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きっと貴方をとりもどす

作者: ミカン♬

 夏の熱気もようやく引いたある午後。

 リンジーとユーミナは、雇い主であり幼馴染でもあるエレナに付き添って、男爵領の湖畔の別荘に滞在していた。


 エレナは男爵令嬢。リンジーとユーミナは、成長した今では彼女のメイドとして働いている。


 両親を亡くし弟と二人で従妹のユーミナの家──叔父の世話になっているリンジーにとって、この仕事は願ってもない救いだった。

 弟は心臓に疾患を抱えている。お金を貯めて、いつか手術を受けさせるのが彼女の目標だった。


「ねぇ、アイザック様はいつ来るの?」


 手持ち無沙汰に空を見上げながら、ユーミナが聞いた。彼女は今、エレナの兄であるアイザックに夢中なのだ。


「言葉遣いに気をつけて」


 リンジーが咄嗟に制する。ユーミナの奔放さは昔からだったが、メイドとしては困りものだ。


「いいのよ、ユーミナの無礼なんて今さらだもの」


 エレナが笑ってかばった。気が強くても、彼女の根は優しい。


「お兄様、明日いらっしゃる予定よ。お友達と、令嬢たちも一緒にね。……きっとモテモテだわ」


「つまんない!」


 ユーミナがぷいっと顔を背ける。その幼さが、逆に彼女の可愛らしさでもあるのだが。


 エレナが「ランチの前にボートに乗りたい」と言って湖に向かえば、リンジーは黙ってそのあとをついていった。ユーミナはピクニックシートに腰を下ろし、「あたしはパス」と言い残す。


「ユーミナのこと、いつもすみません……」


「気にしないで。あの子はあなたのオマケで置いてるだけよ。からかうと面白いし。それより、リンジー。敬語やめてくれない? 友達でしょう」


「……うん」


 ボートが水面に滑り出すと、エレナは湖に指を垂らして言った。


「レイナード兄様は忙しいから来られないって。でもヨハンは来るそうよ」


 レイナードとヨハンは隣領の伯爵の息子たちで、エレナの遠い親戚でもあった。


「残念ね。……でも、レイナード様って婚約者いないんでしょう? エレナにもチャンスはあると思う」


「そうだったらいいんだけど……それより、リンジーは? アイザック兄様の告白、まだ返事してないの?」


「ええ……」


「ユーミナに遠慮してるのね?  知られたら、あの子、荒れるわよ」


「絶対、内緒にしてね」


「分かってる。けど、お兄様は本気よ。応えてあげて」


「……うん、ありがとう」


 二人は笑い合った。穏やかで、少しだけ切ない時間だった。



 キラキラと水面に日差しが反射してエレナのサラサラした美しい金髪が輝いている。


 ユーミナとリンジーは平凡な茶髪だ。


『神様はどうしてエレナだけに全てを与えたのかしら。不公平よ!』、とエレナに嫉妬している厄介なユーミナ。見た目は可愛いのだが性格は悪い。美人でアイザックに愛されているリンジーにも嫉妬していた。




