なつき
恋人は、優しい。
そして、きれいな身体をしている。
しなやかで、強靭な身体。
それから、私の知らない事をたくさん知っている。
経済も政治も詳しくて、質問するととても丁寧に教えてくれる。
それから、あまり怒らない。
わがままを言ってみても。
約束に時間に遅れても。
おおらかな人だと思う。
あの人とは大違いで、暴力なんか絶対に振るわない。
他の男の子と出かけたって逆上したりしない。
夜中の3時に電話してきて、
「今から会おう。」なんて非常識な事も言わない。
とんでもない男だった。
奥さんも子供もいるくせに、いい大人のクセに、
私の前ではちんぴらみたいだった。
無茶ばかりで、子供じみているくせに男で。
忘れられないわけじゃない。
だけど、今日突然来たメール。1年ぶりぐらい。あんなひどいけんか別れをしてから。
あの夜は泣きもしなかった。ただ、友達をつかまえて飲んだだけ。
「まぁ、こんな日もあるよ。」とか言い合いながら。
その夜、独りになってからも涙なんか流さなかった。
「最初から、この日がくるのはわかってた。」
そう繰り返しいるうちに、過去になったから。
そして、恋人に出会って恋をして、穏やかな毎日を過ごしていたのに。
突然のメール。
変えていなかった着信音は、おそろいにしようって言われて、しぶしぶ変えた。
私の好みじゃない。
その年流行ったラブソング。消しとけばよかったのかもしれない。メモリごと。メモリなんか消すのは、なんか女々しくてイヤでそのままにした。
まぁ、どっちでも未練残して別れるのは女々しいけど。
「会おうよ。」
ふざけた絵文字を使うのは前からだった。
若い頃は暴走族のアタマだった。というのは偶然知った。
それから、なおさら絵文字が嫌いになった。
だって、なんだか不気味すぎる。
恋人はパソコンに向かっている。
「仕事?」
背中に向かって聞いてみる。
「ともだちー。」
キーを打つ手をとめないで恋人が答える。
「メール?」
「そう。」
また、振り向かずに答える。
「オンナ?」
意地悪い気持ちで言ってみる。
「違うよ。どうしたの?」
面白そうに恋人が聞き返す。
もちろん、振り向かないまま。
この人は、私がやきもちなんか妬かないのを知っている。
「嘘。女の子でしょ?私より若い?」
ほとんど絡んでいるだけになっているのに気付きながら、
背中をにらみつける。
「もう少しで終わるから、待っててよ。」
動じない恋人。
大人な恋人。
なんかやりきれなくなってベッドにもぐりこむ。
恋人の匂いがするベッド。
あの人の匂いにちょっと似てるのは、
吸ってるタバコが同じだからかもしれない。
「会おうよ」
だって会ったら絶対連れ込まれる。
あの現実的な用途で使う割に非現実的な
あの不思議な空間に。
拒否できない。
抵抗できない。
恋人と引き裂かれる。
あの人はセックスだけで満足しない。
サディストだった。
さすがに縄だの蝋燭だのは持ってこなかったけど。
そういう嗜好を持った人なら割り切れたかもしれない。
私は別にマゾじゃないけど、理解できたかも。
こういう人もいるんだって。あの人が傷をつけたいのは私の精神だから。
泣いた顔が一番好きだって言った。力でかなうわけがないのに、強さを見せ付けるように組み敷いて。
噛みつかれてるようなキスと、乱暴な言葉。
「私が憎いの?」
よく聞いた。
「おまえは、楽しいよ。」
答えになってない的はずれの答え。
「どうしてぶつの?私が嫌いなの?」
抑えつけられながら、あの人を見上げた。
「おまえが俺のものにならないから。」
どの質問の答えも理不尽だった。
あの人は、私を痛めつける事が好きだった。
「お待たせ。待った?」
恋人がベッドにもぐりこんでくる。
「すごく待った。」
言いながら胸に頭をぐいぐい押し付ける。
「拗ねたり、甘えたり、今日は子供みたいだな。」
それでも恋人は、そのまま頭を抱えて抱きしめてくれる。
このまま、眠りたい。
私を傷つけない場所。
世界でここだけは安全な場所。
いつか、恋人が別の人を好きになっても、
この場所で休ませてくれた事を感謝できる。
あの人は、多分私を愛してくれてたと思う。
「おまえに今、会いたいんだ。」
怒っているのかと思うような声で。
「2時間しかないけど、会えないか。今、近くに居るんだ。」
「愛してる。」
そんなふうにも言った。
・・・そんなことを言う相手は、私で何人目?
断じてやきもちじゃないけど、知りたかった。
やきもちだと思われうるのが鬱陶しくて
結局最後まで聞けなかった。
「to be or not to be」のロゴがプリントされたネクタイと、
雨のにおいを吸い込んだスーツ。
to be or not to be that is the quesution.
