31
眠っていた月白種族の少女は、眩しそうに目を細め、ミホシを見上げる。
「朔……?」
その口から漏れたのは、よく知った名前だった。
ミホシはふるふる、と首を横に振った。
眠っていた少女は、何度か瞬くと、ああ、と得心したように唇の橋をあげた。
「ミホシか……大きくなったな」
「あたしのことがわかるの? ……お母さん」
「もちろんだ。自分の娘なんだから、分からないはずないだろう?」
ミホシの母は、ゆっくりと手を動かし、ミホシの頬を撫でた。
ミホシはみるみる表情を崩し、その両目からは大粒の涙が流れ出した。
「お母さん……お母さんっ」
まるで迷子になっていた子供のように、ミホシは泣いた。大きな声を上げ、しゃくりをあげ、頬に触れた母の手を握りしめて。
ソラの胸は、またくぅっと締め付けられる。
無性に、父の晃と、置いてきてしまった自分の母親に会いたくなった。
「お母さん、あのね、きいて、お父さんが、ね……」
ミホシはしゃくりをあげながら、懸命に話そうとした。が、うまく声が出ないようだ。
ソラはそっとミホシに近づいて、その背中に手を添えた。けれど、ミホシは泣きやむどころかますます大きな声で泣き出した。
「キミは?」
「ソラっていいます。ミホシの友達で、研究員の晃の息子です。はじめまして」
そう言って、ソラはぺこりと頭を下げた。
「キミは礼儀正しいな」
少女は横たえられていた棺から体を起こした。
「ミホシの母のカリンだ。よろしく、ソラ」
が、永い眠りから覚めたばかりでまだ万全ではないのだろう。ゆらり、と体が傾いだが、凪が支えていた。
凪を見て、はっとした表情になるカリン。
「歯車機械の凪だよ。夙夜さんが作ったんだ」
「……夙夜が」
呆然と呟くカリン。
が、すぐにはっとした。
「ここは、どこだ? 姶良なのか? ずいぶん長い間眠っていた気がするが、いったいあれからどれだけ経っている?」
カリンがソラに問いかけたそのとき、どこかからどぉん、と何かが爆発する音が聞こえた。
ソラは手短に説明する。
いま、中央研究所が、姶良を襲っているという事。その中央研究所が有する船の中にいて、その船はいま、姶良の真上の灰の海に浮いていること。姶良が今、中央研究所の強襲に抵抗し、護衛部隊が必死で街を守っていること。
そして、その中で、カリンの存在が姶良の民に通知されたこと。
「朔さんがこの船にいるんだ。カリンさんを捕られて、すごく怒ってる。さっきの音も、朔さんだと思う。廊下にも人がいっぱい倒れてて、扉も破壊されてた」
ソラの言葉で、カリンは眉をひそめた。
「たぶん、カリンさんに会えば落ち着くと思うんだけど」
上階から爆発音。どうやら朔は相当暴れているようだ。
早く、止めなくては。
「まったく、朔ときたら……あいつは、幾つになっても変わらないな」
大きくため息をついたカリン。
が、体を起こそうとしてゆらりと倒れた。
「すまない、あたしはすぐに動けそうにない。ミホシと先に行って、まずは正気に戻してやってくれ」
「正気に……って、どうやって?」
「簡単だ。破裂蟲を顔面に叩きつけてやれ」
「えっ?!」
ソラは思わず大きな声をあげた。
「ちょ、ちょっと乱暴じゃないかな、カリンさん」
「何故だ? あたしはいつもそうしてるぞ」
平然と告げるカリンに、ソラは困惑した。
「ミホシ、破裂蟲はいるか?」
「うん。一匹だけ残ってる」
「よし、思いっきり朔の顔面に投げつけろ。日頃の恨みも込めてな」
なんて事を言うんだ、この人は!
