君に捧ぐ物語
他の異世界転生作品を否定する意図はありません
御伽噺では、プリンセスの危機のために、王子様が剣を振るう。
悪役は倒されて、それでハッピーエンド。
みんなが愛して、愛されて綴られてきた物語。
ーーじゃあこれは?
森の中で1人、震えながら倒れた化け物の真っ赤な血を見つめている私は、私は。
これは誰のための物語なんだろう。
*
御伽噺なんて嘘っぱちだ。
待っていたって王子様が白馬に乗って現れることは無い。
女の子がそう気づくのには、そんなに時間はかからない。
大概は10代のうちに(中には一生気づかない人もいるけれど)分かってしまうのだ。
この世界は自分が主人公じゃないことを。
もちろん気づいたからって世界が一変するわけじゃない。
変わらない日常が、鈍行列車のように日々続いていくだけ。
私もその1人。
だから、きっと異世界転生なんて小説が流行るのだろう。
異世界に行けば主役だなんて、そんな甘いことあるはずないのに。
そう、思っていた。
明日もきっと、学校で特に代わり映えのないネタで話して、終わったらカフェでダラダラ課題してそうして一日が終わる。
はず、だった。
よそ見運転のトラックに体当たりされるまでは。
*
あ、死んだって思った。
大きなトラックが、ブレーキを踏みながら迫ってきて、もう終わりだって思ったのに。
衝撃がいつまで経ってもやってこない。
恐る恐る目を開くと、そこには渡りかけの横断歩道ではなく、異様な光景があった。
まず、灰色の壁が見えた。
ところどころ崩れたそれの向こう側には薄暗い森が。
そして振り向くと豚の頭をした緑色の化け物が、松明に照らされて私を見下ろしていた。
「ば、化け物…」
化け物が奇妙な音を立てると、森の方から同じ頭の化け物が数匹やってきた。
甲高い鳴き声とあらい鼻息、化け物は顔を突合せて、まるで人間がするみたいに話し合っているようだった。
こんな空間になんて居られない。
状況を見て逃げようと思った私は、足音を立てないように、ゆっくりとした動作で森の方へと逃げようとした。
が。
どうも不運は続くようで。
ーーガランッ
1歩踏み出したところで、音を立てて何かを踏みつけてしまった。
足元に目をやると、靴の下にはむき身の剣が落ちていた。
ーーグルルルルルッ、シャーッ
音に振り向いた化け物が、唾を散らしながらこちらにやってきていた。
不意がつければ逃げられる。やってみるしかない。
足元の剣を両手で握りしめ、四方八方に振り回す。切っ先は化け物にかすりすらしていない。
化け物は応戦してこなかった。
ただ困惑したように後ずさり、その隙に私は森の方へと駆け出していた。
逃げられる!
そう思って、走って、走って、走って。
足音が追ってきていた。限界まで走ったが、化け物の方が身体能力に優れているのか、腕を捕まれ、がくんと引き戻された。
木の根でボコボコの地面に叩きつけられ、息が止まる、背中が痛む。
ーーシャーッ、キリリリリッ
化け物が叫ぶ。
ヒッっと喉が情けなく短い悲鳴をあげた。見上げた化け物はにたにた笑っているように見えた。
逃げなきゃ逃げなきゃ。
太い腕が私をぶら下げるように持ち上げた。
逃げなければ、私が殺される。
私は片手に握りしめていた剣を横に思い切り振った。
ーーザシュッ
嫌な音を立てて化け物の首が切れた。
切れた断面から液体が勢いよくあふれて、私をぶら下げていた手が離れた。
何とか着地をとり、もう一度、首を押えて奇声を発している化け物の胴を、力を込めて刺した。
ドシュ、とかグシャ、とか、そんな肉を貫いた音がした。
液体が刺した辺りからどろりと溢れて、奇声が上がって、喉の奥で悲鳴を潰して、何度も、何度も剣で刺した。
やがて化け物は崩れ落ちて、後には液体にまみれた私だけが残った。
化け物は死んだようだった。
月明かりにぬらぬらと照らされて、私はそこでようやく、液体が赤色であること、血であることに気がついた。
ーー殺してしまったことに気がついた。
しかし考える時間はなかった。森の向こうから慌ただしい足音が複数聞こえてきていた。
