、今度は日輪先生だった。
「日輪先生」
「リンは月白種族と宗主一族の最初の子供なんだよ」
「今でこそ月白種族が受け入れられているけど、当時はそうでもなかったからね。いろいろと、辛い目にも遭ってるんだ――あの明るい性格は、弓弦さんに心配をかけないようにリンが作り上げたものなんだ。護衛部隊に自ら志願したのもね」
日輪先生は、リンと同じ緑の瞳を少しだけ伏せた。
「何よりリンは、キミに少しばかり憧れのような感情を抱いていたようだったしね」
ミホシの両親はカリンと朔だ。そして、リンの両親は日輪先生と弓弦。カリンの兄である日輪先生と、朔の姉である弓弦。
完璧な従妹同士である彼女らは、それぞれ複雑な立場にいた。
ミホシは外の世界で珍しい人種として奇異の目にさらされていた。そして、地下での生活を余儀なくされた。
リンは、まだ月白種族が受け入れられていない姶良で、混血の子としてひどい扱いを受けていた。
二人はそれぞれ考えた。両親の負担にならないように、と。
ミホシは聞き分けのよい子になり、リンは明るい子になった。
「でも、リンはずっと、本当に楽しそうだったよ?」
「ああ。キミとミホシがここへ来てくれたのが、相当に嬉しかったみたいだね。二人が仲良くしてくれたって楽しそうに話してくれたよ」
日輪先生は柔らかに微笑んだ。
リンはずっと楽しそうだったし、ずっと明るかったし、嬉しそうだった。
あのリンが昔は混血であることでいじめられていたなんて、想像もできなかった。
首を傾げたソラを見て、日輪先生は声をあげて笑った。
「いいんだ、キミは知らなくても。知らなくても受け入れてくれた、そんなキミだからリンも心を開いたんだと思うよ。知らない振りをして、これからもリンと仲良くしてあげて欲しい」
日輪先生も去って、ソラは人々の動きを目で追っていた。めいめい、街に戻ったりその場に留まって白い柱を見上げたり。
その姿をぼんやりと追いながら、今回の出来事を振り返っていた。
火山研究所の地下でミホシに出会い、朔と一緒に飛行船で中央研究所の追手から逃げたこと。そして、ミホシと二人だけでユグドラシルへにたどり着いたこと。夙夜と凪に助けられ、白鬼の森で休んだこと。リンや神楽と出会い、暗闇の街にたどり着いたこと。
それから、中央研究所の船がやってきて、姶良の天蓋に穴をあけたこと。最後に、船に捕らわれていたカリンを助けて、園山を拘束したこと。
そして今、天蓋に開けられた穴を塞ごうと、街の人たちみんなが協力した。
煙が立ち上るようにまっすぐ上に向かって伸びる柱は、少しずつ安定しているように見えた。そろそろドローン部隊が昏海に到着したのかもしれない。これから、少しずつ網に石化蟲を這わせて固めていくはずだ。
そうすれば、ソラの冒険は終わる。
朔とミホシは別として、晃や寛二と共に日常へ戻ることになるだろう。まるでこの冒険が夢であったかのように。
ソラは溜息をついた。
「……ミホシはどうするんだろ」
一緒に旅に出ませんか、と言っていたミホシ。ソラだって大賛成だ。二人でいろんな世界を見たい。昏海の向こうにエルフの里姶良があったように、この世界には知らない場所がたくさん眠っているはずだ。
でも――
「ソラ」
視界に、桃色の衣が翻った。
にこりと笑ったミホシが、すとん、と隣に腰を下ろす。
「大丈夫か? 疲れてないか?」
「うん、平気」
聞きたいことがたくさんあった。
でも、たくさんありすぎて言葉にならなかった。
ただ並んで、座って、白いキノコに背を預けて、静かに景色を見ていた。
先に口火を切ったのはミホシだった。
「ソラは、晃さんと一緒に帰るの?」
「うーん……うん、たぶん。母さんに何も言わずに出てきちゃったし、学校も行かないといけねえし。これ以上はきっと、父さんも許してくんないだろうな」
「そうかあ」
ミホシは膝を立てて、そこに頬を預けた。まるで首を傾げるようにしてソラをのぞき込んでいる。