「早く行け。時間がないんだろ? あたしは、少し回復したら追いかけるから」
「……分かった。行こう、ミホシ」
ようやく泣きやんだミホシの手を取り、カリンの事を凪に任せ、朔を止めるために部屋を飛び出した。
「ミホシの母さんって、なんだかずいぶんイメージと違ったよ」
「そう?」
二人で、操舵室に向かう階段を上る。
「うん。もっと、大人しくて知的な人かと思ってた」
ミホシみたいに。
そんな言葉は飲み込んだ。
「お母さんはとっても強いよ。お父さんが、お母さんにだけは絶対に勝てないって言ってたもん」
ミホシは笑う。その頬にはまだ涙の痕が残っていたけれど、元気そうだった。
それだけでほっとする。
階段の先、重そうな鈍色の扉が見えてきた。しかし、その扉さえも大きな力で破壊されている。
その先の部屋からは、灰色の風が流れ込んできていた。
「行こう」
「うん」
ミホシと手を取り合って、部屋に飛び込んだ。
最初に見たのは、折り重なるように倒れる中央研究所の人たちだった。すべて朔がやったのだろうか。
その向こう、割れた窓を背景に朔は立っていた。灰色の風が割れたガラスから吹き込んでいる。
薄暗い中、朔はまるで魔王のように佇んでいた。
左手で人の首を掴んでいる。あれは園山だろうか。整えていた髪をふり乱した男は、先ほど見たときとまったく印象が異なっていた。喉首を捕まれた園山は苦しげに両手を暴れされ、もがいていた。
もちろん、朔はびくともしなかったが。
「お前は、どれだけ俺たちを食い物にすれば気が済むのだ?」
ぞっとするほど冷たい声が響いた――一瞬、これが朗らかな朔の声と同じだと判別できないほどに。
ミホシも見たことのない父親の姿におびえて足を止めた。
「これ以上、俺の大切な物を踏みにじる行為を続けるなら、容赦はせん。お前も……」
朔の瞳が光を失った。
本気だ。
その瞬間、ソラは気づいた。
左手の義手。これには武器が仕込まれているから、といった朔。空砲を最新のものに交換しておくね、といった夙夜。
まずい。
「ミホシ、急げ!」
朔が目の前で人を殺めてしまう前に。
喉元に空砲を放つ前に。
ソラは先に飛び込んで、朔の腰のあたりにつっこんだ。多少バランスを崩しただけで、ほとんど効果はない。
「ミホシ!」
後ろからミホシがかける。
その手に、小さな虫を握りしめて。
「お父さん、目を覚まして!」
思い切り、朔の目の前に叩きつけた。
ぱぁん、と乾いた音。
同時に、朔の体は破裂の衝撃でのけぞった。左手で掴んでいた男は床に落ち、その直後、発射された空砲は天井に大穴をあけた。
あの威力。
人の喉元に当たっていれば、確実に命を奪っていただろう。
間一髪で防ぐことが出来た。
勢い倒れ込んだ朔の胸の上に、ミホシが乗り上げた。
「お父さん!」
そして、耳元で叫ぶ。
一瞬、意識が飛んでいたらしい朔だったが、ミホシの声ですぐに意識を取り戻した。
「……ミホシ? 何故ここに」
「お父さんを止めにきたの! お母さんは無事だから、安心して。いま、凪が連れてくるから!」
その言葉で、朔ははっとしたようだ。
「カリン! カリンは起きたのか?」
焦燥を伴う朔の声に、ソラはドキリとした。
ミホシの母を起こしてしまったのは、ソラだ。冷凍庫を開けっ放しにしたせいで、きっと、目覚めにつながった。
カリンは病のために眠った、と言っていた。でもきっと、まだ早い。病を治す手段が出来ていない。
叱られる、と思う以上に、悲しかった。自分のしでかしてしまったことが。未だ救う術のないミホシの母を目覚めさせてしまったことが。
「……オレが起こしたんだ。ごめん」
吐きそうな感情とともに、ソラは絞り出した。
朔はそれを聞いてはっとした顔をした。
先ほど見た朔の無表情が脳裏に焼き付いている。朔の大切な物を傷つけた者の末路はよく分かっている。あの空砲を向けられるのは、ソラかもしれないのだ。
が、朔の顔はすぐに笑み崩れた。
「よいのだ。俺もちょうど、カリンに会いたいと思っていた頃だ。ミホシもそうだろう?」
ミホシもこくりと頷いた。
「でも、でも……」
ソラがさらに言い募ろうとした時、背後から声がかけられた。
「気にするな、ソラ。あたしだって、このまま眠っていて朔やミホシに会えないまま、目覚められないところだったんだからな」
はっと振り返ると、そこには凪に支えられたカリンが立っていた。
「……カリン」
呆然と、朔の声が響く。
まるで信じられない、といった声音だった。
「朔。ここまで、廊下は酷い有様だったぞ。本当にキミは全然変わってないな。本当に父親をきちんとやれているのか?」
カリンの物言いに、朔は左手で顔を覆った。
「待ってくれ。まだ、気持ちの準備が出来ておらん。落ち着くまで、少し待ってくれ、カリン!」
悲鳴のような朔の声。
ミホシを後ろから抱きかかえるようにして床に座り込み、カリンに背を向けた。
が、カリンはそれを許さなかった。
凪の手を借りて真っ直ぐに朔のもとへ向かい、その後頭部に小さな破裂蟲をさく裂させた。
ミホシが短く悲鳴を上げる。
「キミは本当に、よくわからないところで照れるよな。それも、変わってない」
腰に手を当て、唇の端を上げて。カリンは朔の顔を覗き込んだ。
「……カリンは相変わらず容赦ない。ミホシに破裂蟲を使うように言ったのもカリンなのだろう?」
「目が覚めたろう」
「ああ、十分だった」
軽く言葉を交わした後、朔は両手を伸ばした。
当たり前のように、カリンはその中に納まった。
「カリン、おかえり」
「ただいま、朔」