やるべきか、やらざるべきか、それが問題だ。
たくさんの人が翻訳した、シェイクスピア。
私も翻訳した。大学の授業で。
和訳したのは、坪内逍遥の後の何人目の日本人だったんだろう。
「私はベニスの商人のが好きだけど。」
ネクタイの感想を聞かれて素直に述べたのに、わかってもらえなかった。
「はぁ?誰?」「戯曲。大学でやったの。」
「くだらないな。」
シェイクスピアがくだらないか、どうかなんてその人によって違うだろうけどね。
私はハムレットが嫌い。
物語じたいじゃなく、ハムレットが。
考える事で自分の未来を悲劇に変えた。
恣意的にか、運命的にかは知らない。
だけど、側にいってアドバイスをしてあげたい。
どっちでもいいんじゃない。
あなたの気が済むようすれば。って。
「なに、考えてるの?」
恋人の声が背中からふってきて、はっとした。
温かい身体。
「英文学について」
恋人が足を絡めてくる。
「ふぅん。俺、ヘミングウェイとか言う人のは読んだよ。高校の時。」
「何を読んだの?」
・・・あれ、ヘミングウェイはアメリカじゃなかった?
そういうより先に恋人が「忘れちゃった。」と言った。
「一緒に寝よう。眠くなっちゃった。」
答える代わりに、うなづいて丸くなる。
恋人が電気を消した・・・。
あの人だったら、絶対に襲ってくる。
疲れてる。とかそんな言い訳知らない。とかなんとか。
言い訳じゃなくて、事実なんだけどね。
冷めた思いで太い首に腕をまわした。
「やる気じゃん。」
馬鹿じゃないの。
セックスする時の男の人は、みんな馬鹿みたいだと思う。
14の時から、そう思ってた。
何がそんなに楽しいの?
それで手に入れたつもりなの?
愛してるなんて、私が死ぬ時まで言ってられるの?
声を出して、笑いたくなる。
本当に滑稽。
あの人は、おまえは歪んでる。と言った。
その目を見るといらいらする。とまで。
全部、演技に見える。と。
恋人は、おまえはひねくれてる。と言った。
素直に甘えてくればいいのに。
「好きなのに、ひどいこと言うね。」
あの人には傷ついたふりで、
「じゃあ、何を買ってもらおうかな。」
恋人にはふざけた様子で言った。
二人とも、それ以上は何も言わなくなるから。
恋人が寝息を立て始める。
この人の私に対する信頼はどこから来るんだろう。
積み重ねてきた毎日?
と、思ったら腰をしっかり抱えられていた。
まだ、どこにもいかないのに。
ほほえましい気持ちと、うんざりする気持ちが
同時にこみ上げてきてめまいがする。
あの人は、眠らなかった。
眠る時もあったけど、見事に背を向けて眠っていて、
小さい物音にもすぐに目を覚ました。
私も、眠れなかった。
あの人の側では。
「会おうよ。」
あの人の笑った顔が好きだった。
それからネクタイを締めるとき。
声が、会議中の堂々とした態度や発言が。
それから、私にいつも焦れる様子が。
一度、二人でデートをした。
お台場のジョイポリスで遊んで、
「おまえ、ああいうのやりたい?」
二人の相性占いのコーナーと、プリクラの機械。
「全然。なんで?」
「可愛げがねぇのな。」
気分を害してた。
「おまえがやりたがって、俺が断るのがいいんだけど。」
あの人がちょっと拗ねた。
「なんか、今日可愛いね。」
そう言うと、かなり拗ねて射的のコーナーに行ってしまった。
楽しかった。
楽しかった事も多かった。
青と金色のマーブル模様のきれいなライターは
誕生日でもない日に突然貰った。
ラブホテルのベッドに投げ出された、白い箱。
なにをぶつけられるのか、と思って身構えた私に
ちょっと笑って。
「おまえっぽかったから、買っちゃった。
かみさんに見つからないようにするの、大変だった。」
余計な感想を付け加えて、あの人が説明した。
ライターを送るのは愛情の証なんだとも言った。
それから、銀のタバコケースと華奢な腕時計。
今でも、そのライターは使っている。
恋人が見るたびにほめる、きれいなライター。
「女性のタバコはよくないよ。」
必ずそう言った後で。
そういえば、あの人はいくら吸っても何も言わなかった。
二人でいると、すぐに灰皿はいっぱいになって、
混ざった2種類のタバコの匂いがお互いに染み付いた。
寝返りを打った恋人が、抱えていた腰を離してくれたので
ベッドを抜け出す。
「どこにいくの?」
寝ぼけた声。
「喉が、渇いたの。」
「早く帰ってきてね。」
返事をしないで置き去りにする。
この人は、男の人は、なんでそういう事ばかり口に出すんだろう。
俺は、絶対にそういう事いわねぇよ。って人とも