「……ミホシは、どうするんだ?」
その問いを口にするのに、勇気を絞り出した。
何しろその答えはほとんど分かっていて、ミホシとソラの道を違えるものであることは間違いないからだ。
「あたしは――」
ミホシはそこで言葉を切った。
彼女も分かっているのだろう。二人が共にはいられないことも。
「あたしは、姶良に残ろうと思う」
やっぱり。
ソラは案外冷静にその返答を受け止めた。
「あたしのお父さんもお母さんも、とってもすごい人だって分かった。弓弦さんも、日輪先生も、夙夜さんも。みんなが、二人の事を褒めてくれて、待っていてくれて……その子供でしかないあたしも受け入れてくれた。それが本当に嬉しかったの」
ミホシは、大きな目でソラを覗き込んだまま、続けた。
「でもあたし、お父さんとお母さんの子供だって胸を張れるほど、何かが出来るわけじゃない。それが悔しかった。お父さんみたいに戦うことはできないし、お母さんみたいに蟲の知識があるわけでもない。あたしはずぅっと無力だった」
「そんな事ないだろ。今だって、ミホシのお蔭で天蓋にあいた穴を塞げそうなんだぜ?」
ソラの言葉に、ミホシはふるふると首を振る。
「ううん、まだまだ。あたし、いろんな事が出来るようになりたい。いろんな事が知りたい。お父さんとお母さんからもっといろんな事を教わりたい。だってあたし、二人の娘だもん。二人みたいに、みんなに頼ってもらえるようになりたいの」
ミホシは未来を見ていた。
両親の背を見て、自分の進む道を見つけ始めていた。
「そうしないと、きっとソラの隣にいられない。あたし自身が成長しないと、自分で納得できない。外の世界じゃなくてこの姶良で……姶良というよりも、お父さんとお母さんの傍で、かな。だから、あたしは姶良に残る。もし、お父さんとお母さんが旅立つなら、見送ろうと思ってたけど、やっぱり一緒に行く。まだあたし、二人と一緒にいたいの」
ソラは静かにその決意を聞いて、受け止めた。
「オレもだ。まだ、出来ないことのほうが多くて、ミホシと二人では旅に出らんないや」
同じ気持ちもソラも感じていたからだ。
晃が、寛二が、朔が。夙夜が、日輪先生が、弓弦が、望が。
ソラの前を歩いてくれた大人たちの背中を見て、ソラはたくさんの思いを胸の内に秘めることになった。
「父さんは目指したいと思うカッコいい研究者だったし、寛二さんと夙夜さんは憧れる技師だし、弓弦さんと望さんはついていきたいと思うようなリーダーだった」
瞼の裏に、目指すべき背中を思い浮かべる。
まだまだ、その距離は遠い。
「オレももっと勉強する。ミホシと旅に出られるくらい、強くなるよ」
ミホシは姶良で。
ソラは外の世界で。
もっともっと、自分を磨きたい。
二人の思いは同じだった。
「待ってて、ソラ。大きくなって、きっと迎えに行くよ」
「そういうのは男のオレのセリフだろ。勝手にとるなよ」
ソラが唇を尖らせると、ミホシはくすくすと笑った。
「3年」
「?」
「3年、待ってて。お母さんが姶良を出た歳、15歳になったら、あたしはきっと、ソラを迎えに行くから」
ミホシが12歳。ソラが13歳。
学校を卒業するのは15歳だから、それから1年。
「分かった、オレも必ず大きくなって、強くなっておくから」
「必ず一緒に旅に出ようね。それだけは、約束」
ミホシが小指を差し出し、ソラはすぐに指を絡めた。
「ああ」
小さな約束。
火山灰に埋もれた美しい街で、幼い二人が交わした約束。
視線を合わせ、どちらからともなく笑いあう。
「楽しみだね。姶良みたいに、まだみんなが知らない土地がいっぱいあるんだろうね。そこには、たくさんの人が住んでるんだね」
「うん。たくさん景色を見て、たくさんの人に会いたい」
その時は、隣にミホシがいるはずだ。
あの時見た夢のように、ソラを見て微笑んでくれるはずだ。
それを思うだけで、未来が明るく開けた気がした。