「私が男だったら、きっとエレナに恋してわ」


「ふふ、ありがとう。でも私は今でもリンジーに恋してるのよ?」


「……!」


 笑い声が水面に広がっていった。


「そろそろランチにしましょー!」


 湖畔にユーミナの声が響いて、二人はボートを岸へと戻した。


 ***


 ずっと以前、財政難に陥った先代の男爵はこの場所を商人に買い取ってもらったのだ。だが商人の行方不明をきっかけに揉め事が起き、エレナの父が買い戻したのだという。


 湖畔の別荘の奥には、昼でも薄暗い森が広がっている。


 今は立ち入り禁止。整備も、安全確認もまだだった。


「森には野犬や熊が出るそうよ。それに……白鹿がいるらしいわ」


 エレナがランチをつまみながら言った。


「白鹿って、見たら幸福になれるんだよね?」

 ユーミナが目を輝かせる。


「純真無垢な乙女にしか見えないらしいわ、ユーミナには無理ね」


「ひどい! 乙女だもん、ちゃんと!」


 いつものやりとりだった。エレナが冗談めかして、ユーミナが本気っぽく拗ねる。

 それを聞きながらリンジーは、なんとなく視線を森のほうに向けた。


 ――そこに、いた。


 真っ白な毛並みと、堂々とした角。日差しの中でふわっと光って見えたその鹿に、リンジーは一瞬言葉を失った。


「白い鹿……エレナ、見える?」


「え、どこ? 私には見えないわ」


 鹿は幻のように森へ消えていった。


「行ってみる!」

「私も!」


 突然、ユーミナとエレナが走り出す。

「待って! 危ないから走っちゃだめ!」

 追いかけようとしたリンジー自身が転んでしまった。


「……いたたた、ほんともう……」


 埃を払って立ち上がると、ふたりはすでに森の中へ。

 リンジーは焦る気持ちでその後を追った。


 しばらくして、大木の根元で息を切らしているエレナを見つける。


「はぁ、もうダメ……」


「森に入っちゃダメって言われてたでしょう」

「だって……私も幸せになりたかったのよ」


「戻りましょう」

「先にユーミナを探して。あの子、もっと奥に行ったのよ」


 困った。リンジーにはエレナを守る責任がある。でも、ユーミナのことも叔父に強く頼まれていた。


「私はここで待つわ。命令よ」

「絶対、動かないでね?」


「……クマが出たら逃げるけど?」

「もう……」


 エレナに背中を押されて、リンジーは森の奥へと足を進めた。


「ユーミナ! 聞こえる?!」

 普段は温厚な彼女の声が、ちょっとだけ怒っていた。


「どうして、いつも人を振り回すの……」


 ほどなくして、ユーミナが見つかった。木の陰で、ふくれっ面だった。


「ズルい! リンジーだけ白鹿見て!」

「そのうち、また見えるわよ。帰ろう?」

「で、どんなだった?!」


「……ただの白い鹿。普通だったわ」


 本当は、もっと綺麗だった。幻みたいに。

 でも今は、一刻も早くエレナのところに戻りたかった。


 けれど、戻ってみると――


「エレナ?」


 そこに、エレナの姿はなかった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「エレナーーー!」


 森の中でリンジーの声だけがむなしく響いた。返事は、ない。


「もう戻ったんじゃないのぉ?」


「そんなはずないわ。ここで待つって……。まさか、クマに襲われたとか……」


「えーっ! やだやだ、早く逃げようよ!」

 そう言いながらも、どこか他人事。ユーミナの表情は笑っているようにすら見えた。


「静かに……!」


 耳をすますと、すぐ近くでガサガサと草が揺れる音。

 息を飲んで目を凝らすと、小さな影が飛び出した。


「……なーんだウサギじゃないの」

 ユーミナが鼻で笑いながら指をさす。「ほら、あそこ」


「ウサギを追いかけて、もっと奥に行ったのかしら?」


 リンジーはその方向へ走った。そうして見つけたのが、枯葉に覆われた地面に、ぽっかり空いた穴だった。


「井戸……? こんなところに……」


 覗き込んだ途端、湿った空気とともに、かすかに声が聞こえた。


「リ……ンジ……」


 心臓が跳ねる。目を凝らすと、底に白色のドレスの人影――エレナがいた。


「エレナ! 聞こえる!? 大丈夫!?」


「落ちたの? まぁ、随分と深い穴ね」

 ユーミナが口を尖らせる。悪意なく、ただ無関心に。


「水は……枯れてるみたい。お願い、ユーミナ。助けを呼んできて!」

「……わかった」


 リンジーは井戸の縁に膝をついた。


「大丈夫よ、すぐ助けが――」


 その瞬間、背中に強い衝撃が走った。


 **ドンッ**


 重力に引かれる感覚。森の音も、光も、遠ざかっていった。



 *****



 目が覚めると、白い天井があった。ベッドの上。病院だった。


「やっと起きたわね。あんた、2週間も寝てたのよ」

 ベッド脇に立っていたのはユーミナだった。


「……ここは?」

「病院。でもね、余計なことは言わないでよ。言ったら、あんたの弟、殺すから」


 リンジーはその言葉の意味を直ぐには理解できなかった、が──。


「それって……私を突き落としたこと……?」


 ユーミナはリンジーの耳元に顔を寄せて、ささやいた。


「知らなーい。それにしても、しぶといわね、エレナと一緒に死んでくれればよかったのに」


「……エレナ……どこ……」


「死んだのよ。あんたのせいで」

 聞いた瞬間、リンジーは喉の奥から叫んだ。


「嘘よ、そんな……いや、いやああ!」


 騒ぎを聞きつけて医師が駆けつける。

「先生、意識が戻って罪悪感で混乱してるみたいなんです!助けてあげてください!」


 そう叫ぶユーミナの声は、心配そうに震えていた。でもその顔には、どこか嬉しそうな影があった。


 鎮静薬を打たれて、リンジーの意識はまた闇に沈んでいった。


 ***


(エレナは死んだ。私のせいで……白鹿なんか、見なければよかった)


 足にひどい怪我を負ったリンジーは、一生杖が手放せない体になった。

 井戸は予想以上に深く、そしてその底からは行方不明だった商人の白骨遺体も見つかった。


 他殺だった。井戸は犯人によって巧妙に隠されていた。

 ――そして、エレナはそれに気づかず、落ちた。



 ユーミナは、まるで日課のように病室へ顔を出してきた。看護を名目にしていたが、リンジーにはそれがどんな意味を持つのか、痛いほどわかっていた。


 弟のトーマスが、ユーミナの手の内にある。だから何も言えなかった。


「トーマスは元気なの? 雑に扱ってないでしょうね」



 ユーミナは、ベッドの足元に手を置きながら口角をゆがめた。


「ええ、大切にしてるわよ。ねぇ、考えてみて? 犯罪者の弟なんて、堂々と外を歩けるわけないじゃない」


「犯罪者……って、私が?」


「そうよ。あんたのせいで危なかったんだから。パパが警備団長の職を失いかけたのよ。うちが路頭に迷うとこだったんだから、感謝してほしいくらい」


「でも、それって……ユーミナが……」


「うるさい。全部、あんたのせいなの。エレナが死んだのも、男爵家が怒ってるのも。だからパパと一緒に、頭を下げて、謝ってあげたの。あんたの代わりにね」


「……そう、私は罰を受けるべきなのね」


「そうよ。じゃあ、男爵家の人が来ても、変なこと言わないでよ。少しでも喋ったら、次は弟の番よ」


(……この子は、本当に私を殺そうとした。なら、トーマスも……)


「わかってる」

 従うほかに選択はない。


 病室の窓から見える空は、少しずつ秋色に近づいていた。けれど、リンジーの周りには誰も訪れない。叔父夫婦も、友人も、そして──エレナの兄、アイザックさえも。


(きっと、私を……許せないのね)


