プロローグ
目の前に広がるのは、満天の星空。
空が落ちてくるのではないかと不安になるほどの光景に、息を呑んだのを覚えている。
ソラは思わず、隣に座った父親の手を握りしめていた。
「綺麗だろう?」
父親の問いに答えられず、ソラはただただ天を見上げた。首の後ろが痛くなってきたけれど、目を離すことができなかったのだ。
あの星空には、そのくらい力があった。幼いソラの心を掴んで離さなかった。
10年経った今も、あの光景はソラの心の一番深いところに根付いている。
◇◆◇◆◇
遅い。
昼食を一緒に食べると約束をしていた父親が全く出てこないのにしびれを切らして、ソラは執務室を覗きこんだ。
「父さん、まだー? オレ、お腹すいたんだけど」
「すまない、もう少しかかりそうだから食堂へ行っててくれるか? 先に注文して食べてくれていいから」
狭い空間に大量の紙資料が積まれた部屋の奥から、父の声が返ってくる。
専門書と小説の入り混じった本の塔がうず高く積まれ、その間から父の黒髪が見え隠れしていた。ソラと同じクセのあるぼさぼさの黒髪。ソラが父親似だと言われる最も大きな理由だ。
仕事に夢中になると、父の晃はなかなか区切りをつけられないのだ。だから、ずっと研究所にこもって出てこない。母はそんな父に呆れているので、代わりにソラがこうやって時折様子を見に来るのだ。
いつからか、学校がお休みの日に、父の研究所に来るのが習慣になっていた。研究所の廊下を一人で歩いていても顔見知りの研究員に声をかけられる程度には馴染んでいるのだ。
仕方がない。
ソラは父の部屋を出て、一人で研究所の廊下に出た。
父親の部屋を出ると、そこは観測用に一面ガラス張りの部屋がある。もっとも、そこから見える景色は見渡す限りの灰色で、空も地面も区別がつかなかったけれど。
ここは国立火山研究所――ソラの住む『大和』という国で、千年前に相次いで火山噴火を起こした辺境の地に設立されたものだ。今も粉塵が舞い続けるこの地は、空を灰に覆われている。もちろん太陽は見えないし、星空も見えない、極寒の地だ。
車で数十キロも行けば空が見える場所もあるし人の住む町もあるのだが、この地域だけは千年経った今も舞い上がった灰に閉ざされていた。国は『昏海』と名付けたこの地域を立ち入り禁止指定していた。
そして、千年前のような噴火が、再び起きるかもしれない。そう危惧した政府がこの最果ての地に研究所を設置して監視しているのだった。
ソラの父親はこの研究所の若き所長なのだ。
父が研究に没頭する事を疎ましく思う母にはまだ話していないが、ソラも大人になったらこの研究所で働きたいと思っていた。大量の観測データを前に研究に没頭している父の姿を見るのは好きだったし、研究所の人たちもソラに優しくいろいろなことを教えてくれた。
しかし、ソラは今年で13歳。大人になるのはまだ先で、自分の将来を決めるのもまだ先で、研究所で働きたいというのもぼんやりとした妄想でしかなかった。
研究所の食堂は一階の隅にある。
風に大量に含まれる灰のせいで地上からは出入りできないため、研究所の出入り口が地下にあるため、食糧庫に隣接する食堂は低い階に作る必要があったのだ。
最上階である6階にある晃の執務室からはかなり遠い。
ソラはいつも、6階分の螺旋階段の手摺を、滑り台のように下るのが好きだった。もちろん、誰かに見つかったら――特に、ガミガミ怒る女性研究員の園山なんてもっての外だ――確実に怒られる。この方法で1階まで降りられるのは、一人でいる時だけなのだ。
周囲に誰もいないのを確認して、ソラはひょいっと手摺に飛び乗った。
お尻で滑り、くるくると回転しながらあっという間に一階へ。そして、最後は2メートルほど飛んで、着地……と、うまく決めるつもりだった。
それなのに。