つきあってみたけど、やっぱり言った。
「早く帰って来いよ。帰ってきたら電話して。」
ただの飲み会なのに。
どうして自分のものにしようとするんだろう。
キスマークをつけてみたり、
携帯のメールを勝手に見たり。
電車のが早いのに迎えに来たり。
指輪ばっかりくれたり。
みんな、同じ。
そういうのは、冴えない女がやる事だと思ってた。
どっちが可愛いとか、どっちが流行を知っているかとか、
どっちの靴が高いとか、どこのブランドのものだとか。
所有物で比べあうような、女達。
ネクタイをきちんと締めて、部下を持った男がやるとは知らなかった。
人って、わからないね。
今の上司も、不倫して彼女の携帯をチェックしてるのかな。
「もう会わない。」
メールを返して、電源を切る。
日付が変わったばかりの、土曜日の朝1時。
あの人は一人で書斎にいる時間だと思う。
どっちみちメールに気付いて、それが一人のときだったら
何回も何回も電話をかけてくるだろうから。
出なかったら、脅迫めいたメールを何通も送ってくるだろうから。
明日の朝、大量のメールにげんなりするとしても
とりあえず、今日は帰って眠ろう。
一人になりたい。
恋人もあの人も、結局私は必要ないのかもしれない。
誰でも、一緒なのかもしれない。
男でも、女でも。
別に失って惜しい人なんかいない。
ただ傷つけたり、けんかしたり、責められたりするのがイヤで、
つきあったり、別れていないだけで。
利用しているのかもしれない。
出会ってからその人と別れるまでの間中ずっと。
相手が変わっても、私は変わらないで、
同じことの繰り返し・・・。
こっそり着替えて、メモを残す。
「用事思い出したから、帰るね。」
玄関でヒールを履こうとした時、
バランスを崩して倒れかける。
とっさにノブをつかんでこらえたものの、
足元のバッグが派手にひっくり返って中身が散らばる。
かーん、と音をたててアイシャドウの蓋があき、
ファスナーを閉めていなかったペンケースから
ばらばらとペンやら定規やらが落ちる。
拾おうとかがんだ瞬間、ポケットに入れておいたIpodの
コードがノブに引っかかる。
最後の最後にガンっっと音が立って、静かになった。
「何してるの?」
さすがに起きたらしい恋人が
ベッドの中から質問する。
「片そうと思って散らかしちゃった。」
起こしてごめんね。
「いいから、こっちおいでよ。朝かたせばいいじゃん」
丁寧に、ベッドから腕だけ出して手招きする。
ここで強引に帰ろうとしたら、寝起きの恋人との押し問答は避けられない事態になる。
火を見るより明らかだったので、着たばかりのスーツをまた脱ぐ。
律儀に腕を差し伸べたまま待っていた恋人の手を取って、
ベッドにもぐりこむ。
「Tシャツだけ?他脱いじゃったの?」
腰を抱こうとして、ぎょっとしたらしい恋人が太ももをぺたぺた触る。
「うん。寒くないから。」
恋人がため息をつくのが聞こえた。
ベッドの下のBOXから、ジャージを取って乱暴によこす。
身体冷やすと風邪ひくぞ。
「あとさ、おまえは自分を大切にしたほうがいいよ。」
怒りを抑えた、静かな声。
「何を警戒してるのかわからないけど、おまえを見ているといらつく時がある。」
続けようとするのを、思わず遮る。
「待って。ねぇ、別れたいなら言わなくていいから。
黙っていなくなって。追いかけないから。」
恋人が、今度は深いため息をつく。
なるほどね。
さらに静かな声で恋人が言った。
「わかった。でも、俺は別れる気はないよ。」
私は長くつきあう気はない。と言い返しそうになって
言葉を飲み込む。
あの人も、この人も結局いなくなるのに。
与えられては取り上げられる。
信じたら裏切られる。
手にいれればなくしてしまう。
油断させてから傷つける。何からなのか、どうやるかわからないくせに、守るとか救うとか。
自己満足を満たすためだけに詩にもならないセリフの羅列に嫌悪感が走る。
…おまえには支えてくれるやつが必要だな。
あの人も言ってた。
なんの冗談のつもりだか。
恋人の温かい身体。シーツ、暗い部屋。暗闇でやけに目立つ、点滅するビデオのタイマー。テーブルの上のコップ。
覚えておきたい。こんな穏やかな時間を過ごせたことを。何もかもが偽善と嘘で存在するのだとしても。
いつか、この人と別れた後に記憶が私に寄り添ってくれますように。
恋人が両腕で腰を抱きしめてくる。さらに強く、力をこめて。
愛してるよ。ずっと側にいて…。
眠りに落ちるまで、聞こえていた気がする。
その日は悪い夢を、見なかった…。