 それでも今、リンジーの心を占めているのは、ただ弟のことだった。


 しばらくして、男爵家の使いという男性たちが、病室に現れた。年配の男が一人、何枚かの紙束を持ち、周囲に若い者たちが立っている。


「リンジー嬢、事故の経緯を確認させていただきたい」


「記憶があやふやでして。代わりに私が——」


 そう言って前に出ようとしたユーミナを、男は軽く手で制した。


「君の話はもう聞いている。リンジー嬢本人の口から聞きたい」


 ユーミナは一歩下がったが、その瞳は鋭くリンジーを睨んでいた。


 最初に彼らは、ユーミナの証言を読み上げた。だがそれは、まるで裏返された物語だった。すべての行動が入れ替わっていたのだ。


「ユーミナ嬢が白鹿を見たと話したら、君が無理に“自分も見たい”と駄々をこねて、エレナお嬢様を森へ連れ出したのだね?」


「それは……違っ、いえ、わかりません……」


「私は止めたのよ。でも、押しのけられて足を挫いて……それでも、あの子たちを追いかけようとしたの。けど、ダメだったのよ」


 リンジーは唇を噛んだ。心の奥で、「今、すべてを話してしまおうか」という声が騒ぎ立てた。でも、もしそれでトーマスに何かあったら——。


 それに、男たちの中のひとりが、言ったのだ。


「白鹿は純粋な乙女にしか見えん。君なんかに見えるはずがない!」


 まるで全てを否定されたような言葉。ユーミナは、その“純粋な乙女”と信じられていた。


「申し訳ありません……」


 リンジーは俯いた。どんな反論も、届かないとわかっていたから。


 だけど、話を聞いている中で、引っかかった言葉があった。


「……日没まで?」


「そうだ。森の中を日暮れまで捜索した。まさか井戸に落ちていたなんてな。発見が遅れたんだよ」


「遅れて……?」


「エレナお嬢様は、すでに息絶えていた。だが、忌々しいことに、君はまだ生きていた」


 リンジーは身体を震わせた。


「ユーミナ……なぜ……?」


「だって 私、足を挫いてたし。すぐに屋敷に知らせた方がいいと思ったの。ちゃんと後悔してるわよ?」


「嘘……。あなた、助けようとすらしなかった。エレナは、生きてたのよ! まだ生きてたのに……!」


「黙れ! 殺したのはお前だ! なぜ、井戸に落ちた? 答えろ!」


 リンジーは、もう何も言えなかった。


(誰も信じてくれない)


「……お、おぼえて……いません……うっ……」


 涙とともに崩れ落ちるようにして、彼女は沈黙した。


 男たちは、疲れたような顔で部屋をあとにした。その直後、ユーミナが顔を寄せる。


「次、何か余計なこと言ったら、弟は終わりよ。わかってるわよね?」


 細い指が、リンジーの髪を引きちぎるほどにつかんでいた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ようやく退院できた頃には、初冬の風が街を白く縁取っていた。

 叔父夫妻は見舞いこそ来なかったが、情けなのか義務なのか、病院代は出してくれた。


 叔父の家に戻った瞬間、弟のトーマスが彼女にしがみついて泣いた。頬はこけ、瞳の下に影ができている。


「外に出してもらえなかったんだ。ずっと家の中……会えなくてごめん。僕は姉さんを信じてるよ」


「辛い思いさせてごめんね」


 二人のやりとりを、叔母は冷たい目で見下ろしていた。


「だから引き取るの反対だったのよ。荷物まとめて、二人ともさっさと出て行きなさい」


 男爵家からの処分は、領地追放だった。

 そのうえ隣の伯爵領の教会で3年間無償の奉仕活動をする事も付け加えられた。


「いや、トーマスは残れ。3年経てばリンジーに迎えに来てもらえ」


 叔父の言葉に叔母は露骨に嫌な顔をした。


「まとめて追い出した方が楽でしょう」


「黙れ。兄貴の子だ。トーマスは預かる」


「……叔父様、トーマスを、お願いします」


「お前は強い子だ、リンジー。どこに行っても生きていける。だが……ユーミナには無理だ。わかるな?」


 そのひと言で、すべてを察した。

 叔父も真実に気づいている。そして、トーマスは“口を塞ぐための人質”だということも。


 三年──長いけれど、弟の命には影響しない。奉仕を終えたら、リンジーは必ず心臓の手術を受けさせると決めた。たとえ、自分の身を売ってでも。


 ***


 領地を出る前に、エレナの墓へ別れを言いに行った。杖をついて街に出ると、石が何度も飛んできた。人々の視線は氷のように冷たい。


(エレナを死なせた罰……)


 花を買おうと入った花屋では、突き飛ばされ、地面に崩れた。


「お前に売る花なんてないんだよ!」


 起き上がると、黙って墓地へ向かった。

 エレナの墓には、綺麗な花がたくさん供えられていた。


「……ごめんね、エレナ。花がなくて、ごめんなさい」


 そう呟いた瞬間、背後から聞きなれた声が落ちてきた。


「……何をしてるんだ」


 振り返ると、アイザックが立っていた。

 優しかった面影は消え、残っているのは怒りだけ。隣には、花を抱えたユーミナがいた。


「記憶喪失? 都合がいいな。君のせいで、エレナは死んだ。僕は、君を許せない」


「帰りなさいよ。アイザック様はもう、リンジーの顔なんて見たくもないって」


 勝ち誇ったように口元をゆがめたユーミナ。


 ──この子だけは、絶対に許せない。



 黙って一礼し、足を引きずりながら出口へ向かう。ふと振り返ると、祈るアイザックの肩にそっと手を添えるユーミナがいた。


(きっと、エレナを(いた)むふりをして、あの人の心を手に入れたんだ)