血でぬるつく剣の柄をにぎりしめ、私は走った。森の奥へ、ずっと遠くへと。
*
それから5日がたった。
太陽が沈み月が登るのはこの世界でも同じらしかった。
歩き続けて2日目に小川を見つけていた。喉がカラカラにかわいていたので川に顔を突っ込んで水を飲んだ。ついでに髪や服にへばりついた赤黒い血を落とした。完全には落ちなかったが、鉄錆の染み付いた匂いは多少マシになっていた。
それからは川に沿って森をくだっていった。
5日かけてわかったことは、この森には食料が自生していないこと。草木は全て実をつけない種であるようで、キノコなどは生えておらず、動物や虫に出くわすこともなかった。
渇きがみたされたら次は空腹が襲ってきた。
飢えたままさらに数日歩き、酷い倦怠感と肌寒さを感じている時、小さな集落を発見した。
茅葺きの家が数件あるだけの小さな村だった。
夜通し歩き、飢えた私にはオアシスに見えた。あそこには食料がある。あれなら襲えるのではないか、と。
武器を持っていそうな住人がいるか、念入りに偵察した。わかったことは住んでいるのはやはりあの言葉の通じない化け物が数人で、武器を持って居そうなやつはいないこと。
ーー御伽噺のように穏やかに暮らしているということ。
しかし空腹は限界だった。飢えた怪物に成り下がってしまったように、奪い尽くすことしか考えられなくなっていた。
人間が住んでいるという一縷の希望が尽きた今、もうやるしか無かった。
まだ、死にたくなかった。
そうして私は村を襲うことにした。
私は白昼堂々と剣を振り回して叫びながら村を襲った。化け物たちは奇声をあげながら森の方へと逃げていき、もぬけの殻になった村で食料を物色した。
物語に出てきそうな簡素な作りの家ばかりだった。
火にかけられたままの鍋をみつけ、粥状のなにかの食事にありつけた時は涙が出た。食べれるだけ食べて、満腹になって初めて眠気がきて、ついウトウトと眠ってしまった。
気がつけば夜だった。
急いで干し芋のような持ち運べる食材をかきあつめ、村を出た。何時間歩いたか分からないが、振り返ると村があった場所に松明が並んでいるのが見えた。
私は必死に走って逃げた。
その後二つ、似たように村を襲った。
回数を重ねるにつれ、罪悪感は薄れていった。
わかったことは、化け物は基本的に武器を持っていないこと。川沿いに歩けば集落が見つかること。
あとこの世界に肉食が存在しないことだ。
食料を貯えることができるようになると、私は夜通し歩くのをやめて、野宿をするようになった。できるだけ平らな場所を選んで泥のように眠った。
寝付けない時もあった。
そういう時はこの世界について考えていた。
どこに行っても人間がいない。これはいわゆる異世界なのだろう。緑の豚頭がこの世界を支配して暮らしていて、迷い込んだ私こそが異物なのだ。しかし文明は私がいた世界ほど発達していない。昔話に出てきそうな家の作りからそう考えられる。電話のような情報伝達手段もないようだ。ネットなんてもってのほかだろう。
取り留めのないことを考えながらお守りのように握りしめていたむき身の両刃の剣を見る。御伽噺の王子様が持っていそうな剣だ。
この世界の化け物には知性があり、コミュニケーションをとり、群れて暮らしている。人間とどう違いがあるというのか。
血だって、あんなに赤いというのに。
その日は悪夢を見た。
*
その日も川沿いで見つけた村を襲っていた。
叫びながら剣を振り回す私を見るなり、奇声を上げて逃げ出す化け物を見るのは心地よくすらなっていた。
今日は暖かい食事にありつけるだろう。
そんなことを考えていたから、すぐに気がつけなかった。
ーーキシャァァァァァッ
化け物の叫び声、咄嗟に振り返るなり肩に衝撃を受けた。次いで熱と痛み。矢を放たれたのだ。
完全に無警戒だった。下見を怠った自身を呪った。
周辺の村が襲われたなら武器くらい調達していて当たり前だったのだ。
血の流れる肩を押さえながら駆け出そうとする私の足を、逃がさないと言わんばかりに矢が貫いた。ふくらはぎに強烈な痛みが走り思わず踞る。
ーーキシャ、クルルルルル!
