ラボへ・奇妙な報告
朝食を済ませると、僕たちはまた和司さんの車に乗り込んで、和司さんの研究所に向かった。和司さんが個人的に所有しているという研究所は大通りを外れてしばらく進み、トンネルを抜け、山と田圃がりが広がった場所にあった。それは濃い緑色に塗装された倉庫のような建物で、実際に過去には倉庫として使われていたこともあるようだった。でも、ずいぶん前にその倉庫を持っていた会社は倒産し、建物だけが残っていたのを、和司さんが安く買い取って、研究施設として利用しているらしかった。
研究所に到着すると、僕たちは車を降り、和司さんを先頭にして研究所に入っていった。研究所のなかは小型の体育館くらいの広さがあり、そのなかには大小様々な、不思議な形をした実験器具と思われものが並んでいた。
それらの実験器具のなかで僕が一番興味を惹かれたのは、巨大な水槽(水と思われる透明な液体で水槽は満たされていた)のようなものだった。水槽の両脇には銀色の巨大な棒状のものが取り付けられ、その棒状の先端部分にはスパンコールを彷彿とさせる、球体の物体が乗っていた。そして更にその球状の物体からはケーブルのようなものが伸びていて、それは水槽の壁面に取り付けられていた。
僕がこれは何をするための実験器具なのだろうと思ってしげしげと見つめていると、和司さんが僕のとなりに歩いてきて、
「武田くんは感がいいな」
と、からかうような口調で声をかけてきた。
僕は振り向いて声をかけきた和司さんの顔を見た。
「この実験器具は、今、俺たちが一番力を入れているものなんだ」
と、和司さんは巨大な水槽のような実験器具に目を向けなから言った。
「これは何をするためのものなんですか?」
と、僕は不思議に思って訊ねてみた。
「窓だよ」
と、和司さんはまた僕の顔に目を戻すと、口元に少し悪戯っぽい微笑を浮かべて言った。
「窓?」
と、僕は和司さんが言ったことの意味がわからなくて反芻した。すると、和司さんは軽く肯いて、
「異世界を覗きみることのできる窓さ」
と、告げた。
「この水槽のなかに満たされている水の振動数を人為的に変化させていって、異世界を覗き見ることができる窓のようなものを作ることができないかと考えているんだ」
僕は和司さんの説明に耳を傾けながら、今の目の前にある水槽が、たとえばテレビ画面のようなものとして、異世界を映し出しているところを想像してみた。
「といっても、今のところ実験が上手くいっためしはないがな」
いつの間にそこに居たのか、僕の背後から橘さんが言って、愉快そうに笑った。
「実験をすると、いつも出来上がるのは、アツアツの熱湯だけさ。たぶん千人くらいがこれでカップラーメンを食べることができる」
と、橘さんは冗談を言った。
「俺は実際に出来上がった熱湯で、カップラーメンを作って食べたが、悪くなかった」
と、和司さんも橘さんの発言に、冗談で返した。
「まあ、熱湯を作るだけなのに、いちいち機械が大袈裟すぎるっていう意見もあるがな」
と、橘さんは混ぜっ返すと、愉快そうに笑った。
明美は水槽のすぐに近くまで歩いていくと、その水槽に軽く手を触れてじっとなかを覗き込むようにした。水槽のなかを見つめる明美の眼差しは真剣で、もしかしたら、彼女はそこに、僕には見えない、べつの世界を見ているのかもしれないと感じた。
「……しかし、実際問題、この前の、落雷があって、停電になった日の出来事は、案外、俺たちの実験がいい線をついている証拠だと思うんだ」
と、和司さんは少し間をあけから、改まった口調で言った。
「異世界を覗き見ることは今のところできていないが、この、水の振動数を変えるという試みが、この前の、あの結果を引き起こしたんじゃないかと思うんだ」
和司さんは橘さんの顔を見ると、提案するように言った。
「……この前って、あの、パソコンの画面にひとりでに文字が打ち込まれていったことか?」
「……橘さんも、そのとき、一緒にいたんですか?」
