―現在―
亜里沙の事件も、他の立て続けに起きた殺人事件も、犯人は捕まらなかった。
それでも、街を襲った不穏な空気は鳴りを潜め、ここ数年表立った事件も無かった。
今の今までは。
一華は自分の涙を拭う目の前の亜希が、どうしても今朝見た妹と同一人物に思えない。
周りが非日常で充満しているからでも、灰が目に入って霞んでいるからでもなく、姿かたちはそっくりだが、どうしても「何か」が違った。
「…誰…?」
「酷いな。妹の顔忘れた?」
「…亜希…じゃない…」
「亜希だよ」
黒いコートが熱風を受けて、バタバタとはためいていた。
「だって…何か違う」
時折咳をしながら、一華は目の前に居る亜希に言葉を紡いだ。
「そう?でも、私は私だよ」
そう言って、亜希は笑った。
昔の。幼少期と同じ顔で。
「亜希。マスク」
亜希の後ろからスッと、背の高い男が姿を現した。
ずっと居たのだろうが、一華の目には亜希しか映って居らず、気が付いていなかった。
「ありがと」
立ち上がると亜希はマスクに手を伸ばした。
受け取るとすぐに手を離し、マスクは暴風に乗って飛んで行った。
「でも、要らない」
戸惑った顔をした男が言葉を発する前に、亜希は「下がってて」と命令をした。
「あれは…誰?」
「いっちゃんの知らない人だよ」
微笑んだまま、持っているナイフの刃を指でなぞった。
「刺されるか、刺すか…どっちが良い?」
「は…?…どっちも嫌…」
異様な雰囲気を纏った妹の言葉に、返事を返しながらも「刺される」覚悟をした。
「いっちゃんなら刺す方選びそう」
亜希はクスクスと笑う。
いつもは笑わないくせに、今日は良く笑う。
…でも…笑う時は何で笑うのか、分からないくらいに笑っていたような…。
「ねぇ、いっちゃん」
亜希はナイフを下ろして、一華を真正面から見据えた。
その顔はいつもと変わらない。
薄茶の髪も、白い肌も、真っ黒な目も。
どこも亜希なのに…。
「私の事、どう思ってた?」
「何が?」
「嫌いだった?」
無表情のまま、亜希は一華に問う。
「ねぇ。それとも好きだった?」
「妹だよ…」
「妹としても、人間的にしても…どうだった?」
「そりゃ…」
答えようとして言葉が詰まる。
「…いっちゃん、私を人間として扱ってくれなかったよね…」
「そんなことは…」
ここで間違えれば、私は亜希に殺されるかもしれない。
一華は言い訳をしようとしたが、それは新たな爆発音で阻止された。
消防や救急車の音が聞こえ始めたが、それもまだ遠く、一華のいる場所に到着するのはまだだ。
道も、飛んだ車や破壊された物で塞がっている。
刺されたら…助からないかも。
一華の額に汗がにじんだ。
死にたくない。
地面に着いた手を握りしめた。
亜希の言う通り、自分が死ぬくらいなら亜希を殺すのが一華だった。
刺されるより、刺す方が良い。と、本気で思っている。
でも、亜希からナイフを取り上げるのは…どうすれば良い?
予測通り、年々身長が伸びた妹は、もう自分の身長を優に超えている。
幼かった頃の様に、柔道の真似事で投げ飛ばしたり出来るはずもなかった。
「お願い…刺さないで…」
届くか届かないか分からない声量しか、出なかった。
「お願いします。…殺さないで…」
懇願する様に…亜希に頭を下げる。
這いつくばっていたのだから、頭を下げるだけで亜希に土下座する形に成る。
何でも良い。死にたくない。
「別に刺さないよ」
「…本当に?」
頭の上から振る亜希の声に、一華は安堵するのはまだ早いと思いながらも、少しだけホッとした。
「うん」
「なら…そのナイフは…」
捨てて欲しい?こっちに渡して欲しい?
どっちを言えば良い?
一華は一瞬悩んだが、どちらも言えなかった。
「…いっちゃん」
「何…?」
「私達、姉妹なんだよね?」
「そう…だよ」
「…私、妹なんだよね?」
「…うん」
一華は視線を地面に落としながら、亜希の問いに答えた。
風が吹いて、暖かい空気が灰と共に自分に絡み付いて来た気がした。
振り解きたくても、振り解けない感覚が、身体を包む。
少しの間が、一華には長く感じられた。
サイレンも何も、近付いては来ていない。
亜希と自分、周りの負傷した人間のうめき声すら、遠のく気がした。
息絶えたのかも知れない。
沈黙の後、亜希の靴がジリッと音を立てた。
「じゃあ、なんでセックスしたの?」
一華の体が跳ねあがった。
「あれは…遊びで…」
「セックスで、痛めつけるのが『遊び』?…」
ふっと渇いた笑いが、亜希の口から出た。
「アイツらと変わらない…んだね」
「アイツらっ…て…?」
「何でもない」
一華の頭の中で、仕舞い込み霧が掛かった様になっていた記憶が、沸々と鮮明になり始めた。
アレを終えてから、忘れる様に自己暗示した。
それが…解け出す。
そう、アレは…女同士のセックスだった。
それも、無理やりの。
「ねぇ…いっちゃん」
亜希の声に応えられず、一華は黙り込んだ。
「私は…、私に生きてて欲しい?」
優し気な声が、一華に問いかける。
「それとも、死んで欲しい?」




