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「あんた、いつまで寝てんの!」
母親の怒鳴り声が、降ってくる。
昨晩、兄と母親が眠る部屋から出て、祖母の部屋で寝た事では無く、殴られた理由はそれだった。
母親は自分の予定が狂うのを嫌う。
「はよして!」
寝ぼけ眼の一華の頭にバサっと服が飛んで来た。
パジャマを脱ぎ、それを着ようとする。
「何なん!何であんたパンツ履いてへんの!」
昨日、風呂から出てアレの後、見当たらずそのままパジャマを着た事を言えずに居ると、白いモノが顔に投げつけられた。
「はよそれ履いて!ほんまグズやな!」
時間が無いのに。と、ぶつぶつと吐く母親の顔が赤い。
速くしなければ平手が飛んでくる。
慌てて履こうとするが、足が縺れる。
自分の手足なのに、思う様に動かないのが、まどろっこしい。
「はやく!」
近付く事すら時間の無駄なのか、離れた場所から母親の声が轟く。
急いで靴下やズボン、上の服を着て、母親が立つ玄関へ行くと、祖母が上着と小さな赤い鞄を渡してくれた。
「行くで!」
母親がハンドルを持つ自転車の後ろには、黒い鞄を斜めにかけた兄がもう座っていた。
何か言いたげな目でこちらを見ているが、母親は一華を掴み、自転車の籠の後ろにつけた幼児用の椅子に座らせた。
「ほな、行ってきます」
祖母に声をかけ、ペダルを踏んだ。
遠くの後に祖母の返事が流れ、前から来る風に目を瞑る。
「ちゃんとしといてや」
風と同じ冷たさの声が、耳に届いた。
微かに頷く。
母親にこの返事が届いているのを祈りながら。
「おはようございます」
前方から口々に挨拶をする声が聞こえた。
「おはようございます」
きゅっと音を立て、自転車が止まる。
兄が後ろから降り、不安定に揺れる中、両脇を掴まれ降ろされた。
「よろしくお願いします」
母親が精一杯の優しげな声で、保育士に言う。
貼り付けた様な笑顔が、相手に通じると思っている母親の態度は滑稽そのものだった。
「はい、行ってらっしゃい」
負けじ劣らずの貼り付けた顔で、保育士が答える。
「あ…和雄が昨日階段から落ちましてー」
顔だけを保育士に向け、間延びした声で母親が兄の怪我について言い訳をして行く。
「あ、はい。分かりました。その時の怪我ですねー」
保育士もそれを受けて間延びした声を返す。
一華は自転車を漕ぐ後ろ姿を見送り、保育士に誘導されるまま建物へ入って行った。
母親は保育士以外とは何も話さない。
それを良しとしない保護者達の子供は皆、二人を遠巻きにする。
部屋に入るまで、誰とも目を合わせず廊下を歩く。
兄と階段の所で離れ、一人でドアを開けた。
すでに何人かの子供達と、保育士が一人部屋に居た。
「あ…」
誰かがこちらに気付き声を出した。
ビクッとした一華は咄嗟にドアを閉めてしまう。
閉めてしまえば、自分は見えない。
嫌なモノも嫌なモノからも。
ドアの前で立ち尽くしていると、一人が目の前に来た。
一華を押し退け、ドアを開けて部屋に入って行く。
廊下の柱の所へ身を寄せると、他のクラスの子供達が前を通って行った。
何人かが不思議そうな顔をして行くが、立ち止まって問う子は居ない。
子供の姿が廊下から消え、玄関口に近い扉が開いた。
保育士の部屋から、何人か出てきては階段を上がる足音がした。
その後ろで聞き慣れた声がする。
さっきの保育士だ。
「あー先生の所の宮木和雄君、また怪我したらしいです。お母さんが階段から落ちたと、今朝来られた時言ってました」
部屋で申し送りをするのを忘れたと、笑う。
「またぁ!?」
「多いですよねー」
階段の手前で声高々に立ち話を始めた。