「……あなたにだけは、信じて欲しかった。さようなら、アイザック様」


 リンジーの中で、彼への想いが雪のように溶けていった。


 ***


 追放の日。トーマスと別れを惜しんでいると、迎えの馬車が来た。リンジーは目を見開く。

 それは教会のものではなく、隣の伯爵家の紋章を掲げた馬車だった。


「姉さん……」


「大丈夫。必ず手紙を書くから」


 そう言って馬車に乗り込んだ彼女を待っていたのは、思いがけない人物だった。


 柔らかな金髪を持つ伯爵家の令息──ヨハン。


「ヨハン様……なぜ……」


「そう驚くな。お前は伯爵家へ行くんだ。兄上が教会とは話をつけてある。男爵家が睨んでいたから、見舞いにも行けなかったんだ」


 馬車が動き出す。ヨハンはそっと尋ねた。


「怪我、大丈夫か? 辛かっただろう」


 その優しさに、リンジーの目から涙がこぼれた。

 ハンカチを差し出しながら、ヨハンは真剣な目を向けてきた。


「記憶がないって聞いた。でも、兄上、レイナードは本当のことを知りたがってる。俺も、だ」


「……そうですか」


「それから……アイザックがユーミナと婚約したらしいな」


「ええ。幸せになればいいと思います……あ、ハンカチを汚してしまいました」


「それは君にやるよ。エレナは君のこと、大好きだった。アイザックと結ばれて欲しいって、本気で願ってたんだ」


「……でも私は、彼女を守れませんでした」


「リンジー、いいか。兄上は……怖い人だ。嘘だけは、やめてくれ」


 レイナードの姿を思い浮かべると、リンジーの背筋に冷たいものが走った。

 金髪を短く刈り上げた、威厳ある瞳──エレナがなぜあの人に惹かれたのか、リンジーには、まだわからなかった。


 そして今、その人に、自分の“真実”を話さねばならない。

 膝が、ふるえていた。



 伯爵家に着くと、リンジーは客間に通され、簡単な食事が用意された。ヨハンはずっと側を離れない。


「この足では逃げませんよ」


「そういう意味じゃないさ。でも、逃げても俺が連れ戻すだけだよ」


「ご親切に、ありがとうございます」


「いや、えっと……祖母が使っていた車椅子がある。使う?」


「いえ、歩けますから」


 和やかに話していると、扉がノックされ、レイナードが現れた。


「兄上、俺が案内を──」


「ここでいい」


 低い声でそう言うと、レイナードはリンジーの正面に腰を下ろし、腕を組んだ。


「早速だが、エレナは私のことをどう言っていた?」


 突然の問いにリンジーは一瞬戸惑った。だが、その瞳に浮かぶ痛みは紛れもなく愛する人を失った男のものだった。


「とてもお慕いしていました。愛を打ち明けてほしいと……あの日も仰っていました」


 レイナードは伏し目がちに口を開く。


「十年以上前、幼い彼女に求婚されてな……『良いよ』と言ってやればよかった。こんな形で別れが来るとは思わなかった」


 彼の姿に、リンジーはエレナが本当に愛されていたのだと知った。


「エレナを失って、ようやく自分の気持ちに気づくとは……私は愚かだ」


「……申し訳ありません」


「謝罪はいらない。私が知りたいのは、真実だ」


 その眼差しが一変し、リンジーは体をこわばらせた。


(本当のことを話せば弟は守られる? それとも……私たちを断罪する?)


「リンジー、無理のない範囲で話してごらん。責めはしないから」


 ヨハンの穏やかな声に、リンジーは小さくうなずいた。


「私は……」


 すると、レイナードがふいに話題を変えた。


「白鹿の伝説を知っているか?」


「はい……有名なので」


「白鹿の姿はどうだ?」


「あ……大きくて、角は体ほどの大きさで、光を纏っています」


「そうだ。だがユーミナは『普通の白い鹿だった』と言った」


「……!」


 リンジーははっとする。あのとき自分が適当に話したことを、ユーミナがそのまま信じてしまったのだ。


「白鹿はこの数十年、誰にも目撃されていない。噂は様々だが、最後に見たのはおそらく我々の祖母。その話と、君の描写は一致する」


「……!」


「つまり、君が見たんだ。白鹿を」


(もう、逃げられない……)


 リンジーは膝をついて懇願した。


「弟だけは……弟だけは助けてください! 真実はお話します!」


「やめろ。座って話せ。本題はここからだ」


 顔を上げると、ヨハンが優しく手を差し伸べた。


「ほら、立って。大丈夫、俺たちは敵じゃない」


 温かな手に支えられ、リンジーは立ち上がった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 その昔、兄弟の祖母は白鹿を見たという。

 伝説では、白鹿を見た者には幸福が訪れると言われていた。


 祖母は、それを信じて、心から喜んだ。

 そのとき祖母には愛する婚約者がいたから、きっと二人で幸福になると信じた。


 でも、愛する人は──ある日突然、いなくなった。不慮の事故だったらしい。


 幸福の象徴だなんて、嘘だった。

 白鹿は、不幸を呼び込む悪魔だ、祖母はそう言って、何度も泣いて、何度も白鹿を呪った。


 ……それから、1年経って。


 奇跡は、もう一度訪れた。


 祖母は、再び白鹿に出会った。


 そのとき彼女は泣きながら叫んだ。


「お前が本当に幸福の象徴なら、婚約者を私のところに戻して!」


 *


「それで……戻ってきたんですか? 婚約者が?」


 リンジーが震える声で問う。

 信じたいけれど、信じられないような顔で。


「どうだろうな。祖母のまわりも、私も……誰も信じてはいなかったんだ」

 レイナードの声は、あくまでも穏やかで、でも奥に何かを押し殺すような冷たさがあった。


「でも、奇跡の代償に祖母は右目の視力を失ったと言った」


 リンジーの瞳が強くなる。

 まるで、心の奥のスイッチが入ったみたいに。


「構いません。私は……エレナに、もう一度会いたいです!」


 その瞬間、ヨハンが「ちょっ!」と慌てて立ち上がった。


「リンジー……お前、足も不自由だろ? それに視力まで失って……生活できるわけが──」


「ヨハン、心配するな」

 レイナードが間に入るように言った。

「協力してくれるなら、私がこの姉弟を一生面倒見ると誓おう」


 ヨハンの視線が、床とリンジーの間を何度も行き来する。


「それでも……」


「いいんです。私、何だってします。弟を守れて、エレナが戻ってくるなら」

(奇跡が、起きるなら……エレナに、戻ってきてほしい)


