―過去―
―15年前―
一華と妹は親からの愛情と言うモノを知らずに育った。
二人の上に居る上の兄も、それは同様だった。
兄が五歳になるまでは、一華とはたった二人の兄妹、仲良く支え合って来た。
たった二歳差の兄が妹を守り、妹が兄の心の支え。
それが赤子が生まれた事で、崩れ始めた。
硬い二人の結束を、赤子は泣き声で無力に変えてしまう。
いつもならば二人、暗い押し入れで身を潜めていれば過ぎ去る嵐が、赤子が泣く事によってどちらかが殴られなければ収まらなくなっていた。
引きずり出されたのは手前に居た兄だった。
一華は身を潜め、見つかれば次は自分だと震える体を抱きしめて身を縮ませる。
部屋に何かが打ち付けられる音と、兄の叫びが響いて来た。
兄が叫べば叫ぶほど、赤子は泣いた。
赤子が泣けば泣くほど、部屋に響く音が酷くなる。
一華は押し入れで漏らした。
足に広がる生暖かさと、尿が広がって行く感触に、恐怖が襲ってくる。
バレては…いけない。
必死に服を手繰り寄せ、拭こうと伸ばすが、着ている服は兄のおさがりの長袖シャツ一枚。
細い膝すら隠れはしないボロ衣だ。
それでも、無駄に長い袖を引っ張り伸ばし、急いで床を拭った。
薄黄色に袖が染まっていく。
生暖かかったモノが冷え始め、外気の来ない、まだ暖かかった押し入れでさえも、一華の体を凍えさせた。
秋に生まれたから「あき」
そう、名付けられた妹も徐々に寒くなるこの季節も、大っ嫌いだった。
奥から襖の開いた音がした。
ぴたりと籠った打撃音がやんだ。
ぼそぼそとか誰かが会話する声がした事に、一華は安堵する。
一緒に住んでいる祖母が帰って来たのだと、そう思った。
祖母は子供を殴るのを止める、この家での…兄以外での唯一と言える救いだ。
この流れで、兄は暴力から解放され、自分も助け出される。
押し入れの薄っすらと開いた隙間に指を入れ、音が出ない様に動かし様子を伺った。
大丈夫、おばあちゃんだ。
そう思ったのも束の間、祖母は母親に何かを伝えた後、部屋を出て行った。
安心するには速かった。と、後悔が襲ってくる。
兄の足の裏が押し入れに向いていて、隙間から見えるのも怖かった。
今の自分の状況が、母親にバレる。
その恐怖で、心臓が飛び出しそうになる。
音さえも、外に聞こえてしまいそうで…どうにか止まらないかと考えた。
玄関から音がする。
来客を祖母が制する声がした。
「勝手に上がらんといてください」
冷たい母の声がする。
「子供は泣くもんでしょ」
すぐそこに、来客が迫って来て居る。
この兄の状態を、自分の状態を、部屋の状態を…。
知られてはいけない。
ぎゅっと膝を抱え込み、肘を握りしめた。
染み込んだ尿が、手の平をじゅわっと湿らせる。
襖が閉まり、母の声が遠のいて行った。
恐る恐る押し入れを開け這い出ると、血を体に滲ませた兄が畳の上に転がっている。
「おにいちゃ…だいじょうぶ…?」
声が聞こえてはいけないと、小声で話そうとすると喉が引っかかって、声がかすれた。
兄の反応がない。
聞こえていないのかともう一度声をかけた。
ぴくんと肩が痙攣く。
触ろうとしたが、痛々しい赤みと滲んだ血が恐ろしく、躊躇した。
「うっ…っ…」
押し殺した泣き声が微かに聞こえる。
「一華!!」
勢いよく開く襖の音と共に怒声が響き、一華の右頬に強烈な痛みが走った。
思わぬ方向からの強打に、三歳の幼子の体は耐え切れず、そのまま衝撃の流れるままに倒れた。
「あんた!何やってんの!!」
母親の足が畳を踏んで近付く音がした。
ボロボロの絵本で見た鬼の様に赤い顔をして、ぎしぎしと音を立ててこちらに来る。
「なんや、騒がしいな」
この家には鬼が居る。
一匹の鬼ではなく、二匹の鬼。
そのもう一匹の鬼が起きた。
二階から降りてくる。
兄も一華も震え出した。
「もう…もうその辺で…なぁ…」
気弱な祖母の声が、二匹の鬼に容赦をと請う。
「せやかて、お義母さん、この子押し入れで…」
「拭いたら良い…拭いたらええから…な…一華も着替えて…」
胎児の様な姿勢で足元に転がる兄には声を掛けず、起きて来た鬼…父親は顎をくいっと動かした。
「まずは風呂や…」
一華はため息を付いた母親に追い立てられ、風呂場へ入れられ浴槽に溜まった昨日の水を浴びせられる。
意図せず体が震えるが、お構いなしに母親は何度も何度も水を浴びせ続けた。
そしてやっと母親は服を脱ぐように一華に告げ、脱いだ後の服を踏む様に言われる。
ぎゅむぎゅむっ。と、擦れると遠くから聞こえる亜希の泣き声だけが、風呂場に響いた。
「はよ、綺麗にしいや」
そう言って、母親は風呂場を出て行った。