緑の化け物が近づいてきて、私の髪を掴んだ。痛みに顔が歪んで、剣が手から落ちる。殺される理由ならいくらでもあった。私は罪を犯しすぎていた。
化け物の豚の顔が真正面に見えた。
私は悪役の矜恃で笑って見せた。
死への恐怖に怯えて引きつった顔で。
化け物はそれに憤慨するでもなく奇声をあげるでもなく、ただ静かに見つめていた。
*
猿轡をされ、手足を縛られて、私は荷台に載せられた。
ガタゴトと急勾配の坂道を昇っていく。箱型の入れ物の床を、牽引する担い手が休む度にゴロゴロところがりながら、どこへ運ばれていくのか考えていた。
死刑台?生贄の台座?拷問部屋?
悪い想像しかできないのは、悪いことしかおこっていないからだろう。悪いことしかしていないからかもしれない。
きつく縛られた縄が痛く、矢で射られた跡からは血がまだにじみでていた。
丸一日かけて移動したところで、箱の扉が開けられた。
山の中にあるそこは隠れ里のように周囲を高い杭で覆われた場所だった。もんには見張りがいるらしく、ここまで牽引してきた担い手が緑色の顔を突合せながら話し込んでいる。
やがて両方の目が私を捉えた。
両手足縛られてころがっている私を見て、門番がうなづいたように見えた。担い手がずかずかと私の元まで歩いてきて足の縄を切った。
そのまま引き摺るように地面に落とされ、うっ、と息が詰まる。衝撃に息ができないでいると間髪入れずに体を持ち上げられ、俵のように担がれて隠れ里へとはいることになった。
血を失いすぎたか、寒かった。凍えながらも、息を必死に整えていると、歌が聞こえた。
歌だ。奇声でも咆哮でもないメロディが伴った、どこかの国の歌。
思わずそちらに目を向けて、再び息を忘れるくらいの衝撃を受けた。
人間がいた。
金髪だから外国人だろうか?畑で農作業をしているようだった。
思わず息をめちゃくちゃに吸い込んで叫んだ。
「は、ハロー!!!」
声に気づいた彼女は顔を上げてギョッとしたあと、元の作業に戻った。私は身を捩って暴れた。涙があふれて止まらなかった。早くあの人に駆け寄って話したかった。言葉が通じなくても身振り手振りでも、なんでもいいから話したかった。私は誰かに聞いて欲しかった、今日までの体験を。責められても良かった。ただ聞いて欲しかった。
しかし担い手が足を止めることはなく、里の中を進んでいった。
涙を瞬きで落としながら周りを見渡すと、より多くの人間がいた。
私は暴れるのをやめて、その夢のような光景をじっくり見渡していた。嗚咽を漏らしながら運び込まれた私の様相を見て、みなギョッとした顔をしていた。
中途半端に残った返り血で髪はざんばらにかたまり、右肩と左足に血のにじむ包帯をまきつけられている私は、他の人より酷い状態らしかった。
ジロジロ見られたが、喜びが先行して涙が止まらなかった。
時期に里で一層豪華な屋敷に着いた。
ーーキシャーーー!!