 リンジーの言葉は、まっすぐで、ヨハンはもう何も言えなかった。


「ユーミナは……エレナの苦しみ以上の苦痛を味わうべきだ」

 レイナードは、低く静かにそう言った。


 リンジーはうつむいたまま、指をぎゅっと握りしめていた。

「信じてもらえますか?」

 祈るような声。


「もちろん。最初から、僕は君を信じてる」

 ヨハンの言葉に、リンジーの緊張はとけていった。


「兄上、これから、どうするんですか?」

「湖畔の別荘へ向かおう。彼女が白鹿に再会できなければ、何も始まらないからな」


「でも、今は立入禁止じゃ……」

「愛する娘が亡くなった森で、狩りなんてできるか。あの土地は、私が買い取ってやるさ」


 準備が整い次第、出立すると告げられて、リンジーはその時を待った。


(エレナ、きっと貴方を取り戻す。たとえ、この命に代えても)


 *


 そうして十日後、兄弟に連れられてリンジーは再びあの湖畔の別荘に戻ってきたのだった。


 *


 ユーミナは、怒っていた。


(あともう少しで、全部思い通りだったのに)


 愛する婚約者、安定した地位、穏やかな未来──

 けれどそれを脅かす“余計な存在”が現れた。


「信用できるのですか?」


 アイザックの肩にもたれかかりながら、甘えるように尋ねる。

 けれどその裏で、目の奥は暗く淀んでいた。


「有名なシャーマンだそうだよ。僕も、エレナの最後の気持ちを聞いてみたい」


(ふざけないでよ……)


 エレナが死んだ森の井戸。

 そこに霊媒師なんて連れて行かれて、もしエレナが何かを伝えたら──


(もしもアイザックが、私を疑ったら)


「私も一緒に別荘へ連れて行ってくれますよね?」


「もちろんだよ。一緒に、エレナの想いを見届けよう」


(……見届けるのは、私の勝利だけよ)


 何も知らないアイザックとユーミナは、レイナード達から2日遅れて湖畔の別荘に向かったのだった。 


 *


「君は今日から、“ミスティー”だ」


 黒いローブ。黒髪の染料。仮面。ベール。

 誰だかわからないように、全てを偽って、リンジーは“シャーマン”になった。


「声は出さない。車椅子はヨハンが押す。死者の声は、紙に書いて伝える。いいな?」


 リンジーは黙って頷いた。


(私は、真実を書く。ユーミナの嘘を暴く。……エレナが、そう望んでいるはずだから)



 散歩に出ると、空は気持ちの良い晴れだった。

 風が草を揺らして、湖面が穏やかに光を反射していた。


「祖母が白鹿に再会したのは、一年後だったよな」


「そうでしたね……」


 思わず声が出てしまって、リンジーは両手で口を塞いだ。


「今だけは、いいさ」

 ヨハンが笑う。「兄上は白鹿に会えるまで、君をここに置くつもりだよ」


「……弟の面倒を見てくれるなら、私は何年でもここにいます」

 小さな声で答えるリンジー。


「本当に……白鹿が、蘇らせてくれるのかな」

 ヨハンがつぶやく。


「わかりません。でも……可能性があるなら、私は諦めない。だって、エレナに……もう一度、幸せになってほしいから」


「君も、幸せになってほしいよ。……今でも、アイザックのこと、好き?」


 リンジーは首を横に振った。


「……そうか」


 リンジーの背後でヨハンはそっと微笑んだ。

 今はその想いを告げる時ではない、まだ今は……と。



「……来たぞ、あの二人が」


 リンジーは仮面を直した。


「今から、私は“ミスティー”。指示通りやってみせます」


 風が止まった。

 その一瞬、空気が変わった気がした。

 何かが始まるような、あるいは、何かが終わるような。



 ──もしも、奇跡があるのなら。

 それが、誰かの幸せにつながるのなら。

 この嘘は、きっと、赦される。リンジーはそう信じた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 空気のひりつく別荘の庭で、ヨハンを見つけたアイザックが、嬉しそうに手を振って駆け寄ってきた。


「ヨハン! 貴方がミスティーさんだね。僕はエレナの兄で、アイザック。よろしく。で、こちらの女性は……」


 紹介の途中で、ミスティーがふいに片手を上げて、ユーミナを指差した。会話が消え、異様な静けさがその場を包む。


「な……なによ?」

 ユーミナがアイザックの腕にしがみついた。


 ヨハンが、少し肩をすくめながら言う。


「ミスティーは、声が出ないんだ。詳しい話は中で。兄上が待ってる」


 車椅子を押すヨハンの後を、アイザックとユーミナは、無言のままついていった。



 ***


 サロンでは、レイナードが肘掛け椅子に背を預け、難しい顔で待っていた。


 アイザックはこの男が苦手だった。何を考えているのか分からない顔、冷徹な目。妹がこんな男を好きだったなんて、本気で理解できなかった。


「アイザック。来てくれてよかった」


 レイナードが、まるでこの家の主のように堂々と言う。まだこの別荘は男爵家の所有物だというのに。


 アイザックは内心で眉をひそめる。



「昨夜、この屋敷でミスティーに……エレナの降霊術をしてもらったんだ」


 嘘だった。でも、レイナードの声に嘘を感じる隙間なんてなかった。


「信憑性は……あるのですか?」


「彼女は声が出せない。その代わり、エレナの言葉を紙に書いてもらった」


 レイナードが差し出したその紙を見て、ユーミナの顔から色が消えた。


 そこにあったのは──


【ユーミナは嘘吐き。みんな騙されている】


「こ、こんなの嘘よ! インチキに決まってる!」


「まだある」


 レイナードが、次の紙を出す。


【私はもっと生きたかった】


 アイザックが、戸惑いの目でユーミナを見る。


「……だって、ミスティーは君の名前を知らないはずじゃ?」


「白鹿の乙女って言ったら、有名なのよ。名前くらい聞いてたに決まってるわ!」


「でも、君に会ったことないはずのミスティーが……さっき、君を指差したよね?」


「シャーマンなんて、うさんくさいじゃない! 睨んでやったから仕返しされたのよ。信じないで!」


 アイザックが言葉に詰まって、首を振った。その様子に、レイナードたちは手応えを感じていた。


 十分だった。不信感は、ちゃんと育った。


 ***


「今夜、井戸で降霊術を行う。準備は進めてある」


 レイナードの一言に、ユーミナは表情をゆがめる。


(まずい……あの女、本物かもしれない。もし、あの日のことがバレたら……!)


