第7話「偽りの奇跡と迫り来る黒雲」
◇アリア視点
ヴァルハイン王国の聖堂は、重苦しい空気に包まれている。
かつては乳香と没薬の甘い匂いが充満していた空間だ。
今はカビと古びた羊皮紙の腐臭が入り混じった不快な空気が澱んでいる。
祭壇の中心に立つアリア・クロスフィールドは、純白のドレスの裾を強く握りしめた。
彼女の額にある白金色の星の痣は、以前のような輝きを失っている。
ただの薄汚れた染みのように皮膚へ張り付いていた。
アリアは胸元のドレスの裏地に隠した分厚い書物に、震える指先を這わせる。
転生時に神から与えられた、他者の信仰心を魔力に変換するための古代呪符の束である。
その羊皮紙の表面は、まるで長年放置された枯れ葉のようにひび割れている。
インクで描かれた複雑な幾何学模様は、端から薄れ始めていた。
『どうして……こんなことになっているのよ』
アリアは唇を噛み、鉄の味を舌の上に広げる。
数ヶ月前まで、彼女が微笑みかけるだけで貴族たちは歓喜した。
神官たちは涙を流してひざまずき、祈りを捧げていた。
その熱烈な信仰心が呪符を通して魔力へと変換され、彼女を真の聖女として君臨させていたのだ。
しかし、奇跡は無限ではない。
干ばつに苦しむ農地へ雨を降らせ、流行病に倒れた騎士たちを癒やすたびに、呪符は人々の信仰を際限なく吸い上げていった。
やがて人々の心から純粋な祈りが枯渇する。
「聖女様ならどうにかしてくれる」という怠惰と依存だけが残った。
依存は信仰ではない。
呪符が魔力を生み出す効率は日に日に低下していた。
今ではかすかな光の粉を指先から散らすことすら難しい状態にある。
「聖女様、西の国境警備隊から負傷者が運び込まれました」
青ざめた顔の神官が、祭壇の階段を駆け上がってくる。
その背後から、血と膿の生臭い悪臭が聖堂内に流れ込んでくるのがわかる。
アリアは顔をしかめるのを必死に堪え、ゆっくりと階段を降りた。
担架の上に横たわる騎士の足は、魔獣の爪によって肉が深くえぐられ、骨が白く露出している。
周囲の神官たちが、すがるような視線をアリアへと向ける。
アリアは深呼吸をし、残されたなけなしの魔力をかき集めて両手を騎士の傷口にかざした。
呪符が胸の奥で微かに熱を持つ。
だが、手のひらからこぼれ落ちた光は、傷口の表面を薄く覆うだけで霧散してしまう。
肉が再生する兆しはなく、騎士は痛みに耐えかねてうめき声を上げる。
「……申し訳ありません。私の力は、今は国全体を護るための結界に注がれています。個人の傷を癒やす余力は……」
アリアは伏し目がちに言い訳を口にする。
その言葉を聞いた神官たちの目から、明確な失望の色が浮かび上がるのを、アリアの網膜は確かに捉えた。
信仰が、また一つ削り取られていく。
魔力がさらに目減りする感覚に、アリアは背筋に冷たい汗が流れるのを感じる。
◆ ◆ ◆
◇ガルシア視点
同じころ。
王宮の最上階にある謁見の間では、国王ガルシアが玉座の上で頭を抱えていた。
豪華な王冠が傾き、白髪の混じった頭髪が乱れているが、それを直そうとする侍従は誰もいない。
高い天井に反響するのは、鎧を血と泥で汚した伝令の絶望的な叫び声だ。
「西の白霧山脈の稜線に、黒い雲が発生しています。魔瘴の嵐です」
その単語が発せられた瞬間、謁見の間に集まっていた貴族たちの顔から一斉に血の気が引いた。
魔瘴の嵐。
百年に一度、大陸の魔力バランスが崩壊したときに発生する、魔物の大侵攻。
大気中の魔力が濁り、腐敗した土の中から無数の魔物が這い出してくるという厄災。
過去の記録では、真の聖者が放つ聖光だけが、その濁った魔力を浄化し、魔物の群れを土へと還すことができるとされている。
ガルシアは血走った目で、傍らに立つ宰相を睨みつける。
「聖女アリアを呼べ。すぐに結界を張らせるのだ」
「陛下……」
宰相は苦渋に満ちた表情で首を横に振る。
「聖女様の力は、ここ数ヶ月で著しく減衰しています。昨日は、一人の騎士の傷すら癒やせませんでした。魔瘴の嵐を退けるほどの聖光など、今の彼女から引き出せるとは到底思えません」
ガルシアの喉から、ひゅっと空気が漏れる音がする。
窓の外に目を向けると、王都の青空の端が、すでにどす黒い紫色の雲に侵食され始めていた。
空気が重くのしかかり、呼吸をするたびに肺の奥がチリチリと痛むような感覚がある。
魔瘴の毒素が、風に乗って王都まで到達し始めている証拠だ。
このままでは、数日のうちにヴァルハイン王国は魔物の群れに蹂躙される。
地図の上から消滅するのだ。
「……援軍を乞え」
ガルシアは絞り出すような声で命令を下す。
「エルトリア王国へ特使を派遣しろ。強大な神獣を操るあの国の軍事力に頼るほかない。あらゆる条件を呑むと伝えよ」
屈辱に顔を歪めながら、ガルシアは玉座の肘掛けに爪を立てる。
かつて偽物の聖者を追放し、自国の優位性を誇示していた隣国へ、頭をこすりつけて命乞いをする日が来るとは。
誰が想像しただろうか。
大理石の床を叩く伝令の足音が、遠ざかっていく。
ヴァルハイン王国に、破滅の足音が確実に近づいていた。




