きょうからあしたへ
目ざましが鳴る。
手を伸ばして、もう朝か、そう思いながら電子音を止めた。
雀のさえずりとカラスの鳴き声が窓の外から聞こえてくる。
繰り返される今日が始まった。
朝、少し早く起きて身支度を整えるのはいつもの事だ。ラッシュが来る前に電車に乗り込む。そうすれば席にも座れるし、音量を控えた使い古しのウォークマンに入れた、
カセットテープから聞こえる懐メロと化した音楽を聴きながらゆったりとした時間を過ごせるからだ。
ああ今日もいい天気になりそうだ。流れる車窓から、空をちらりと見る。つけていたテレビも暑くなるだろうと言っていた。
途中のコンビニに寄り、朝食を買い出社。
昨日、時間切れで出来なかった仕事を片付けながら、パンをかじり、くいっと缶コーヒーを傾ける。砂糖無しの無糖、朝はこれが良い。頭の芯に残ったもやもやが消えそう
な気がする。
パソコンを立ち上げている間に、FAXをチェックした。画面がついた後は着信メールを見る。
今日も頭が痛い案件が、入ってきていた。どうするか、悩む所だ。
そして朝礼。
その後に部下を呼び、注意する。
仕方が、難しい。
軽く言えば聞き流され、強く言えば仕事をおざなりにし、効率が落ちる。
どう言えばいいものかと、いつも思う訳だ。
営業事務に入っている女史へ声をかけ、何かあったらすぐに携帯へ振って貰えるように言い、社外へ出た。
朝よりも厳しい太陽が白く見える。
これは日中、覚悟しておいた方がよさそうだった。
得意先の会社へ到着する。
そして受付で会社名と名前を告げ、案内された椅子に着く。
座るのは、下座だ。
そして担当者の方が現れるとすぐに立ち、謝罪の言葉を告げ、頭を低く下げた。
その場に土下座だ。
会社の誰それがやったとか、下請に入っていた間の業者が期日を間違えただとか、そう言う事はもう、関係無い。
自分が所属する会社の、その部下が行った失敗は。
感情が先に出たひとりから、なぜ本人を連れて来なかったのだと聞かれた。
「部下の責任は上司である私の、責任です。申し訳ございません」
苦い時間は過ぎるのもゆっくりだ。面白くて楽しい時間はあっという間なのに、視線が痛いほど秒針の進みが遅い。
だけれどこういうのも、仕事だ。
出来ればしたくはない。誰だってそうだろう。誰かの後始末をつけなきゃならない時ほど、どうして自分がしなきゃならん、だとか自分の後始末は自分でしてこそ社会人だ
ろう、と思う。
何度も繰り返される、役職名と共に重くのしかかる責任に、肩が凝る。聞きわけが良くて、仕事が出来る部下が欲しい。それが夢物語と言われても、それが希望であり理想
だと分かっていても望んでしまうモノなんだろう。
ついでに給料も上がってくれたら、言う事が無いんだけどな。
「ありがとうございます!」
時間は進みその日の午後。
大口の仕事が決定した。渡る世間に鬼はなし、だ。
5か月に渡る、苦労が報われた。
よくやったと、上司が肩を叩いてくる。同僚が今日は奢ってもらうぞ、とにんまりと笑った。
後輩が「じゃあオレも一緒させて下さい」と便乗してきた。
女史も自分の事であるように、笑顔を見せてくれている。
「いやあ、キミの躍進にはボクも鼻が高いよ」
そうして見せられたのは、
「本社への転属、おめでとう」
はい?
初耳なんですが。
「ちょっとどういう…」
最後まで言わせて貰えなかった。
「栄進祝いもしなくちゃなぁ」
だからちょっと待って下さい、仕事が、まだ山積みなんですが。
「そうそう、キミの後任は彼だ。移動日までにちゃんと引き継ぎを、宜しく頼むよ」
上司が指さした同僚の顔は、あんぐりと口が開いていた。
ビールのブルトップを開け、ひとり夜の晩酌を始める。
引き継ぎに引っ越しに、やるべき事をひとつづつ指折り数える。
憂鬱だ。
同じことの繰り返し、だからこそまた、天職ともいえるこの、やりがいのある仕事をしていきたいと願っている。新天地は一体どんな場所なのだろう。
今回のような大口の、取引が出来るようになるのだろうか。
「大丈夫、かな」
そこはかとなく予感がするのだ。
新しい職場、新しい人脈、新しい取引先。
もしかすると、恋人も出来るかもしれない。いつかどこかでと願っていた絶好の機会。
楽しみだった。
「ああそうだ。そろそろ髪も切りに行かなきゃ」
忙しくて美容院にも行く暇が無く、そのまま放置していたそれが最近、重くて仕方が無かった。
バスターバンを外す。伸びに伸びた黒の髪が背に落ちた。
「恋も、探してみようか、な」