 冷たい汗が背を這う。ユーミナは静かにキッチンへ向かい、一本のナイフを隠し持った。


 でも、ミスティーのそばには常にヨハンがいる。彼は、隙を見せない。しかも、レイナードが選んだ護衛や使用人たちは皆、信用の置ける人間ばかりだ。


 井戸では、交霊術に備えて淡々と準備が進んでいる。


 ***


 日が沈み、井戸へ向かったのは、ミスティーとヨハンの二人だった。だが、戻ってきたのはヨハンだけだった。


「一人の方が、集中できるそうです」


「危険はないのか?」とアイザック。


「安全性は、確認済みです」



「……エレナの声が早く聞きたい。真相を、確かめたい」


 レイナードの声にユーミナの焦りは広がっていく。


 そんなとき──チャンスが、来た。


「今後のことで相談がある。長くなるが時間をくれないか」


 レイナードに呼ばれ、アイザックが席を外す。


 ユーミナはすぐさま屋敷を飛び出し、小さなランプと月明かりを頼りに、森の奥の井戸へと走った。



 ***


 森の入り口で車椅子を降り、ヨハンに背負われて井戸まで来た。あのときの感触を思い出すたび、リンジーの頬は熱を帯びる。


 井戸のそばに、小さな炎の揺らめき。ローソクが数本、夜気に揺れていた。


 ここは、呪われた場所だ。


 かつて妻とその弟が商人を突き落とし、殺した井戸。暴力を振るう男への復讐だったと同情も集まったが、罪は罪。重い罰が与えられた。


(ほんとに……呪われてるんだわ)


 ローソクの明かりの中、リンジーは黙って祈る。


(お願い、エレナ。どうか安らかな気持ちで帰ってきて──)


 その祈りを、誰かが遠くから見ていた。



 ***


 ユーミナの息は荒かった。周囲に人影はない。護衛も、使用人も──いない。


(これは、神様がくれたチャンス……)


 ナイフを握る。だが──


(だめ、分厚いコートを着てる……抵抗されてもまずい)


 ナイフを置き、ユーミナは井戸のほうへ静かに歩き出す。


(落とせばいい。突き飛ばして、枯れ葉で埋めて、中にローソクの火を落とせば……)


 リンジーの背中に向かって、思いきり──押した。


 リンジーは片手をついて耐えた。けれどユーミナがもう一度押すと、その体はすっと、井戸の中へと消えていった。


「やったわ……」



 でも、その瞬間だった。


「……見たか、今の。恐ろしい娘だ」


 暗闇の中から、レイナードの声。


 続いてアイザックが現れる。


「リンジー、大丈夫か!」


 ヨハンが駆け寄り、井戸に飛び込む。間もなく、仮面を外したリンジーが現れた。


「リンジー……どういうこと……?」


「井戸はもう、とっくに埋めてあるの。私はクッションの上に落ちただけ」


 レイナードの使用人たちが、滞在中に用意していたのだった。


「騙したのね! アイザック様、私は嵌められたのよ! 酷いわ!」


「酷いのは、君だよ。さっき君は、リンジーを殺そうとした。……もうダメだ、ユーミナ。真実は、全部レイナードから聞いた」


 レイナードが、短く命じた。


「その女を、連れて行け」


「リンジー! 私を助けなさいよ! トーマスがどうなってもいいの⁉」


「……馬鹿な娘だ。もう保護してある」


 護衛がやってきて、暴れるユーミナを三人がかりで連れ去った。


 ***


 アイザックは呆然としていたが、しばらくして、リンジーに深く頭を下げた。


「リンジー……済まなかった。僕は……許してほしい」


 けれどリンジーは、その申し出を拒んだ。


「謝らないで下さい。エレナの死は、私の不注意のせいです。だから……貴方は私を、許さないでください」


 その声は、冬の夜風よりも冷たく、アイザックを絶望させた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 再び、ヨハンの背中に揺られながら、リンジーは森を後にしていた。


「……ナイフを持ってた時は焦ったよ。無事でよかったけどさ」


 そう呟いたヨハンの声には、安堵とほんの少しの怒りが混じっていた。


「ふふっ、でも、レイナード様の見立ては完璧でしたね」


 リンジーは、彼の背に揺られながらくすっと笑う。前方には、肩を落としたアイザックがレイナードに背中を押されながら歩いていた。その姿は、まるで見えない重荷を背負っているように痛々しかった。


(アイザック様……ユーミナのこと、本当に……)


