侵攻開始までの時間は?
その後、僕たちはミカさんに促されて、それまで居た取り調ベ室のような場所から外へ出た。ミカさんを先頭にして僕たち四人は通路をしばらく歩いて進み、やがて突き当たりにあったエレベーターに乗った。
「……これから僕たちはどこへ行くんだろう?」
と、僕は不安になって訊ねてみた。僕はさっきミカさんが僕たちの身体を使って何か実験をさせてもらうことになるかもしれないと言っていたことが気になっていた。それは痛かったり、苦しかったりするようなことなのだろうかと僕は怖かった。
「これから向かうところは、この建物内部にある、宿泊施設です」
と、ミカさんは僕の問いにそう答えながら、エレベーター内部にあるタッチパネルを操作した。すると、身体に浮遊感が一瞬伝わり、エレベーターが動き出したのがわかった。
「あなたがたにはさきほど申し上げましたように、ちょっとした検査に協力してもらうことになりますが、それまでは一旦、この建物にある部屋でお休み頂きたいと思っています」
「……検査って、どんなことをするんだろう?」
僕は不安に思って言った。
「心配しなくても大丈夫です」
と、ミカさんは僕の顔を見ると、子供を宥めるような笑顔で言った。
「痛くも痒くもありませんよ。走査器であなたがたの身体組織を調べるだけです。一瞬で終わりますよ」
「走査器って?」
僕は確認してみた。ミカさんは僕の問いに、何か適当な表現はないものかとエレベーター内部の天井あたりに視線を向けて考えているようだったけれど、やがて、
「簡単に言ってしまえば、レントゲン写真みたいなものだといえるでしょうか?」
と、少し自信のなさそうな口調で言った。
「みなさんの身体に光を一瞬あてるだけのことです」
……なるほど、それだったらなんとか大丈夫そうかも、と、僕は内心で一息ついた。ミカさんが検査というから、僕は白いガウンのようなものを着せられて、身体のあちこちを調べられたり、血液を抜き取られたりするようなことを想像していたのだ。僕がそんなことを思っていると、エレベーターのドアが開いて、目の前にまた通路が現れた。
ミカさんに通されたのは、黒を基調とした少し高級感のあるホテルのような部屋だった。二部屋あり、それぞれの部屋にふたつずつベッドがあった。大きな窓があり、そこからは外の世界を眺めることができた。窓の外には摩天楼のような大きな建物がいつくも聳えたっているのが見えた。空には透明なチューブのようなものが張り巡らされている。外の世界は雨の日を思わせる青灰色の色彩に包まれていた。都市の上部を僕たちが乗ってきた黒い車のような乗り物が行き交っているのも確認できた。遠くから見ていると、それ乗り物というよりも、黒い虫が空を飛んでいるようにも見えた。
「それではこちらでごゆっくりお寛ぎください。部屋のなかにある飲み物や食べ物は自由に飲み食いして頂いて結構です。それとはまたべつにあとで食事も運ばせますので」
ミカさんはそこで言葉を区切ると、
「もちろん、料金はかかりません」
ミカさんは悪戯っぽい笑顔で言った。
それから、ふいに、ミカさんは真顔に戻ると、
「……ただ、申し訳ないのですが、みなさんがこの階から他の場所へ行くことは現段階では禁止させて頂きます。べつにあなたがたを疑っているわけではないのですが、セキュリティーの問題もありますし……上から、あなたがたの自由が完全に認められたわけではありませんので……申し訳ないのですが」
「わかりました。ミカさんから声がかかるまで、ここで大人しく待機しています」
と、明美が微笑んで言った。
「まあ、ここを出たところで、行く当てもないしな」
和司さんも仕方がないといったように言った。」
ミカさんはすいませんというように薄く微笑むと、軽く一礼して部屋を出て行った。
「さて、これからどうしたものかな」
和司さんはミカさんが部屋から出て行くと、憮然とした顔つきで言った。明美は部屋の奥に歩いて行くと、冷蔵庫らしき黒い箱を開けて中身を確認していた。そして僕たちの方を振り返ると、「オレンジジュースみたいなのがあるけど、いる?」と、確認してきた。
和司さんはそれどころではないという表情で首を振り、僕は少し和司さんの反応が気になったけれど、喉が渇いていたので飲みたいと言った。明美は自分の分と僕の分のペットボトルのような容器に入った黄色い液体の入った飲み物を持って僕たちのところまで戻ってきた。
僕は明美から飲み物を受け取ると、蓋を開けて一口飲んだ。そして一口飲んでから僕は軽く驚いた。味が想像していたものとは違っていたのだ。甘いことは甘いのだけれど、でもそれはオレンジジュースの甘さではなかった。マンゴーのような濃くのある甘さで、それでいて香はメロンのような匂いがした。僕がしかめっ面を浮かべていると、「もしかして不味いの?」と、明美が不安そうな面持ちで訊ねてきた。僕は首を振ると、「いや、そうじゃなくて……」と、表現に困った。すると、明美は自分で手に持っていた飲み物の容器の蓋を開けると、ひと口飲んだ。それから、なるほどいうような顔で肯いた。「不思議な感じね」と、明美は呟くような声で感想を述べた。でも、結局、明美はその飲み物が気に入ったようで全て飲み乾してしまった。
