エピローグ「白銀の軌跡と永遠の誓約」
深夜の王城は、海鳴りの遠い音だけを残して深い静寂に包まれていた。
カインは自室の片隅に置かれた重厚なマホガニーの机に向かっていた。
真鍮のランプが放つ淡い光の中で羽ペンを握っている。
机の上には、厚手の羊皮紙で綴じられた真新しい日記帳が広げられている。
インク壺から立ち昇る鉄と煤の匂いが、夜の冷たい空気と混ざり合って鼻腔をかすめる。
カインはペン先をインクに浸し、少しだけ筆を止めて窓の外の星空を見つめた。
前世の記憶を持ってこの世界に生まれ落ち、農村の土を耕していた日々。
聖者として召集されながらも、水晶の柱を沈黙させたことで偽物の烙印を押されたあの冷たい王宮の床。
国を追われ、凍てつく白霧山脈の雪の中で命の終わりを覚悟した瞬間。
そのすべてが、今の自分を形作るために必要な過程であったのだと、今ははっきりと理解できる。
羽ペンが羊皮紙の表面を滑り、微かな摩擦音を立てて文字を刻み始めた。
『ヴァルハインから追放されたあの日、俺は世界に見捨てられたのだと思った』
黒いインクが紙の繊維に染み込み、確かな痕跡を残していく。
『持っていた知識も、誠実に生きようとした意志も、あの国では何の価値も持たなかった。絶対的な数値という虚像の前では、人間の本質など誰も見ようとはしなかった』
ペンを走らせるカインの脳裏に、かつての冷たい視線や嘲笑の声が過ぎる。
しかし、その記憶に怒りや悲しみはもう伴っていない。
傷跡はすでに完全に塞がり、痛みを感じることはない。
『追放されてよかった、なんて言うのは語弊がある。あの理不尽な仕打ちを肯定するつもりはない』
カインは一度ペンを止め、足元で眠る白い毛玉に視線を落とした。
シロが丸くなり、長い尻尾で顔を隠すようにして静かな寝息を立てている。
『でも、あの夜。雪の中でシロが傍にいてくれなければ、俺はあそこで死んでいた。白銀の毛並みが与えてくれた熱が、俺の命を繋ぎ止めてくれた』
カインは再び机に向かい、さらに言葉を連ねる。
『そして、ここに来なければ、ライアスに出会うことはなかった。俺の知識を偏見なく評価し、俺という人間そのものを必要としてくれた人。彼と出会い、この国の人々と共に生きる未来を手に入れるためだったのなら』
ペン先が最後の行に到達する。
『俺は、全部ひっくるめて、今のこの人生が好きだ』
句点を打ち終わった瞬間、机の横からにゅっと白い前足が伸びてきた。
インクがまだ乾いていないページの上に、シロの大きな肉球がポンと置かれる。
黒いインクが肉球の形に滲み、日記の最後のページに不格好な判子を押したようになった。
「……シロ」
カインが苦笑しながら非難の声を上げた。
するとシロは悪びれる様子もなく喉を鳴らし、そのままカインの膝の上に顎を乗せて目を閉じた。
カインはため息をつき、インクで汚れたシロの前足を布で拭いてやる。
その背後から、足音もなく近づいてきた高い体温がカインの体を包み込んだ。
椅子の背もたれ越しに、ライアスの長い腕がカインの胸の前に回される。
ライアスの銀髪がカインの頬に触れ、低い声が耳元に落ちる。
「何を真剣に書いているのかと思えば。ちっぽけな過去の感傷か」
ライアスは日記の文面を覗き込み、シロの肉球の跡を見て微かに口角を上げた。
「感傷ではありません。ただの記録です。自分がどこから来て、今どこにいるのかを忘れないための」
カインが背中に体重を預けると、ライアスは腕の力を強めてしっかりと受け止めた。
硬い軍服の感触と、その下にある力強い鼓動。
「お前は今、俺の腕の中にいる。それ以上の記録が必要か」
ライアスはカインのうなじに顔を埋め、深く息を吸い込む。
肌に触れる唇の熱が、カインの全身の血流を加速させる。
「……そうですね。これ以上確かな場所は、世界中のどこにもありません」
カインは日記帳を閉じ、真鍮のランプの火を小さく絞った。
部屋の中が深い青色の闇に包まれる。
窓から差し込む月光だけが、二人の重なり合う影と、足元で眠る神獣たちの輪郭を銀色に浮かび上がらせている。
嵐のような大逆転の劇は終わりを告げた。
これから続くのは、穏やかで、騒がしくて、どこまでも温かい永遠の日常。
カインはライアスの手に自分の手を重ね、静かに瞳を閉じた。