担い手が奇声を発するとドタドタと奥から眼鏡をかけた化け物が現れた。
担い手は私をその化け物の前に放り出すと、要は済んだと言わんばかりに来た道をもどり始めた。
眼鏡をかけた化け物は私の容態を見るなり、慌てて引き返して奥座敷から担架と、背の高い黒髪の男を1人連れてきた。
男は私を見るなり泡を食ったように言った。
「大丈夫か!」
日本語だった。
ようやく助かったと思った。救われた、と思った。まるで男が神の使いのように、あるいは姫を助けに来た王子様のように見えた。
伸ばされた色白の長い手指を必死で握った。
「大丈夫」「助けて」「あなたは誰?」
そのどれもをいっぺんに口にしようとして、声に出す前にプツリと意識が途切れた。
*
目が覚めると、木目調の綺麗な天井が見えた。
どこだろうと芒洋と見上げていると脇から「おや」と声が上がった。
筋肉の硬直した体をブリキの人形のように不格好に首を曲げると、絵から出てきたような色白の、美しい男がそこに立っていた。彼は片手に盆を持って、灰色の着流しを今日に捌きながら私の隣に座った。
「目が覚めたかい、お腹は減っているかな」
答えようとして、声が上手く出ないことに気がついた。うぉん、とゾンビのような声を出しながら、頷いてみせると男は笑みを見せた。
「酷い怪我だったな、君が目覚めるのに2日経ったよ」
口元に重湯がはこばれて、のみこんで、喉がしめってようやく声らしきものが出るようになった。
あ、あ、と2、3回発音してから、男に向かって問うた。
「ここは、どこ?」
男は、困ったような顔をして顎をさすった。細面の白いあごだった。髭を剃る設備くらいはあるのかもしれない。
「どこと言われても、君も喚ばれてきたんだろう?スサリムの民に」
「喚ばれて?違う。私はトラックに跳ねられて、それで…」
「トラック?」
トラックに跳ねられたはずだ。喚ばれたなんて大層なものじゃない。何故か世界が一変して、何故か化け物が目の前にいた。私にわかるのはそれだけだった。
「聞いた話だが、ここのスサリムの民は、召喚術というのに長けているらしい。違う世界線からこの世界で言うところの亜種人類を選んで召喚しているようだ。突然起こるようだから、君が混乱するのも無理はないよ」
僕も突然のことだったからね。
男は微笑んだ。
突然言われても頭が混乱して、何も飲み込めなかった。
でも、そうなら。
「なら、どうしてわたし、なの」
「そこまでは選別できないようだよ」
それでも私じゃなければよかった、という思いが消えなかった。
打ちひしがれる想いで俯いた私の口に、思い出したように重湯を運びながら男は問うた。
「時にお嬢さん、君は一体いつの日本から来たんだ?」
「…西暦2025年だけど…」
「そうか」
男の声が低く、かすかに震えていた。
「我が国は、負けるんだな」
囁くように呟いた言葉は、なんと言ったのかききとれなかった。
*
久々の敷布団は記憶の中のものよりも固いとはいえ、根の張った地べたで寝ていた頃よりは随分穏やかに過ごせていた。
男は如月透と名乗った。
同じ国の出身だからか、日に三度、食事を運んでは世間話をすることが増えた。彼は画家であること以外をあまり語りたがらなかったが、私のことは知りたがった。
具体的に言うと私のいる日本のことを知りたがった。それだけ私たちはズレた年代を生きているらしかった。彼の方が遅れているのか、私の方が遅れているのかは分からなかった。
看病をされながら親しく話をできる相手は、泣きたいくらいに嬉しかった。孤独だった私が彼に好感を抱くのに、そう時間はかからなかったように思う。有り体にいえば好きになってしまっていた。もっと一緒にいたくて、問われるままになんでも話した。
私は彼に恋をしていた。
あくる日のこと。
化け物の領主が私に面会したいと申し出ていると如月さんから聞いた。何故かは聞かなかった。
どうせ、私の処刑の話だろうと思ったからだった。
「やぁ、すまないこんにちは」
緑色の豚ヅラに眼鏡をかけた、それ、は、スサリムの長だと名乗った。スサリムには名前、という習慣がないようだった。
スサリムの長は短い豚鼻をフガフガさせて、たどたどしい日本語で話し始めた。
