12
ふわり、ふわりとぼんやり光る虫がソラの周囲を飛び交っている。真っ暗な中でソラを導くように飛び回る。明滅するその灯りに照らされて、足元の青緑色の地面やユグドラシルの幹の一部がぱっと暗闇に現れた。
一歩踏み出すと、さくりと軽い音を立てて足が柔らかな地面に沈む。
青緑色のその地面は、よく見るとふわふわとしたコケのようなもので覆われていた。
「すっげえ」
白い息を吐きながら、ソラは感嘆の声を上げた。
非日常の光景に、すっかり心奪われていた。
いろんな冒険小説を読んで、様々な光景を想像していた。空に浮かぶ城、天から落ちる滝、水底に沈む町。ドラゴンやエルフの登場するファンタジーもたくさん読んだ。
でも、想像は所詮想像でしかなく、目の前に広がる光景には勝てなかった。
ソラはスイッチを切ったランプを手に、ユグドラシルへと歩み寄る。
手は真っ赤にかじかんでいた。そういえば、食糧や防寒具を入れていたリュックサックも落としてしまった。
震える指で、そっとユグドラシルに手を伸ばした。
暗闇に少しずつ目が慣れてきて、明滅する小さな虫の明かりでぼんやりとその輪郭が見えてきた。
この光景を壊したくない。
ソラはランプのスイッチをひねり、一番小さな灯りだけをつけた。
白い成長線が縦に幾筋も入ったユグドラシルの幹がどっしりと構えていた。一周は何十メートル、もしかすると何百メートルもあるかもしれない。そしてその幹にはぽっかりと穴が空いている部分がいくつもあった。
白色の幹を丸くえぐり取って水晶をはめ込んだかのようになっている。大小さまざまな水晶が、聳える世界樹を彩っていた。
近寄って触ってみて、その冷たい感触で気づいた。これは水晶ではなく、氷だ。氷の塊が埋まっているのだ。
図らずも氷に触れてしまった指先はもう、ほとんど感覚がなくなっていった。
それでも、目が離せない。触れてみたくて仕方がない。
氷の中には、歯車が閉じ込められている。一つだけ歯車が浮いている氷の塊は小さく、組み合った機械のような歯車が浮いているのは少し大きな氷。
その中に、最も大きな氷の結晶があった。
「なんだ……これ」
ソラは息を呑んだ。
そこに浮いていたのは、ソラと同じ年頃の少女だった。
目を閉じて、氷の中に浮くように鮮やかな黄色の衣を靡かせている。ミホシが着ているのと似た衣装だ。上着のような鮮やかな衣を羽織り、胸の下あたりを幅広の帯で巻いて止めるタイプのものだ。
ランプの明かりに照らされ、結晶の中の少女が浮かび上がる。まるで生きているかのようだ。これは、本物の人間なんだろうか。
そして、その少女の耳は大きく尖っていた。
「……月白種族だ」
氷の中に閉じ込められたエルフの少女、そしてそれを彩るように飛び交うホタル。
ソラは寒さも忘れてぼうっと見入っていた。
「ソラ!」
ミホシの声がして、はっとした。
振り向くと、木の洞からミホシが転がり出てきた。
転ぶようにして青緑色の地面に手をついたミホシは、ソラの姿を見てほっとしたような笑顔を見せた。
そして、周囲を見渡してほう、とため息をついた。
「すごい……綺麗な場所だね」
にっこり笑うミホシを見て、先にこの景色を堪能してしまった罪悪感を覚えた。
ミホシと一緒にこの景色を見て、一緒に驚きたかった。
彼女はゆっくりとソラの隣へ歩み寄り、氷の結晶の中を見つめた。そして、大きく目を見開いた。
その目がみるみる細められ、何かを噛みしめるように閉じられた。
「ミホシ?」
「……うん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから」
涙をぬぐう仕草をしたミホシは、もう一度その少女を覗きこんだ。
「あたしだけじゃなかったんだね。お父さんの言ってた事は嘘じゃなかった。ここに、あたしと同じ『人間』が住んでるんだ」
白い肌と尖った耳、それから大きな光彩を持つ目。
ミホシは綺麗な横顔で笑った。
その表情がどことなく悲しそうに見えたのは、ソラの見間違いだろうか。
寒さのせいか、震える手でミホシはソラの服の袖をきゅっと握った。