 その背中を見つめながらリンジーは思った。あれほど大切にしていた人の正体を知ったとき、人はどうやって前に進めばいいのだろう。


 そんな彼女の心を見透かしたように、ヨハンがぽつりと尋ねる。


「寒くないか?」


「あ、もう歩けますから……」


 そう言って身じろぎしたその瞬間、ヨハンが立ち止まり、深く息を吸い込んだ。


「いや、まだ降りないでくれ。できることなら──これからの人生も背負わせてほしいんだ」


「えっ……?」


「俺は次男坊だけど、ちゃんと小さな領地ももらえる予定だ。贅沢はできないけど、不自由はさせない。……リンジー、結婚してほしい」


 リンジーの胸はきゅっと締めつけられる。嬉しかった。でも同時に、胸は悲しく痛んだ。


「エレナ……エレナが戻ってきたら……そのときに返事させてください」


「……うん。約束だぞ」


 ヨハンは、リンジーの答えにうなずいた。先の見えない未来。それでも待つという彼の姿に、リンジーは小さな希望を見つけた気がした。


 月の光が湖を照らし出す。事件なんてなかったかのように、穏やかで、幻想的な夜だった。


「明日、風がなければボートに乗ろう」


「……はい」


 リンジーはヨハンの背にそっとしがみついた。この夜を、きっと一生忘れない。そう思ったとき、なぜか――あの日の記憶がよみがえってくる。


「……!」


 彼女は思わず後ろを振り返った。そこに、信じられない光景があった。


「白鹿です! 森の入口に!」


「掴まってろ!」


 ヨハンはリンジーを背負ったまま、森へと駆け出す。白鹿は遠くに、まばゆい光の中でじっと立っていた。


「お願い、エレナを返して! 私、何でも差し出しますから!」


「……っ、見えないけど……頼む! 叶えてくれ、奇跡を!」


 どれだけ走っても、白鹿には近づけなかった。それでもヨハンは、必死に森へと駆け続ける。


 遠くからは、レイナードとアイザックの声も聞こえた。


「頼む……奇跡を起こしてくれ!」


 白鹿の輝きが、少しずつ薄れていく。闇が、ゆっくりとその姿を覆い始める。


「行かないで……!」


 リンジーが手を伸ばした瞬間、すべてが、闇に包まれた――。


 *****



「リンジー……?」


「行かないで……」


 誰かが彼女を揺り起こした。目を開けると、そこは――湖の上。小さなボートの上だった。


「大丈夫? ……泣いてるの?」


「エレナ……?」


 その声に、リンジーの意識が一気に現実に引き戻される。


「寝ぼけてるの? 悲しい夢でも見たのかしら」


 その笑顔。いつもの、変わらないエレナの表情だった。


「エレナ! エレナ……!」


 嬉しさがこみ上げて、思わず立ち上がる。ボートが大きく揺れて、リンジーは「きゃっ」と声を上げたエレナに引き戻されるように座り直した。


 そのとき、岸辺から聞こえてきた。


「そろそろランチにしましょー!」


 ユーミナの声。


(……夢? いいえ、これは……時間が巻き戻った?)


 エレナの表情は自然で、記憶を失っているように見えた。


 岸に上がると、ユーミナはピクニックの支度をしていた。そこに以前のような悪意を感じさせない。我儘に困りながらも、妹のような愛情を抱いていたユーミナ。


「お腹すいたー! 早く食べよっ」

 にこにこ笑うその顔に、リンジーは戸惑う。


 それだけじゃない。足元を見て、リンジーは息をのんだ。


(……麻痺していた足が……)


 ふつうに、立てる。動ける。まるで、最初から傷なんてなかったかのように。


(本当に、戻ってきたんだ……! ああ、白鹿様、ありがとうございます……でもなぜ? 私は代償に、何も失っていない……)


 振り返った森の中に、白鹿の姿はなかった。


 けれど、あの日と同じ陽差しと風が、静かに流れていた。


 そしてその時間のなかで、リンジーは確かに思った。


(エレナを取り戻したんだわ! 今度こそ間違えない)



 だけど——


「日差しが強いわね。ユーミナ、帽子を取ってきてちょうだい」


 エレナが、何気なく空気を変えた。


「どこにあるか分かんないから、リンジー取ってきてよ」

 少し拗ねたような声。


「あなたって子は……仕方ないわ、リンジーお願い」


 エレナの言葉に、リンジーは体の奥で何かがざわつくのを感じた。ここを離れちゃ、いけない気がした。


「いえ、でも……」


「赤い帽子を持ってきてね」


「エレナ……?」


「もぅ、早く行ってきなさいよ。グズなんだから~」

 ユーミナが口を尖らせる。


「クビになりたいの? 早く行きなさい!」


「でも……」


「行かないと後悔するわよ? 弟のためにお金が必要なんじゃないの?」


 エレナらしくない言葉だった。混乱のなかで、リンジーは立ち上がった。足取りはふらついていて、まるで何かに導かれるように、別荘へと向かっていた。


 2階のエレナの部屋で、リンジーは“赤い帽子”を探した。でもすぐに気づいた。そんなもの、あるはずがない。エレナは装身具は黄色か青しか身に着けない。あの、レイナード様の髪と瞳の色だ。


「やっぱり……ないわ」


 窓の外を覗いたとき、リンジーの心臓は跳ねた。エレナとユーミナが、森の方へ向かっていたのだ。


「大変!」


 急いで外に飛び出した。



 森の入り口には、エレナだけがぽつんと立っていた。


「白鹿を見たの。それを聞いたユーミナが、森の奥に走っていったの。止めたのよ? でも、あの子……言うこと聞かないから」


「白鹿……を、見た?」


「ええ、見たのよ」


 エレナは首を傾けて笑った。その笑顔は、リンジーの中の全ての感情をかき乱すほどに美しかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 別荘に戻ると、エレナは使用人に「ユーミナを探して」と命じ、自分は「疲れたわ、少し休みたいの」とだけ言い残して部屋に籠もってしまった。


(……やっぱり、記憶がある?)