「ワタシ、あなたたちの言葉、勉強しました」
スサリムの長は意外にも穏やかな言葉で話し始めた。
「ここでの生活は、どうですか?」
「如月さんが話し相手になってくれて、不自由してないよ。出来ればお肉が食べたいけれど」
ここに来てからお粥や果物を食べていた。この世界には基本的に自生する果物がないため、ここの畑で取れたものが食事に出される。誰かが種を持ってきていたのか甘いイチゴがよく取れた。
スサリムの長はメガネの奥で目を細めたあと、衝撃的なことを口にした。
「なにか、1つ技術や知識をくれれば、あなたを元の世界に返せます」
処刑の通告ではなかったが、同じくらい、いやそれ以上に衝撃的な言葉だった。
「帰りたいですか?」
「帰りたいに決まってる!」
突然連れてこられてさんざん酷い目にあって、生きるために手段を選ばなかったのは、帰りたかったからだ。家族がいて、友達がいて、あの国に、日常に帰りたかった。
…希望を捨てきれず、酷いことも沢山した。
「…帰っていいんですか?私は酷いことを沢山しました。あなたの仲間だって殺した」
スサリムの長は丁寧に言葉を紡いだ。
「私たちが、最初にあなたにひどい、ことをした。あれは村でも一番の乱暴者だった、怖がらせて、すみません」
スサリムの長は見覚えのあるカバンを、横にある箱から出した。
「あなたの荷物から、勝手に情報、もらった。特に、この本には知識が詰まってる、素晴らしい。この本はどうやって、使うものですか?」
「それは、学校の教科書で、子供を集めて勉強するために使います」
「そうですか、ありがとう。では、」
次にスサリムが手にしたのはスマートフォンだった。
「この金属の板は、何に使いますか?」
「それは、連絡をとったり、写真撮ったり、動画を撮ったりします」
「連絡?この板で?」
「電源が入れば分かりやすいかも」
スサリムの長の手からスマートフォンを取って電源ボタンを押してみたが、画面は暗いままだった。どうやら充電が切れてしまっているらしい。
ふと、モバイル充電器のことを思い出したが、黙っておくことにした。取り上げられたくなかったからだった。
「すいません、電池がないみたいです。」
「これでは、ダメですか?」
スサリムの長が懐から取りだしたのは単三電池だった。
「すみません、型がちがうので…」
そう断るとスサリムの長はこころなしかしょんぼりしたような顔をした。
「荷物は、この本以外は、全て返します」
「ありがとうございます」
「貴重な情報、ありがとうござい、ます。」
「あ、あの、私はいつ帰れるんでしょう」
スサリムの長は黒い目をすがめて言った
「次の満月の晩に、帰れるようにします」
スサリムの長が立ち去った後、私はうかれていた。わかりやすいほどだったようで如月さんが「嬉しそうだね」と苦笑いしていた。
「嬉しいです、もう家族とか友達に会えないと思っていたので」
「そうか、君の生きる時代は平和なんだな」
「普通だと思いますけど…如月さんは?如月さんはどんな生活を送っていたんですか?」
彼は困ったように微笑んで、答えなかった。
傷口も塞がりかけ、体も自分で拭けるようになってきた頃、「試しに外に出てみないか」と、如月さんから声をかけられ、私は一、二もなしに了承した。
擦り切れた汚れたスニーカーと、下駄が並ぶと面映ゆい気持ちになった。からん、からん、と如月さんの下駄が鳴る中、私は支えられながらゆっくりと負傷した左足を庇って歩いた。
「ご覧、まるで桜のように咲いているだろう?」
君にも見せてあげたくて、と優しく如月さんが笑うと胸が締め付けられる気持ちになった。好きだ、と強く認識する一方で言ってはいけない、と強く思った。
この手は血で汚れている。あの時は生きるためにやった行動だったが、今となればそれは正しかったのか怪しかった。スサリムの長と話してわかった。彼らに敵意はない。初めに出会った彼も話せばわかるはずだった。彼らに敵意がなかったとしたら、私はどうして、どうして殺してしまったのか。
この話はとても如月さんにできるはずもなかった。
「…スサリムの民が、どうして知識を欲するのか、知っているかい?」