何故か今日に限ってうまくいかなかった。
手摺の終わりで体が空中に放り出された瞬間、足がもつれて着地に失敗。もんどりうって転がってしまった。
その上、転がった先に待っていたのは地下への階段だった。
「うわあああー!」
悲鳴を上げながら、ごろごろと階段を転がり落ちる。
頭だけは庇って、手足を縮めるようにして勢いが止まるのを待つしかなかった。
最後に、背中から思い切り壁に叩きつけられ、息が止まった。全身を衝撃が駆け抜けて、そのあとに力が抜けた。
背中も肩も両手も足も、どこもかしこも打ち付けていてどうしようもなく痛い。とても動けそうにない。見上げた1階の灯りは、とてつもなく遠くに見えた。
しかし、ソラの心を占めていたのは、『怒られる前に戻らなくては』という焦燥感だった。
痛む手足を無理やり動かし、ずるりと立ち上がろうとした。が、完全に立ち上がる前にソラの足はもつれ、壁に寄りかかってしまった。
そのうえ、寄りかかった先は壁ではなかった。
がちゃり、と音がした。
それが『扉』だと気づいたのは、寄りかかった壁が動いて、ソラの体を扉の向こうに押し出した後だった。
階段を転げ落ちたうえ、予想外に扉の向こうへ放り出され、ソラは恨み言を言いながら床に這いつくばった。
いったい自分が何をしたというのだろう。今日は本当についてない。
冷たいリノリウム床の感触。少しべたつくのは汚れているからではなく、リノリウム自体がそういう素材だからだ。
ソラは精いっぱいの力を込めて体を起こした。
着ていたジャケットを脱いで、腕や足を確認する。ひどい怪我はないようだが、擦り傷が多かった。これは、お風呂に入ったらすごくしみそうだ。
今日、家に帰った後の事を考えながらソラはため息をついた。
転げ落ちたのは地下だった。研究所の入り口とは違う区画らしく、周囲の壁は真っ白で、灰に汚れた研究所の上階とは雰囲気がまるで違う。
どこか薄暗く、まるで無菌の病院のような印象を受けた。空気もとても清浄で、ほとんど何の匂いもしなかった。
「……変な場所だな!」
怖いな、と思ってしまった自分を誤魔化すようにソラはそう言い放ち、痛む足を引きずって歩き出した。
薄暗い廊下の奥へ。地下なので窓もない。匂いもないが、音もしない。
心臓がドキドキと大きな音を立ててい。13歳の少年が小さな冒険心を掻き立てられるには十分だった。父親の研究所に、入ったことのない地下の空間。それだけで足を進める理由になる。
何よりソラは本を読むのが好きだった。わくわくするような冒険小説、ドキドキするミステリー、恋愛小説はまだ早いけれど、不思議な生き物たちのファンタジー小説も大好きだった。
もしかしたら、本の中のような冒険が待っているかもしれない。
ソラの胸は高鳴った。
だから、突き当たりの扉を見つけたときに、何の躊躇もなく引き開けたのだ。
突き当たりの扉の向こう、光が抑えられた室内に、ほんの少し目を細めると、薄明りの向こうに人影が見えた。
「誰かいるのか?」
ソラは呼びかけた。
一歩、室内に入り込む。人影が揺れた。
壁に手をついて、一歩ずつ歩み入った。
その時、女の子の声がした。
「……だあれ?」
ソラは足を止めた。
薄暗がりに目が慣れてきて、人影がはっきりと女の子の形をとったからだ。
見たことのないくらい綺麗な女の子だった。
暗い中でも光を放っているかのように澄んだ白い肌と、そこに目立つ濃い赤色の瞳。銀色に近い金の髪が肩まで落ちて、愛らしい顔を縁取っていた。気の強そうな目を不安そうに細めて、こちらを伺っている。見たことのない、花の模様が入った服を纏っていた。
何より、金の髪から覗く耳が、大きく尖っていた。
ソラは息を止めた。
その女の子の姿が、童話や絵本で読んだ『エルフ』という種族にそっくりだったから。