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自室に戻った一華は、側に在ったクマのぬいぐるみを引っ掴むと壁に投げつけた。
ぽふんとした気の抜けた音がした後、音もなく落下する。
思い切り投げつける事が目的の一華からすれば、それで良かった。
派手に音が鳴ると、親のどちらかがいた時に困る。
リビングや母親の部屋に、母親は居ない。
父親も帰って来てはいなかったが、用心する事に越した事はない。
以前気を抜いて音を立てた時には、出した音の数倍の怒鳴り声が返って来た。
煩いと怒鳴ってる方が煩い。
そう思ったが、言い返せはしない。
言い返してしまった日には取り返しがつかない程、大目玉を食らうだろう。
引っ越して足音が響かなくなった今でも、父親の耳には古い家での響きが残っているらしかった。
少しのドアの開け閉めも聞きつけて怒鳴る。
階段の上がり降りの音さえ厳しく、その為家ではスリッパが禁じられた。
素足で居れば大丈夫かと思うが、それもぺちぺちと言う音が気に食わないらしく、怒られた。
なので、一年中靴下を履く。
それなのに…遠くから鼻歌が聞こえる…。
母親の部屋の方角だった。
自転車に乗れたのが、よほど嬉しかったのだろう、亜希の鼻歌が流れてくるのだ。
怒られれば良いのに。と、一華は考えるが、どこからも怒鳴り声がしなかった。
自分と亜希しかいない家で、音を立てる事で怒鳴る人間は居なかった。
居たとしても、亜希はあまり怒鳴られない。
言い返す事で降りかかる恐怖を物ともせず、父親に歯向かう事で「面倒臭い」と流される。
言い返せない自分とは違うのも、亜希に苛立つ一因だった。
「うるさいなぁ…」
ぽそっと呟く。
家具の仕切りの向こう側にも、誰も居なかった。
そう言えば。と、一華は兄側をちらっと見た。
「この前なんかしてたな…」
不意に部屋に入った時、兄がベッドに何かを隠したのを見た。
その横に、誰かから貰って来た小さなブラウン管のテレビとビデオデッキが目に入る。
「私も欲しい…」
あれば好きなテレビが見られるのはもちろん、録画したビデオテープで何度も歌番組が見られる。
自分のスペースにテレビとビデオデッキが有るのは、凄く贅沢な事だった。
貸して欲しいとお願いしようかとも思ったが、一華は和雄と特別仲が良い訳でもない。
亜希の願いなら…兄は聞いただろうか?
夏の間あんなにべったりだったのだ、貸しただろうな。と、一華は妄想の中でさえ亜希に嫉妬する。
一方で一華は、昔は優しかった兄が冷たくなり、自分のクレヨンを破壊した事を覚えている。
同室の今も言葉を交わす事が少ない。
借りれる地盤が無い。
窓から外を眺め、辺りを見回した。
上から見るだけの範囲だが、母親の姿も父親の姿も…兄の姿も無い。
今日は日曜日だ。
この時間に帰って来ないと言う事は、お父さんとお母さんは夜中にしか帰って来ない。
さっき見た冷蔵庫の中を必死に思い出す。
亜希と自分の分のご飯は有った。
お兄ちゃんの分は…。無かったような気がした。
と…言う事は、勝手に使ってもバレない?
目の前に有るテレビとビデオデッキに、目が釘付けになる。
亜希は部屋から出て来ないだろう。
多分本でも読んでいるに違いない。
一華はテレビの電源を押した。
ボタン式の電源はカチッと硬い音を立てて、電源が入る。
ブゥオン。という音と共に、画面が人間を映し出した。
「おおぉ…」
初めてテレビを見た人間の様な声が、自然と出た。
テレビとビデオの出力を切り替えると、画面の人間が消え、青い画面になる。
ワクワクしながら自分の引き出しを開け、ビデオテープを持って戻った。
「やった…」
勝手に使う事が悪い事だと思っている一華の声は、小さく囁くようだった。が、それ以上にテレビの音は小さかった。
ビデオデッキの電源を入れると、何か先に入っている事に気が付いた。
取り出しボタンを押すかどうか…一華は迷った。
再生箇所がズレる事を懸念したのだ。
「そのまま入れたら良いよね」
どうせ自分のを見るのだ、テープは横に置いて忘れず入れ替えれば良いと考えた。
取り出しボタンを押すと機械音の中、デッキはテープを吐き出してくる。
一華はいつもこれが口から吐き出す様に思えて、面白く思っていた。
「…?」
真っ黒な何もラベルの無いビデオテープが出て来た。
自分のは録画した物が何か分かる様に、番組名がきちんと書かれているが、兄のはそうでは無かった。
「何だろ…?」
一華の心に誘惑が訪れた。
右に少しでもあれば…再生中だから動かすとバレる…けど…。
手元のテープは巻き戻してあるのか、最初に戻っている様で、左にテープが偏っていた。
「見ちゃえ」
ニヤリと笑みがこぼれた。
どうせ、巻き戻せばバレはしない。
お兄ちゃんが何を見てるか…。
一華はテープをデッキの中に戻した。
今は懐かしのビデオテープ…。
絶滅…しましたか?
まだ現役のデッキって、幾つ有るのでしょうね。