「行こう、ソラ。ここにいたら、凍えちゃう。姶良の街に近づくにつれてあったかくなるみたいだから、少しでも街に近づかないと」
手を繋ごうとしたが、冷たくなりすぎてミホシの手を握ることが出来なかった。体が芯まで冷えている。リュックサックを無くしてしまって食べ物もないし、これ以上体力を削るわけにもいかない。
ユグドラシルを離れても、大きなキノコはいっぱい立っていた。木ではなく、キノコの林だ。ソラは、自分がウサギを追って不思議の世界に迷い込んだ女の子になったような気になった。
青白い光で明滅する小さな虫たちが二人を歓迎するように飛び回っている。
ミホシはその灯りを愛おしそうに見つめた。
「『夜光蟲』がいっぱいだ」
「やこうちゅう?」
「うん、この蟲の事だよ。樹海には、菌糸を纏った蟲たちがたくさんいるんだ」
ミホシは、ごそごそと袖の中に手を突っ込んで、何かを取り出した。
その指の先に止まっているのは、同じように青白く光る虫だった。そういえば、以前、コンテナに二人で押しこめられたときに見た気がする。
「これって、虫なの」
「『蟲』」
微妙な発音の違いを強調し、ミホシは空中に文字を書いた。虫、という字を三つ重ねて『蟲』。
ミホシは再び袖の中から何匹かの蟲を取り出した。
「これが『夜光蟲』。灯りに使うの。それからこっちが『破裂蟲』。びっくりすると、胞子をまき散らして弾けるの」
「あっ、格納庫で男たちを撃退したやつ?」
「うん、そうだよ」
ミホシはにっこり笑った。
「あたしはあんまり覚えてないんだけど、お母さんがこの蟲を飼うのが得意だったらしいの。姶良を出るときも、何匹か連れてて……着物の袂に入れて飼ってたんだって。あたしも、お父さんが世話して残ってた蟲を育ててたんだよ」
お母さん、と呼ぶ声になんとなく違和感を覚えた。
きっと、ミホシが母親の事を覚えていないせいなんだろうな、と思う。ずっと寄り添って育ててくれた父親と、小さい頃に死んでしまったという母親。それもきっとミホシは、月白種族だったという母親によく似ているのだろう。
ソラは両親が健在だから想像するしかない。ミホシの前であまり母親の事を話さないようにしている、と言った朔の心を理解するにはまだ遠いかもしれないけれど。
きっとミホシは、父親の朔が母の話をするたび、大好きな父を、会った事さえない母にとられてしまうような気持ちになったんじゃないだろうか。母という存在を理屈では理解しても、心が受け入れてないんじゃないだろうか。
指に止まっていた夜光蟲が、ふわりと浮いて飛んで行った。
故郷に帰ってきたことを喜ぶように、ミホシにさよならを言うように何度か円を描いたその蟲は、ふいっとキノコの林の向こうへ消えていった。
「……そうだね。蟲たちもここが故郷なんだもんね」
そう言うとミホシは袖の中から次々と蟲を取り出した。
カイコのような姿をした、もこもこの『破裂蟲』。腹の膨らんだ蜜蟻と同じ姿をした『接着蟲』、クワガタのような形をした『発火蟲』。
ミホシはどれがどんな蟲なのか解説しながら次々と地面に離していった。
蟲たちは戸惑いながらも、めいめい空へ飛んで行ったり、柔らかい菌糸の地面に潜り込んで行ったりした。
が、ぼてんとした体の破裂蟲だけはその場にころんと転がっていた。
「こいつ、体が重すぎて動けないんじゃないか?」
「うーん、確かに手足が短いけど……この子だけ、連れて行こうか」
ミホシは、破裂蟲を拾い上げた。
その蟲はミホシの小さな掌の上で、ぶるる、と体を震わせた。
よく見るとその蟲の手足は金属質で、関節には小さな小さな歯車が噛んでいる。ふつうの生き物ではないようだ。まるで、小さなぜんまい仕掛けのおもちゃのようだ。
飛び交う夜光蟲を一匹捕まえてみると、キリキリ、キシキシと歯車のこすれる音がした。
びっくりしてソラはぱっと手を放す。
夜光蟲はそのまま群れに帰ってしまった。
ミホシが普通の人間じゃないみたいに、ここにいるのはソラの常識内の生き物ではないのだ。
そう実感し、ぶるりと背筋が震えた。
寒さのせいだと、思いたかった。




