遭遇2
「ねえ、リヒト」
さっそくリヒトから聞き出そうと、美香子はそれとなく尋ねる。
「リヒトって……。どうしたの?」
急にリヒトが立ち止まる。家の近所の公園にさしかかったところで、止まるにはまだ早い。
リヒトは右の方をじっと見ている。その先にあるのは公園を囲うように植えられている腰の高さまである茂みだ。美香子も見てみるが、だいぶ日が落ちて薄暗く、何かいるのかさえもわからない。近くの街灯は切れているか点滅しているかで茂みを照らすのには役に立たなかった。
「何かいるの?」
リヒトに聞いても答えてはくれない。ただじっと茂みを見ている。美香子が茂みを確かめようか躊躇していると、茂みの方から低く唸るような音が聞こえてきた。
美香子の脳裏に担任が言っていた野犬の話がよみがえる。
ゆっくりと後ずさりしながら、美香子はリヒトを抱え上げた。
ここまでの道は一本道だった。野犬の視界から逃れられるような曲がり角が近くにはない。どこかの民家に逃げ込むにも、リヒトの足では追い付かれてしまう。
美香子はリヒトを背負った。抱っこするより背負った方が走りやすいと判断したからだ。
「リヒトしっかり捕まっててよ」
ガサガサと茂みが動き、中から黒い何かが現れる。街灯が点滅するたびに見える姿は、四つ足で尻尾のある動物だった。その体躯は巨大で、立てば美香子の背を超えるかもしれない。
美香子の頭の中を『野犬』という言葉がぐるぐる回った。
野犬はこちらを向いている。美香子達にはすでに気付いているのだろう。
美香子は必死に野犬への対処を思い出した。
野犬は逃げるものを追う。だから絶対に背を向けて走るな。
これは誰から言われたことだったろう。
目の前の恐怖から走って逃げ出したい気持ちを押さえ、美香子は後退りで野犬と距離を空ける。走っても追い付かれると、頭の冷静な部分では分かっているが、本能では今にも走り出しそうだった。
野犬が美香子達の方へゆっくりと歩き出す。聞こえてくる唸り声は、美香子達を威嚇しているかのようだった。
野犬との間が狭まらないように、美香子はジリジリと下がるが、いつ走り出すのかも分からない野犬に、このままでいるわけにもいかない。しかし、野犬を追っ払えるような物を美香子は何も持っていないのだ。本来はかよを送るだけだったのだからしょうがないが、せめて自転車を持って来ればよかったと美香子は後悔した。自転車があればリヒトを荷台に乗せ、野犬の一匹ぐらい振りきれたはずだ。
道の中央で、野犬が止まる。
ここが逃げるチャンスだろうか?
美香子が考えあぐねていると、野犬の身体がブルリと震え、一回り大きくなったように見えた。
「え?」
街灯の点滅による目の錯覚などではない。美香子が戸惑っている間に、野犬はみるみる大きくなっていく。伸びた四肢は肉が膨れ上がり隆起した筋肉となり、後ろ脚の筋肉だけで立ち上がる野犬の前足は、立派な両腕となった。
二足歩行の状態になったその姿は、まさに狼男。
「何……これ……」
「狼人族なのだ」
背中のリヒトが呟く。
「は? ろうじんぞく?」
聞いたこともないない単語がリヒトの口から飛び出す。リヒトにはこの生き物が何か分かるらしい。
「契約するのだ美香子」
「こんな時に何を言っているの?」
膨張が終わったのか、狼男の身体が前傾姿勢で止まる。この異常な状態に美香子はどうしたらいいのかもう分からなかった。足が竦んで逃げることもままならない。
「俺様が倒すのだ」
「はあ?」
子供に何が出来るというのか。美香子より一回りも二回りも大きくなった狼男に、勝てるはずもない。無謀すぎる。
「何言っているの。あんた一人ぐらい私が背負って逃げてやるわよ」
逃げ切る自信はないが、子供のリヒトが頑張ろうとしているのだ。弱気になっている場合ではないと、美香子は自分を叱咤した。
いざという時は囮になってリヒトだけでもと美香子が覚悟を決めていると、背中でリヒトが暴れ出した。
「契約すれば力が使えるのだ! あんなやつ俺様の力なら楽勝なのだ!」
美香子の顔の横で何かが広がる。横長のひらひらとした薄っぺらい物体。
「取り上げた巻物じゃない!」
いつの間にと思ったが、そんなこと気にしている場合ではない。狼男が一歩、また一歩と美香子達に向かってゆっくりと歩き出していた。
「遊びになんて付き合っている暇は……」
「遊びじゃないのだ!」
リヒトは背中で暴れるだけではなく、今度は美香子の頭をポカポカと叩き出した。
「契約するのだ!」
リヒトが暴れていたら走れない。とりあえず、今はリヒトを落ち着かせるしかない。
「分かった。分かったから!」
「契約するのだな!」
リヒトが暴れるのをやめた。
「契約する!」
「よし!」
巻物を真上にリヒトが投げる。巻物は宙に浮いたままぼんやりと光り出した。




