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「亜妃様」
後部座席でウトウトしていた亜希に、運転手の男が声をかけた。
夢見心地の体を起こし、窓から外を確かめると、停車した場所から少し歩いた先に大きな船が見えた。
「あれが大叔父様の船?」
「はい。着きました」
「そう…」
軽く伸びをしているとドアが開かれた。
ふぅっと息を吐く。
自然に分かれる前髪が風に揺れ、額が痒くなる。
旋毛がどうとか、ホクロがどうとか。笑えるな…。
旋毛が無くてもあの半年間、亜季と入れ替わりをしていた亜依は癖を作っていた。
『そう』見える様な癖…その所為でどちらかも分からない。
流れる記憶から頭を切り離す為、亜妃は頭を振った。
あの後、血液検査をすればどちらが死んだか簡単に分かるのに、しなかった。
検査なんぞの容易く、科学的な根拠。
皆が、目の前の死んだ人間が「どちらか」と、知る事から目を背けた結果だった。
己と同じ顔をした死体を見た彼女は、混乱を極め正常な意識は無かったし、残されたもう一人は次の日に聞かされても宮木家に残り、自分の役を全うした。
そして、一族の長い話し合いの末、大お爺様の『亜妃』とする事に議論が落ち着いた頃。
不意に戻って来た彼女の意識は、以前の亜季でも亜依でもなく、双方の記憶があると言う。
ー疑似記憶ー
それを、どちらかの記憶として固定する事もせず、一族の決定通り『亜妃』として扱う事に決めた。
自責の念に駆られる母親も、力関係の弱い父親も、片割れを失った彼女も。
全員、彼女が誰か。を、もう考えたくなかった。
疲れ切っていた。
明るく奔放な彼女が消えた家は、何とも暗く重い。
それを時折、彼女が蘇ったかの様な行動で亜妃が吹き飛ばす。
亜季が亜妃っであれば、大お爺様の恩恵が受けられる。
亜季が亜依であれば、軽やかな空気を連れてくる。
どちらでも良かった。
ただ、亜希を亜妃とするならば、亜妃を叔祖父の持つ船に乗せる事になる。
お母様の思いは次第に、優先するは『悠衣』になって行った。
抗えない一族からの重圧と、死んだのは亜依…であるならその引き金を引いた自分であると言う自責。
逆に死んだのが亜妃であれば、消える大お爺様からの恩恵。
複雑な利害関係や人間関係の中、確かなモノを選び取るのは人間として、親として当たり前だった。
「いい…もう…」
記憶が混じって辛いだけ。と、笑う目の前の女の子に、自分の娘かも知れない子に、不憫さや罪悪感を感じながらも、お母様はあれから半年後の今日、亜妃を送り出した。
当初の目的通り…自分の娘を…悠衣を、安全な宮木家へ逃がして…。
「ごめんなさい。亜…貴女を送らないと悠衣が…」
行く事になる。
「謝らないで。お母様」
大お婆様に似ているなら、酷い目に遭う事も無い…はず。
家を出る時の、涙を浮かべたお母様の顔が、まだ目の前にある様だった。
そして「大丈夫」と、自分に言い聞かせる。
「亜妃」
誰かがタラップから亜紀の方へ歩いて来る、長身の男。
「哥哥」
ハトコの皓兄だった。
「ここでは皓と」
亜妃の少し曲がったネクタイを直す。
「皓…」
「あぁ。ちゃんと変えて来たか?」
「多分、大丈夫。出る時も自然に言えたから…」
「そうか。…お前、相変わらず細いな。もう少し太れなかったのか?」
「無理だよ」
食物飽和なこのご時世にタンパク質不足で倒れるような人間だ。
カロリーが高い物を食べても、体重は大して増えなかった。
亜妃は肉が食えない。魚も、鶏肉も。
口に入れようとするだけで、嘔吐する。
「お前今年で幾つだ」
「九歳…今年十になる」
「…ふぅ…」
眉間に皺を寄せ、ため息を吐く皓の顔には苦渋の表情が浮かんでいた。
「後で腹にタオルを巻け。そして出来るだけ俺から離れるな」
頷く亜妃を連れて、タラップを上がっていく。
案内された部屋は、皓兄の部屋と繋がったコネクティングルームだった。
「ほら」
タオルを投げて寄越す。
ジャケットを脱ぎ、シャツを捲ると腹に巻いていく。
ぶ厚い腹巻だ。
「皓、これじゃズボンが閉まらない」
「横に調節があるだろ。金具。それを最大にして止めろ」
微々たる動きじゃないか。と、思いながら動かし止めると立ち上がった。
「どうだ?」
「…お前、少しは胸を潰せ。それじゃまだ女だ」
「胸を潰すって…」
盛大なため息と共に、皓兄は自分のトランクの一つを開けて何かを取り出した。
「これを下着の代わりに着ろ」
親父臭い白いノースリーブの肌着を渡された。
胸部部分が筋肉状に、少し厚めに誂えてある。
「皓…」
「俺のじゃないぞ」
見栄を張る為に?と言う間もなく、返事が返って来た。
「念の為、持って来たんだ」
すっかり普通体型の少年になった亜妃を見て、皓兄は頷く。
「それで良い」
このハトコは出会った頃から優しかった。
叔祖父側の人間にしては珍しく。
「いつも言っているが…ここでは女だと思わせるな。バレるな。だが、男だからと安全でもない。分かるな?こちらはホスト側だが…客には関係ない。部屋から出れば無法地帯だ」
真剣な眼差しで、亜妃を射る様に見る。
「俺やお前が、大お爺様の血縁だと分かる様にこれを付ける」
家紋の様な豪華な装飾がされたラペルピンを、フラワーホールに着けた。
「絶対に落とすな。外すな。着替えてもこれは絶対に」
皓兄は眉間に皺を寄せ、不穏な事を告げる。
「俺は大お爺様の為にお前を守る。が、お爺様はそうじゃない。だから、ここへお前を寄越す様に仕向けた。死にたくなかったら…死ぬ方がマシだと思える目に、遭いたくなかったら…絶対だ」
鬼気迫る皓兄の異様な雰囲気に、亜妃は気を引き締めた。
「…分かった」




