必無なんて
こんなことが目の前で、本当に起こるのかと思った。
その日もいつものごとく六限の授業を終え、帰宅部の列に紛れて駅に向かい、そして電車をホームで待っていたんだ。
聞こえてくる会話は教室で聞こえてくるものと変わらない。
深夜アニメがどうだとか、バイトに行くのが面倒になってきた、とか。
顔も知らない同級生たち。クラスが違えば当然会話などあるわけがない。同じクラスでも顔を見知っているだけで、どういうやつなのか知らないやつも多い。こう考えてみると、自分の周りは結構手狭であると気づく。両親と兄、で、俺。近所のおばさんたちと中学のときの友達、小学生の時に遊んでくれた近所のねえちゃん達。
こんなもん、なんだろうか。
こんなもん、だろう。
俺はそう自分に言い聞かせながら携帯を開く。
メールが入っていた。
腐れ縁の幼馴染と母親からだ。
『牛乳1本買ってきてください』
と、これは母からのものだ。
本文はない。件名のところに用件を書くのはどうかと思うんだ。
いくら言っても、「うん、次から気をつけるね」って直す気ゼロ。
『待ってるよー』
キラキラしたデコが付いた本文は、幼馴染のものだ。
送付されている写真には、幼馴染が作ったであろう巨大ななにか、が写されている。
近すぎてよくわからない。イチゴだけは確認した。
・・・って、今日か。
約束した日取りを忘れていた。2週間に一度やってくるヤツの試食日だったと思い出す。
卒業と同時に栄養士の免許か何かがもらえるとか何とかで、調理実習がやたらあるんだってさ。
それでレポートやらなんやらの提出の為に、いろんなものを作るんだよ。
最初は誰もが貰えてラッキーと我先に、を争ってたんだが、カロリーすごいよな。
で、だ。
だんだんと貰い手がなくなって、最終的に俺の胃袋っていうのが定着した。
美味いのは認める。だが、量が半端じゃないんだよ。嫌いじゃない。むしろ好きなほうだろう。
幼馴染も甘そうに食べる俺を見てると、嬉しいんだそうだ。
でもまあ。
ある意味恵まれてるのかと思う。
幼馴染は彼女じゃない、けど気心知れた友達だ。大学受験が近くなるとそういう雰囲気も少なくなるらしいが、真ん中の学年はやっぱり、野獣になってしまうんだろうな。
シタだのシテナイだの。雑誌をめくりながら、会話は途切れない。
・・・別にかまわねぇけど。俺も好きだしな!
電車まであと5分を切った。
携帯を閉じ、周囲を見回す。
学生に混じりスーツを来た人が何名かと、親子ずれが加わっていた。
ガキは日曜日の朝にやってる戦隊ものが好きなのか、それともその次の変身ものが好きなのか、手には剣を持ち、振り回している。最近のおもちゃはしっかり作られてるからな。当たるとマジ痛ぇ。
いとこの小さいのが、同じくらいの年齢なんだ。
誰もがかかわりたくない。そう思ってるのか、親子連れの周りは円形に空間が開いている。
危ないからやめろと言えば、子供のすることなのにいちいちうるさいと言い、自分は子供を産み優遇される立場だ。それに昨今の少子化、それに貢献している母親なのよ。子供は地域で育てられるべき。
なんてよくわからない理屈をこねて、自分を正当化する。
子供を出産するときに、大切な何かも一緒に出してしまったのだろう。
と、何かでさらっと見た気がする。
俺が知る駅のホームには、大概三つ並びの椅子が置かれている。
この時間帯は帰宅する学生が主に使うことが多いようだ。
俺はそこに座る一人の女性を見た。
どこか具合が悪いのか、ぐったりとした様子で頭を下にさげていた。俺がホームに下りてきたときは、いなかったはずだ。周囲もちらちらとその女性に向かい、視線を投げていた。
そして電車の通過を知らせるアナウンスが流れる。
なぜか女性はゆっくりと顔を上げ、立ち上がった。黒のスーツを着た、ほっそりした人だ。
大丈夫ですか、と声をかけたほうがいいだろうか。
いらぬおせっかいだろうか。
まだ電車は到着していませんよ、と。
そう思っていたところで、プラスチックが何かやわらかいものに当たる音がした。
嫌な予感がした。
女性がよろめく。
「あらやだ、子供がしたことだから。ごめんなさいねぇ」
いわゆるテンプレ回答、そのものだ。
初めて見た。
いるんだな。本当に。都市伝説じゃなかったんだ。
俺は咄嗟に手を伸ばしていた。
親子にではない。女性に、だ。
どこかで悲鳴が上がった。次に何が起こるのか、誰もが瞬時に理解しただろう。
女性の体が斜めに向いている。
その位置は黄色い、点字ブロックの先だ。
電車と接触しなければ、いい。だがほんの少しでも引っ掛けてしまえば、その体は物理法則に従う。
誰もが目の前で、そんなことが起こるなど、考えてはいない。
毎日が当たり前のようにやってきて、当たり前のように大人になってゆく。
それが毎日だ。明日と言う日が来ないなんて考えても無駄だと。
けれど女性は、ホームから姿を消した。
息を呑む暇もない。
耳の奥にこびり付いた、何かがつぶれた音に俺は、自分でも気づかぬ内に震えていた。
見たんだ。
女性は振り向いた。
そのときの顔が忘れられない。
笑っていた。
『ありがとう』
確かにその女性は、言ったと思う。
そして世界から色が失われた。