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「ソラ、こっちだよ!」
リンはそう叫んだ直後、部屋を飛び出していた。
凪に、ミホシを頼むと言いおいて、ソラは慌ててその背を追う。
リンは走りながら藍色の衣を脱ぎ去った。
びっくりして目を逸らしそうになったが、どうやらリンはちゃっかりその下にいつもの動きやすい衣を纏っていたらしい。
脱いだ着物は廊下の真ん中に放り出し、そのままさらに速度を上げた。
追いつけない早さではない。ソラはかけっこなら得意なのだ。
リンは走りながら、ソラに昇降機を放った。
「吹き抜けを降りて、そのまま階段を下るよ。そこから街を上から抜けて、樹海に行こう。半日もあれば白鬼の森に着くと思うから、そこで神楽を待つ」
「わかった」
リンとソラは先行部隊だ。
なにより早く、現場へ駆けつけなければならない。
「手加減しないよ。私の後にぴったり着いてきて!」
そう叫んだ瞬間、リンは御苑中央にある数階分の吹き抜けの手すりを飛び越え、身を踊らせた。
手すりの向こうの高さに、ソラは一瞬だけ躊躇した。
が、迷っている場合ではない。
リンと同じ方向に、同じ場所に菌糸をのばし、ソラは空中に身を投じた。
耳元を風が吹き荒んでいく。
ごうごうという音で、リンの声は聞こえない。風が強いので、ゴーグルをおろし、彼女の一挙手一投足を目で追った。
動きに無駄がない。
おそらく、この場所を下り慣れているんだろう。リンの軌道を追っていけば、最短ルートでたどり着けそうだ。
練習の時よりずっと速い速度で体が宙を舞う。
――本当に、空を飛んでいるようだ。
建物の吹き抜けをほとんど落下する疾走感に包まれ、高揚する。
こんな時なのに、ソラは歓声をあげたくなった。
リンはうまく勢いを殺して1階の床に着地した。
少し距離を置いて、ソラも着地する。まだ包帯の巻いてある足の裏がジンジンした。
「さすが、神楽ちゃんが認めるだけあるね。まさか本当についてくるとはね!」
振り返り、にっと笑ったリン。
「ついて来いって言ったのはそっちじゃないか。それに、降りられたのはリンについてきたからだよ。オレ一人だったら、いったいどこに飛んだらいいのか、どこに菌糸をくっつけたらいいのか分かんねえもん」
「それでも、だよ」
リンはくすくすと笑うと、廊下の奥を指した。
ソラはこくりと頷き、リンと共にかけだした。
御苑の建つ断崖の内側をくり貫いて作られた螺旋階段。地の底まで続くかと思われるそれを、リンは同じ要領で下っていく。
その動きに一切の乱れはなく、ソラも安心してそれに続いた。
なにより、この昇降機の扱いにどんどんと慣れていった。今、この瞬間でさえソラは上達している。
「ソラなら、練習すれば外から降れるようになるかもね!」
「外?」
空を切る音がうるさい。
リンとの会話も、お互い、自然と怒鳴るような声になる。
「そうだよ! ミホシの父ちゃん、朔さんは、御苑の垂直な壁を一人抱えて下れたし、断崖も、こんな階段じゃなく外から楽々降りたんだって!」
「冗談だろ?!」
ソラは金切り声をあげた。
いま、階段を下っているのは手すりがあるからだ。それに、途中で足を止める場所もある。踊り場に降りれば休める。
でも、外から下るのはそうもいかない。
特に、垂直な壁なんてどうやって上ったらいいのか分からない。
朔はもしかすると、ものすごい人だったのかも。
子供のように笑う朔の顔を思い出しているうち、ちょうど地面に到着した。
「よし行くよ、ソラ! 神楽ちゃんが到着する前に、原因を突き止めちゃおう!」
昇降機を使った移動は、驚くほど速かった。
何しろ、菌糸の弾力を使って走るより速く空中を闊歩するのだ。灰色の石積みの町並みを、リンは驚くほど巧みに通り抜けた。
鮮やかな色の衣を着た人々が行き交う町並みを見下ろしながら、あっと言う間に街の入り口までたどり着く。
「ここからは、ちょっと走ろう。樹海に入ればまた移動できるから」
「分かった」
ソラは両手に巻いていた包帯をとった。
いつもより赤い両手。でも、傷はもうなく、かゆみもほとんどなくなっていた。
白い布を背後に流し、ソラはリンの背を追って駆けだした。
リンの見立て通り、キノコの隙間を縫うように飛ぶ二人は、たったの半日で白鬼の森にたどり着いた。
白色の地面に手を突いて、さすがのリンも崩れ落ちる。
「つ、疲れた……! ちょっと、休憩……!」
「オレもだ……左腕がもげそう」
痛む肘をさすりながら、ソラも座り込む。
ここまでの薄暗い樹海は少し怖かったが、白鬼の森は輝光蟲が多く集まっていて明るい。
見渡す限り白色の野原を見渡したソラは、その中に藍色を見た……気がした。
視線を戻し、目を細める。
白の中に、藍色。あれはなんだろう?