と、僕は気になって橘さんに訊ねてみた。すると、橘さんは少し驚いたように振り向いて僕の顔を見た。橘さんはまさか僕がその停電があった日のことを知っているとは思わなかったのだろう。
「……ああ、俺もそのとき、一緒にいたよ。実験はだいたい俺と和司のふたりでやることが多いんだ。ありゃ、不思議だったな。異世界はほんとにあるのかもしれないって思わされた日だったよ……それにしても、武田くんもそのことを知ってるんだ?和司から聞いたのかい?」
僕は説明しようと口を開きかけたけれど、でも、その前に、和司さんが先に口を開いて言った。昨夜のうちに、僕と明美のふたりには既に停電の夜に起こった出来事のことは伝えてあること。なぜそのことを話したのかというと、今、僕たちの周囲で何か異変が起こり始めていて、そのことについて議論をするために話す必要があったこと。もしかすると、異世界の住人は僕たちが今居るこの世界に対して、何かをしようとしている可能性があること。
「……おいおい、待ってくれよ。和司たち三人で俺をかつごうとしてるだけだよな?そんなSF小説みたいな話……」
橘さんは多少ひきつった笑顔で僕たちの三人の顔を見回すと言った。橘さんは僕たちの三人のうちの誰かが吹き出すようにして笑うと思っていたのだろう。でも、誰も笑わずにいると、
「……まさか、ほんとなのかよ」
と、橘さんは絶句している様子で言った。
そのあと、僕たちは研究室の奥に置かれているソファーにそれぞれ腰を下ろした。
「……不穏な動きねぇ」
と、橘さんはその太い両腕を組むと、首を傾げるようにして言った。そしてそれからふと何かを思い出したのか、その表情を強張らせた。
「そういえば」
と、橘さんは話はじめた。
「俺の親戚のおじさんに刑事をしているひとがいるんだが、最近妙な事件、事件というか、妙なケースが多発しているとか言ってなぁ」
橘さんは宙を見上げるような仕草をして続けた。
「妙なケース?」
和司さんは険しい表情で橘さんの顔を見ると訊ねた。橘さんは和司さんの顔を見返すと、いくらか戸惑ったような表情で顎を縦に動かした。
「この前、その親戚のおじさんが俺の実家に遊びに来たことがあって、そこで話をしているときに、そんな話になったんだよ。確か。おじさんが俺にパラレルワールドの研究しているんだって?みたいな感じで話かけてきて、俺がそうだと答えると、実はこんなことがあるんだっておじさんが教えてくれたんだ」
橘さんはそこで言葉を区切った。僕たちは橘さんの話の続きを待って黙っていた。
「おじさんの話によると、最近ちょっと特殊な形の記憶喪失の人間が増えてきているらしいんだ」
と、橘さんは僅かに間をあけてから話はじめた。
「……所謂神隠しっていうやつなのかな?詳しいことはわからんが、突然行方不明になって家族から捜索願を出されていた人間が、ある日、突然、もともと本人が住んでいた地域とはかけ離れた場所で、警察に保護される形で発見されるケースが目立ってきているらしいんだ。で、保護されたときの人物の状態はみんな一様に、呆然自失の状態で、自分が今まで、どこで何をしていたのか、全く覚えていないらしいんだ。なかには七年近い時間が空白になっている者もいるらしい……このこととパラレルワールドとは何か関係があるのかもなぁなんておじさんが冗談まじりに話してたのを今思い出したよ」
「……七年間もの記憶がない」
僕は驚いて呟くような声で言った。
「……その警察に保護されたときの状態はみんなどんな様子だったの?」
と、明美は真剣な表情で橘さんの顔を見ると訊ねた。
「つまり、よく神隠しにあって、この世界に戻ってきたっていうひとは、だいたいのひとが、行方不明になったときと同じ服装のまま、時間だけが経過したみたいに、身体が衰弱して、髭が伸び放題になっていたりする場合が多いみたいなんだけど、そのひとたちもそうだったの?」
明美の問いかけに、橘さんはそうではないというように頭を振った。
