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順風満帆に思えた生活は、学校生活こそ続いたが、家庭では暗雲が流れ始めていた。
転校の手続きや新居の整理がひと段落着いた頃、学校から帰るとリビングのテーブルに見覚えのある後姿があった。
一華が帰宅した音を聞きつけ、振り返るソイツは…紛れもない失踪押した父親だった。
「よう」
最後に見た時より老けた気がするが、そうやって笑う顔は変わらない。
「ええとこに引っ越せてよかったな」
ニヤニヤと笑うその向こうに、暗い顔の母親と兄を見た。
亜希はまだ帰って来ていないらしい。
「ただいま」
どう言って良いのか分からず、一華の口からはいつも通りの言葉しか出なかった。
「久々に会おた親に素っ気ないのぅ」
薄ら笑いが消え、目が細くなった。
一華はその反応を久しく見ていなかったが、体は憶えている。
心臓の周りが冷え、体の芯がガタガタと震え出す感覚が来た。
殴られる。
身構え、目を閉じてきゅっと縮む。
…しかし、父親は立ち上がりはしなかった。
「まぁええわ。お前も小さかったもんな」
そう言うと煙草に火を付けた。
深く吸い、吐く。
白い煙がゆらゆらと揺れ、天井に吸い込まれていった。
「で?一番下は?」
亜希の事を言っているのだろう。
母親がまだ帰宅していない旨を告げると、どれくらいになったかとさも気にしていたかのように聞き始めた。
自分はどこかに消えていた癖に。
そうろっと父親の背後を通り、自室のある二階に行く。
足音は立てない。
兄が俯いているのを見たが、膝の上で手は震えているんだろうと考えた。
リビングを支配している空気は、恐怖そのものだった。
いつ、暴れるのか分からない男がそこに居るだけで、皆身体が固まる。
夫婦である母親でさえも、何かしら緊張した面持ちだ。
「ランドセル置いたらこっち来い」
音もなく階段を上がると、後ろから声が掛かった。
振り返り、頷く…。
が、本当は行きたくなかった。
出来れば部屋に引きこもって居たい。
自分の好きな色に囲まれ、亜希が帰るまでのんびりと部屋を満喫したい。
しかし、命令は絶対だ。
ランドセルの中の宿題を出すと、いつもの鞄かけに引っ掛けた。
赤いランドセルが揺れる。
宿題は机の上に置く。
今日の宿題が出来るのかどうか、不安になりながら筆箱をそのノートの上に置いた。
ノートの楽しそうな絵が、いつもなら何も思わないが…酷く苛立つ気がした。
「早く…降りな…」
そう、呟くが足は突っ立ったまま動かない。
部屋まで上がって来る事態になれば、どうなるか…嫌でも想像は膨らんだ。
重い足を引き摺る様に、ドアへ向かう。
下の声が微かに聞こえたが、まだ怒気は含んでいない様だと少し安心した。
階段を降りると、残った椅子に座るしかなかった。
残った椅子…父親の横。
椅子を引き、座ると煙草の匂いで眉間に皺が寄った。
「何や、嫌そうやの」
分かっていて顔を近づける。
底を向いて逃げ出したくなるが、膝の上でぎゅっと手を握りしめ耐えた。
「子供は煙草が嫌いやもんな」
そう言いながら新しい煙草に火を付けた。
この新居も早々に黄ばみそうな勢いだ。
「お前は?辞めたんけ?」
母親の前に煙草を置く。
「リビングでは吸わへん」
「ほう」
そう言って鼻で笑う。
どうしてだか、父親は帰って来た。
母親からすると「不倫相手の女」と別れたからだと言う事は明白だったが、それに言及する気は無かった。
一華と和雄は事の成り行きを見守った。
このまま「ここで暮らす」とは聞いていないのが、一筋の光だった。
「ただいま…」
玄関の方で小さい声がした。
亜希が帰って来た。
振り返り見ると「知らない人がいる」と言う顔をして突っ立っていた。
「こんにちは」
おずおずと頭を下げ、挨拶をした。
異様な雰囲気を感じ取ってはいるものの、恐怖に泣いたり叫びはしない。
小学一年生にしては、肝が据わっている。
「覚えとらんわな」
煙草を持った手の肘をテーブルに置いて、白い煙を揺らしながら笑う。
「お父さん?」
じっと父親を見据えて、亜希が言った言葉に、四人が驚いた。
写真も無い。
最後に会ったのは亜希が二か月少しの時。
覚えている訳は無かった。
「何や、分かんのか?」
父親の言葉にじっと立ったまま、答えない。
「勘か?ええ勘しとるんかいな」
煙草を口に咥えると、亜希の頭に手を伸ばした。
しかし、触れる前に避けられ空を掻く。
「宿題あるし、部屋に居る」
そう言って、足早に上がって行った。
唖然とする母親や兄姉を置いて。
「何や気の強そうなガキになったもんやな」
父親はそう言って煙草を消し、次の新しい煙草に火を付けた。