「…いいえ?」
如月さんの話は唐突だった。
突然のことに花にやっていた視線をうつすと、黒い瞳が静かに私を捉えた。私はうろたえた。そんなこと考えたこと無かった。
「知識を得て専従させるためさ、他種族をね」
「この世界に他の種族なんてあったんですね」
純粋に驚いてみせると、如月さんはうっそりと笑っていた。
その笑顔が病的なまでに白い顔に酷く映えて、私は思わずたじろいだ。
「スサリムは戦争という概念を得てしまった。僕らが持ち込んだものだ」
私の頬から髪をすくいあげて、如月さんは言った。
「僕はこの地に残るよ。どうせ、元の時代に戻ったって…」
「私は帰ります、何がなんでも!」
続きを聞かないように、私は叫んだ。
如月さんの顔が見れなかったが、いつものように微笑んでいることわかった。
「如月さんは、どうして帰りたくないんですか…?」
声が震えていた。とうとう聞いてしまった。聞けば戻れないとわかっていながら。
「僕には、もう守るべきものも何も無いからね、無駄死にするくらいならここで一生を終えたい」
「無駄死に…?」
「僕は君よりずっと前に産まれた。でも、君を見て安心したよ。」
死。元の時代に帰れば、如月さんは死んでしまうのだろうか。
それはいやだ。漠然とそう思う。
「…もし、如月さんが死んでしまうなら、戻って欲しくない」
「…うん、ありがとう」
「でも、如月さんには、本当に守るものは無いんですか?家族は、友人は…好きな人は?」
桜のような花びらが、私たちを包んで。まるで2人だけの世界になってしまったかのようにおもった。
「私、如月さんが好きです」
如月さんが息を飲む気配がした。
私は矢継ぎ早に続けた。
「私、時代が違ってもいいから、あなたの生きる世界で生きたかった」
ぽたり、と涙が1粒落ちて消えた。
如月さんは何も言わなかった。それが答えだと思った。
あっという間に満月の日がやってきた。
あの日から如月さんにはあっていない。身の回りの事も全て自分でできるようになっていたため、静かに日々を過ごしていた。
モバイル充電器は生きていて、スマートフォンは無事に息を吹き返した。
私は最後に如月さんに会いに行くことにした。まだ、伝えたいことがあったから。
「如月さん」
部屋の前から声をかけると、しばし間のあった後返事があった。ドアを開けると白い布が掛けられたキャンパスの前に如月さんがいた。
「何か用かな」
微笑んではいるが冷たい響きのする声だった。
「少し話しませんか」
そう言うとやはり間のあった後に、外で話そうか、と部屋を出ていってしまった。
後を追って外に出るとしばらく歩いた後に、あの桜のような花の前にたどり着いた。あんなに花びらが舞っていたのに、その花はまるで今が盛りのように咲き誇っている。
「それで、僕に話って?」
いつになく突き放したような物言いに、胸がずきりと痛む。
私は努めて明るく行った。
「写真撮りませんか?」
「写真?」
「ここであったのも何かの縁だと思って。写真、すぐすみますから」
私は如月さんの横に並んでスマートフォンのインカメラを向けた。どうせなら並んで撮りたかったからだ。如月さんは驚いたような顔をしてスマートフォンの画面を見ていた。
新鮮な表情が嬉しくて、私はそのまま写真を撮った。
「ありがとうございます」
「それは、君の時代のカメラかい?色がついていて僕の時代のものよりずっと小さい」
「はい、スマートフォンって言います。電話もできるんですよ」
へえ、と如月さんは目を輝かせてスマートフォンを見ていた。子供のように無邪気な表情に、胸が高鳴る。
私は2人が並んだ液晶画面をみながら、それを指でなぞった。
「私、昔自分は御伽噺のお姫様になれると思ってました」
読み聞かせられた夢物語の中のように、きっといつか王子様が現れて、幸せに暮らすのだと、そう思っていた。
「でも違った、自分は物語の主人公にはなれないってわかったんです」
如月さんは黙って私の話に耳を傾けていた。
「なら私の人生って何のためにあるんだろうって、ずっと思ってた。そんな時に、この世界に来た。殺して、奪って、人生なんてろくなものじゃないって。そう思った」