「……いや、俺の聞いた話では、そんなことはないみたいだったな。ついさっきまで普通に日常生活を送っていて、でも、突然、今まで何をしていたのか、全くわからなくなってしまったみたいな状態で発見されることが多いみたいだった。たとえばそうだな……高校生の頃の俺の意識が、今の俺の身体のなかに突然ジャンプしたような状態といえばいいのかな……もしそんなことになれば、当然、俺はなぜ自分がいきなり歳を取っているのか、全くわからなくて混乱するだろうし……さらに言えば、高校生の俺には、今自分が茨城で一人暮らしをしていて、大学で物理学の研究をやっていることなんて、全くわからないわけだ。ただ、自分にわかるのは、ついさっきまで実家のある埼玉に住んでいて、高校生だったっていうことだけで……と、まあ、これと似たような感じの混乱の仕方をしているひとが多いらしい」
「……確かに、それは奇妙な形の記憶喪失だな」
と、和司さんは橘さんの話に、神妙な表情を浮かべて静かな声で言った。
「……まるで、その期間のあいだだけ、誰かに身体を乗っ取られていたみたいね」
明美も眉をひそめて怖がっているような口調で言った。
橘さんは明美の発言を耳にして何かに気がついたように少し目を見開いて明美の顔を見つめた。
「そう!それだよ!」
橘さんは声を弾ませて言った。
「その警察に保護されたひとたちは、保護されたとき、自分の趣味趣向とはまるで違う、髪型や服装になっていたりすることが多かったらしいんだ……たとえば、真面目で大人しそうな女の子が、発見されたときはなぜか金髪で、派手な服装になっていたりとか……まるで、その記憶がない期間のあいだ、誰か違う人格が彼女のなかに宿って、歳月を過ごしていたとしか思えないような……」
僕は橘さんの話に耳を傾けながら、何かが引っかかっている感触があった。でも、具体的にそれが何なのか思いつくことができなかった。
「……当然、その警察に保護されたひとたちというのは病院に連れていかれて検査を受けたりしたはずだと思うが、医者はその特殊な形の記憶喪失に関して何て言ってるんだ?」
和司さんは軽く目を細めて橘さんの顔を見つめると、半ば詰問するような口調で訊ねた。
橘さんは和司さんの問いに困ったように軽く首を傾げた。
「……いや、医者にも正確なことは何もわからなかったらしい。何か強いストレスを受けたせいじゃないかとか、二重人格になったとか、そんな程度の解答しか出せなかったそうだ」
橘さんはそう言ってから、はっとしたように表情を緊張させてまた言葉を継いだ。
「……ただ、彼等に共通しているのが」
と、橘さんは言った。
「CTスキャンで彼等の脳を見てみると、その脳には普通の脳には見られない、薄い、縞模様のようなものが確認できるらしいんだ……医者にもどういったことが原因で、そんな縞模様ができるのかはわかっていないみたいなんだが……恐らく内出血によるものなんじゃないかとか、色々仮説はあがっているみたいだが、結局のところ正確なことはわかっていないらしい……」
「それは健康に影響はないの?」
明美は心配そうな表情で橘さんの顔を見ると訊ねた。
橘さんは明美の顔を見ると、弱く首を振った。
「俺にもそれはよくわかんよ。ただ、その特殊な記憶喪失にかかったひとたちがその後、すぐに死んだっていう話は聞いてないから、大丈夫なんじゃないかと思うが……」
橘さんは軽く眼差しを伏せて、考え込んでいるような顔つきで答えた。
それから、橘さんは和司さんの顔を見ると、
「和司はどう思う?このことと、和司が話している異世界のことは何か関係していると思うか?」
と、真剣な口調で訊ねた。
和司さんはそれまで腕組みして伏せていた顔をあげて橘さんの顔を見ると、
「どうだろうな」
と、首を傾げるようにして答えた。
「個人的には何か関係がある気がする……しかも、何か嫌な予感がするんだが……だが、これはもっと自分のなかで考えが纏まってから話すことにする」
と、和司さんは言った。
僕は和司さんの見解がすごく気になったのだけれど、結局、和司さんがその場で自分の考えを述べることはなかった。