ミカさんに案内された部屋は広々としていて、部屋のなかにはベッドの他にも高級感のある、革張りの茶色のソファーがあり、そこに僕たちは腰かけた。
「……今度のことについてだが、どうしたら良いと思う?」
和司さんは何か良い意見はないかというように僕と明美の顔を見回して言った。
「……とりあえず、今はどうすることもできないし、様子を見るしかないんじゃないしら?」
明美は思案気な表情で答えた。
「少なくとも、ミカさんは悪い人ではなさそうだし」
和司さんはそれについては異論はないといように首肯した。
「俺が問題にしているのはそのことじゃない。恐らく、橘も大丈夫だろう。俺が気になっているのは黒鬼族って呼ばれている異世界の生物だ。……もし、ミカさんが言っていることがほんとうのことだとすれば、現在、俺たちがもといた世界はどれくらいの危機に曝されているんだろうか」
「……確か、ミカさんはもうあまり時間がないって言っていたと思うけど」
僕は少し小さな声で言った。和司さんは僕の意見に真顔で肯いた。
「こちらの世界の人間が世界線を閉じようとして躍起になっているのと同じように、黒鬼族も、そうさせないように、今頃動いているだろう。あるいは最悪の場合、黒鬼族の方が、我々よりも一歩先に進んでいるかのもしれない……」
「……どうしてそう思うの?」
明美は眉を潜めて、和司さんの顔を見ると言った。和司さんはそう言った明美の顔を見返した。
「……あの実験室で会った、遠藤とかいう男の言葉が気になるんだ」
和司さんは思いつめたような表情で言った。
「彼の発言によると、俺たちは異世界と異世界を繋ぐ窓になるという話だった……そして彼の口ぶりを聞いていると、彼らは既に俺たちのような、窓となりうる人間を、何人か確保しているように思えた」
明美はその和司さんの発言を耳にした瞬間、表情を強張らせた。僕がどうしたのだろうと明美の顔を注視していると、
「……もしかしたら」
と、明美は眉根を寄せて険しい表情で言った。
「わたしがネットで連絡を取っていたひとたち……異世界から来たっていう体験を持っているひとたち……もしかしたら、そのひとたちは既に遠藤くんたちの一味に捕えられてしまっているのかも……」
「……恐らく、その可能性は高いだろう」
和司さんは腕組して顔を軽く伏せながら言った。
「あるいはもしかすると、彼らは既に、自分たちの世界と、俺たちの世界を繋ぐ通路を、その、明美がやり取りをしていた人たちの身体を使って作り上げてしまっているかもしれない」
「……じゃあ、もう既に、わたしたちがいた世界は黒鬼族からの攻撃を受けているの?」
明美は怯えた表情で和司さんの顔を見つめた。
「……あるいは」
和司さんは腕組したまま暗い表情で答えた。僕は和司さんの発言に耳を傾けながら、自分の親しくしていたひとたちが、わけのわからない生物に次々と殺戮されていく場面を想像して恐ろくしなった。
「だが、たぶん、まだそこまでは行っていないだろう」
和司さんは少し間をあけてから、悪い予想を振り払おうとするように、軽く頭を振って言った。
「……これはただの俺の感なんだが、あの遠藤という男の言動から判断する限り、まだやつらの侵攻は準備段階にあるといった印象を受けた。まだ十全じゃないといった感じだった。もし侵攻があったとしても、それはすごく限定的なものでしかないんじゃないかと思う」
「じゃあ、まだ、なんとかなりそうなんですね」
僕は和司さんの発言にいくらか救われたような気持ちになりながら言った。和司さんは僕の希望的発言に肯いたものの、その表情は晴れなかった。
「といっても、依然として黒鬼族の方が有利な状況にあることは変わらないだろう」
と、和司さんはどこか苦しそうな表情で告げた。
「彼等はこちらの世界の人間が知らない未知のテクノロジーによって、俺たちの世界に直接干渉することができているようだったし……あるいは……」
と、言って、和司さんは何かを気にするように、大きな窓ガラスの外に見える世界を眺めた。
「最悪の場合は、あの遠藤という男が、なんらかの方法を使って、俺たちが今居るこの世界に侵入してきている可能性もあるな」
と、和司さんは軽く目を細めるようして窓の外を見つめながら言った。僕は今にも和司さんが今見ている窓のあたりから、あの遠藤くんがスーツ姿のふたりの男女を伴って現れるような気がしたけれど、今のところ、そのようなことは起こらなかった。




