12
「今日ご飯無いからな」
気が済んだ母親は、そう言って部屋から出て行った。
起き上がり母親の手から庇った顔はもちろん、腕や足にも赤い跡が残っていた。
母親が持っていたドレスは途中畳の上に広がっていたが、回収され母と共に消えていた。
部屋に一人、一華だけが残されている。
トン…トン…トン
二階から降りてくる足音がした。
二匹目の鬼は今日は居ない。
階段の方を見ると、兄が立っていた。
兄はちらっと一華を見たが何も言わずに台所へ行った。
いつもならば優しい声をかけ、労り、赤くなった場所を冷やすものを持って来てくれる…。
だが、最近の兄はそれをしない。
逆に母親に気に入られる為に、一華の悪さを口にする様になっていた。
目も虚ろになり始め、笑っている事が少なくなった。
以前は園では溌溂としていたのに、今は…。
園児の中で遊んでいる姿を見なくなり、ずっとどこか隅っこに立ってる。
園では自由きままに過ごしている一華とは、まるで逆だった。
「…」
台所からコップ一杯の牛乳を持って戻って来た。
一華はゆっくり起き上がり、それに手を伸ばそうとしたが、兄はスイッと後ろに下がった。
一華に渡してくれるのでは無かったのか?
不思議に思う一華に、兄は冷たい視線を向けた。
眉間に皺を寄せ、父親に似た顔をする。
「おにいちゃ?」
口の中が痛む。
鉄棒をふざけて舐めた時の様な、変な味もした。
「お願いは?」
牛乳が入ったコップを上に掲げる。
「お預け」の様だ。
「お願いします。って言って」
じゃないとあげない。と、兄は言う。
「お願いします」
「違うでしょ。牛乳をください、お願いします。でしょ」
言ったのにな。と、一華は思いながらも自分で取りに行くには辛く、口の中の変な味を流したかったので、兄の言う通りに言い直した。
「牛乳を下さい。お願いします」
「お辞儀は?」
「え?」
「お辞儀もして」
一華は言われた通りに頭を下げた。
「違うでしょ。ちゃんと起き上がって」
再度言われた通りに痛む体を起こし、頭を下げた。
「もう、何回言わせるの?お辞儀しながら言うの」
どこからこんな意地悪を学んだのか、兄は言う通りにすればするほど注文を増やしていった。
お辞儀をしながらお願いをしても「もっとちゃんと」と言う。
「お願いだからちょうだい。おにいちゃん」
両手を差し出したが、くれない。
「もっとちゃんとお願いして。じゃないとあげない」
「してるじゃん!」
嫌になり始め、声を荒げると兄は自分の口元へコップを持っていき、飲む素振りをする。
もう、諦めようかな。
そう思い始めると、近付ける。
そしてまた、お願いと言えと言う。
「もういい…いらない」
そう言って、自分で取りに行こうとした。
「いらないの?じゃあ、僕が飲むね」
台所へ行く一華の体の前に立ち塞がり、目の前で牛乳を飲む。
兄に怒りが湧いた。
どうしてわざわざこんな事をするのか、一華には分からなかった。
優しかった兄だったのに。
兄を押し退け、一華が冷蔵庫に手を掛けた時、兄が叫んだ。
「あー!!」
ビクッとして、手が固まった。
いったい何だというのか。兄を振り返る。
「おかーさーん!一華が牛乳飲むー」
牛乳を飲んで何が悪いのか。と、思ったが得意げに言いつけようとしている兄を見て、さっき『ご飯無し』だと母親が言った事に関係しているのが分かった。
兄は階段の上で聞いていたのだろう。
「一華!あんたは今日は水だけ!」
違う部屋から母親の怒鳴り声が響いた。
「おにいちゃんが…」
くれたら良かったし、言わなきゃ良い。そう言おうとして止めた。
兄が今までに見た事が無い、意地悪な顔で笑っている。
要らぬ言い返しは…酷い事を呼び寄せる。
今は目の前に居ないあの鬼を…呼び寄せる。
一華は諦めてコップに水を汲み、飲んだ。
変な味は口内から喉へ流れ、マシになったが、どうして兄にこんな事をされるのか分からないのが、胸の奥に重さを残した。
水を飲む一華を見て、ほくそ笑みながら兄が冷蔵庫から牛乳を取り出し、もう一杯飲んだ。
「ぷはぁ…」
さも美味しそうに、満足そうに見せつける兄に、ますます混乱する。
その反面、飲み過ぎて腹を壊せばいいのにと思った。
その一時間後、トイレに駆け込む兄の姿を見て笑えた。
「ざまぁ、みろ」
嫌な事をした奴が嫌な事に遭っている時に言う台詞だと、聞いた言葉が口を吐いて出て来た。
吐き捨てた言葉は、一華の気持ちを少しだけスッキリとさせた。