リンも気づいて眉間にしわを寄せた。
「あれ……人?」
リンの言葉で、ソラははじかれるように立ち上がった。
あの藍色に見覚えがある気がして。
今なら分かる。あの藍色の衣は、宗主一族のものだったんだ。
ざくざくと足もとのカビを踏みつけながら、ソラは駆けた。
「朔さん!」
大きな声で、その人の名を呼びながら。
「朔さん! 朔さん、しっかりして!」
ソラがしゃがみ込んで必死でその肩を揺すると、朔はうめき声を上げた。
ほんの少し、青色の瞳がのぞく。
「……ソラ?」
「そうだよ、朔さん! 大丈夫?!」
朔はゆっくりと体を起こした。
「ここは……ああ、そうか。白鬼の森に着いたところで力つきたのだ。夙夜がおると思っておったのだが」
「夙夜さんは、オレとミホシを街まで案内してくれたから、いま、姶良だよ」
ひどくつらそうではあったが、朔が目を覚ました事で、ソラはほっとした。
「ミホシは?」
「御苑にいるよ。凪に任せてきたんだ」
「凪、だと?」
「うん。機械人形の、凪」
それを聞いて、朔は大きく目を見開き、ぱちくりと瞬いた。
どうやらはっきりと目が覚めたようだ。
「ああ、そうか。夙夜が作ったのだな。夙夜は歯車機械が非常に得意だからな」
「そうだよ。夙夜さんだけじゃない、日輪さんにも、宗主一族の望さんにも弓弦さんにも会ったよ。みんな、ミホシに会えて嬉しいって喜んでくれた!」
伝えなくちゃ。
ミホシが歓迎されていること。
きっとそれは朔がなにより望んでいた事のはずだから。
「……ああ、そうか」
朔は笑った。
いつもの少年のような笑みではなく、深い情愛を持った笑顔だった。ミホシにしか向けない表情。
が、朔はそこで大きく咳をした。
口元を押さえた掌に、血が滲む。
「いかん、倒れている場合ではないのだ。すぐに、望姉さまと弓弦姉さまに伝えねば」
よろよろ、と朔は立ち上がる。
リンがはっとしたようにその体を支えた。
「この子は?」
「リンだよ。日輪先生の娘さんなんだ。護衛部隊の一員でもある」
ソラが簡単に説明すると、朔はびっくりしたようにリンの瞳をのぞき込んだ。
緑の宝石のようなその瞳に、日輪の面影を見取ったのだろうか。
朔は穏やかに微笑んだ。
「そうか……俺は朔という。日輪の、親友だ」
「うん、知ってるよ。父ちゃんが何度も何度も教えてくれたもん。朔っていう友達がいたこと。その友達が、星空を探しに天蓋の上に行っちゃったことも」
「恨み言は言っておらんかったか?」
「ううん、聞いたことないよ。でも、一度だけ「寂しかった」って言ったのを聞いたよ」
朔はそれを聞いて、微妙な表情を浮かべた。
「ところで朔さん、なにがあったの? どうやってここまできたの?」
「ああ、そうであった」
リンに礼を言ってからその手を解き、しっかりと立った朔は、上を見上げた。
そこにあるのは、白いキノコの傘ばかりだが。
キノコの傘のさらに向こうから、どぉん、と音がした。御苑で聞いた音と同じ。先ほどから、何度も鳴り響いている音だった。
「中央研究所の船がここへ来ている。掘削船だ」
「くっさくせん?」
ソラとリンが首を傾げると、朔は頷いた。
「ああ。地面に穴をあける機械を積んだ船だ。中央の者は、天蓋を破ってこの姶良に侵入しようとしているのだ」