あの時の体験は、きっと一生忘れない。肉を刺す感触も、浴びた血の熱さも、鼻を突くような血の鉄錆たにおいも。
でも、と振り払うように私は続けた。
「でもわかったんです。辛いことが沢山あったけど、あなたに出逢えた」
初めて出会った時、あの時本当に救われたんだ。
だから。
「私の物語は、如月さんに会うために生まれてきたんです」
私は笑って言った。
「出会ってくれて、ありがとうございます」
次の瞬間、私は抱きしめられていた。
如月さんの匂いが温もりが、私を包んで、私は一瞬何が起こったのか分からなかった。
ただ、力いっぱいに抱きしめられて、それだけで心が通じ会えたような、そんな気持ちになった。
「僕も、元の世界に戻るよ」
え、と声が漏れる。如月さんは力を弛めて私を腕に閉じ込めたまま、私の頬を撫でた。
「いつか君の生まれる世界で、もう一度生きたくなった。無駄死にだって思っていたけれど、君を守るのなら悪くない」
涙がポロリとおちる。うれしい。死んで欲しくない。心がぐちゃぐちゃに裂かれるようだった。
私が何か言うのを咎めるように、唇が重なる。一瞬の口付けだった。
突然のことに呆然とする私の唇を、如月さんの白い指先が優しく撫でた。
「元の時代に戻ったら、僕を探して」
黒目がちの瞳に見つめられて、私はうなづいた。
密やかな約束を交わすように、再び唇が重なった。
*
スサリムの長が言っていた通り満月の夜に道は開かれた。来た時と同じ場所で、スサリムの民が魔法陣のようなものを書きあげてその中心に扉が現れた。
「その、扉を開けてください。それで帰れます、あなたの世界に」
私は扉に近づいた。扉を開くのを躊躇っている私がいて、自分でも驚いた。…まだ、如月さんと一緒にいたい。
躊躇う私の背中を押したのも如月さんだった。
「僕もすぐ行くよ、君の生きる時代に。またあえる」
いつものように優しく微笑んで言ってくれた、その言葉に安心して私は扉を開いた。
気がつくと見慣れた通学路にたっていた。
目の前には横断歩道。ぼんやりしていると急ブレーキをかけながら突進してきたトラックが目の前をとおりすぎた。トラックは街頭にぶつかって止まった。
周囲が騒然となる。
私はスマートフォンで日付を見た。
私があの世界に行った日付が画面に並んでいた。
インターネットで彼の名前をひたすら調べた。新聞も読んだ。アーカイブの隅々まで探して、ようやく見つけたのは地方の小さな絵画展の作家名だった。
結局見つけるまでに1ヶ月かかっていた。
私は絵画展に問い合わせて、無理を言ってアポイントメントをとった。
館長は年老いた老人で、穏やかな人だった。その人も名を如月、と名乗った。
「如月透はぼくの母の弟でね、幼い頃はよく遊んでもらったものだよ。変わった人でね、同じ題材を生涯描き続けていたよ」
「如月さん…如月透という人物は今どこにいるんですか?」
「…戦死したよ。遺体も帰ってこなかった」
ひゅっと喉がなった。
でもその瞬間全てがわかった。如月さんが元の時代に帰りたがらなかった意味が、無駄死にするだけだと言っていた本当の意味が。
「戦火を逃れて残っているのはこれだけでね」
老人はそう言ってガラスケースの前で立ち止まった。
顔を上げる勇気が出なかった。私が殺したのだ。そう思った。
私が同じ世界で行きたいなんて言わなければ。
「…おじさんが幼い僕によく話していたことがあるんだ。まあ作り話だろうけれど」
顔をあげず震える私を気にせず、老人は明るい調子で言葉を続けた。
「おじさんは違う世界に行ったことがあるんだぞー、なんて。お見合いも全部はねのけて、ほんと変な人だったよ」
色男だからもてたんだけどね、と老人は笑った。
「招集の夜、僕にこの絵を託したんだ。必ず未来に送り届けてくれ、約束なんだって…お嬢さんには、見る義務があると思うけどね」
その言葉にはっとした。そうだ、見なければ、彼の生きた証を。遺したものを。
恐る恐る顔を上げて、そして呆然とした。
思わず口元に手を当てた。涙がぼろぼろと溢れ出して止まらなかった。
どうして。
その1枚の絵の題名は『我が物語を君に捧ぐ。』
そこには私が、紛れもなく描かれていたのだ。