 リンジーは胸がざわつくのを抑えながら、廊下でじっと待っていた。やがて、部屋の呼び鈴が鳴り、彼女はそっとドアを開けた。


「ユーミナは見つかった?」


「いいえ、まだです。エレナ……まさか貴女は……」


「賭けだったのよ。私は井戸への場所に誘導しただけ。止めたのに、あの子、勝手に走っていったの」


 その告白に、リンジーは息をのんだ。


「エレナ、やっぱり記憶があるのね」


「ユーミナにはなかったみたいね。リンジーが、時間を巻き戻してくれたんでしょう?」


「最初に願ったのはレイナード様です」


「本当に? ……ぁあ……」


 エレナの瞳に涙が浮かび、そのまま零れていった。透明な粒が頬を伝うたび、リンジーの胸が締めつけられる。


「もう私は、レイナード兄様には相応しくないわ。命を失ったときに、良心も失ってしまったのよ」


「違う、そんなの違うわ、エレナ!」


 思わず抱きしめたエレナの体は震えていた。


「これは私の罪よ。リンジーは関係ないの」


「いいえ、エレナがやらなくても……私がやっていたわ」


 本当は分かっていた。嫌な予感があったのに、席を立ってしまった。その結果、あの子を——ユーミナを——一人、森へ向かわせた。


「私は……また間違えたのね」



「……あの日、ウサギを追いかけていて……突然、足元が崩れたの。私は木の枝や腐葉土と一緒に、井戸の底に落ちた。意識はあった。枝がお腹に刺さって、血が……流れて……。ああ、死ぬんだなって、思った」


「エレナを優先すべきだったのに……ごめんなさい」


「絶望の中で、リンジーの声が聞こえて、……もしかしたら助かるかも、って。でも、貴女は私の上に落ちてきた」


「ぁあ……ごめんなさい」


「最後に見たのは、ユーミナの顔。井戸の上から私たちを覗き込んでいた。笑って……去っていったわ」


「ユーミナは異常なの。人の命を……何とも思っていない」


「私、あの子に……同じ目に遭わせてやりたかった。だから……白鹿を見たって、嘘をついたの」


 今ごろ、ユーミナは井戸の底にいるのだろうか。あの闇の中で、生きているのか。助けを呼んでいるのか——。


 二人の体は震えていた。恐怖と、罪悪感と、後悔が、彼女たちの心を容赦なくかき乱していた。



 さらに一時間が経った頃だった。


 ノックもせず、アイザックが部屋へ飛び込んできた。


「エレナ!」


 その声には、抑えきれない感情がにじんでいた。彼は妹をぎゅっと抱きしめる。


「……お兄様も、記憶があるのね」


「ああ。……こんな記憶、ない方がよかった」


 アイザックの視線がリンジーに向けられる。悲痛な眼差しを、リンジーは直視できなかった。


「ユーミナが……井戸に落ちたと思うの」


「そうか。僕が見てくる。お前たちは、何も心配するな」


 それだけを告げると、アイザックは強い足取りで部屋を出て行った。理由を問うこともなく、ただ背中で答えるように。


 二人は無言でその背を見送った。


 後悔なんて——ない。はずだった。


 でも今、リンジーは(……どうか、ユーミナが無事でいますように)

 祈るような思いで、窓の外、遠い森を見つめていた。



 夕日が森の端を朱く染め、空の青がゆっくりと沈み始めた頃になっても、アイザックは戻ってこなかった。


「ユーミナを助け出しているのかしら」


 エレナがぽつりとつぶやく。


「私のときは……救出はとても大変だったって、聞きました」


 リンジーは少し俯いて、そう言った。


 そしてやがて、森の方角から、使用人たちを連れたアイザックがようやく姿を現した。全員が疲労困憊で汚れていた。


「暗くなった。今日はここまでだ。明日はもっと奥まで入る。準備を整えてな」


「アイザック様、ユーミナは……?」


「井戸には、いなかったよ」


 それを聞いた途端、エレナの体が崩れるように膝をつき、静かな嗚咽が部屋に染み込んだ。


「……方向感覚を失って、迷子になったのかもしれん。もしかしたらクマに――」


「夜は冷えます。ユーミナは……一晩越せるでしょうか」


「さあな。自業自得だ。僕達にはどうしようもない」


 残酷にも聞こえるその言葉に、リンジーもエレナも反論しなかった。少なくとも、井戸には落ちなかった。その一点だけが、わずかに心を軽くさせた。


 その夜、二人は眠らなかった。夜通し、語り合った。


 レイナードが起こした奇跡のこと。ユーミナの悪事。そして、記憶を持っているのはきっと――白鹿に願った四人だけなのだろうという、仮説。


「ありがとう、リンジー。あなたも、辛かったわよね。……ユーミナのこと、まだ許せないけど……でも今は、生きていてほしいって思うの」


「……はい」



 夜明けが薄ぼんやりと空ににじんだ頃、ユーミナの父――警備団長が数名の団員を引き連れて別荘に現れた。開口一番、怒りが爆ぜた。


「どういうことだ! 行方不明だなんて、お前がついていながら!」


 リンジーは咄嗟に言葉を探したが、それより早く、エレナが立ち上がった。


「リンジーは、私の用事で部屋に戻っていただけ。ユーミナは私の制止も聞かず、勝手に森へ走っていったの。文句があるなら私に言いなさい」


 その強い声音に、叔父は口を閉ざした。


「お願い、叔父様。ユーミナを早く見つけてあげて」


「……ああ、分かってる!」


 アイザックの案内で、捜索隊が再び森へ入っていくのをリンジーは見送った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 そのあと直ぐにレイナードとヨハンが到着した。レイナードの右目には、白い包帯が巻かれていた。


「エレナ!」


 レイナードが彼女を力強く抱きしめ、額にも頬にも、何度もキスを落とした。エレナの頬が見る見るうちに紅く染まる。


「お兄様……その目は……?」


「大切なものと、交換したんだ」


 ヨハンがそっと、リンジーの耳元でささやいた。


「白鹿様に、眼球ごと持ってかれたんだ」


「どうして……」


「兄上が言い出したから。……責任は兄上にあるんだろう」


 リンジーは胸がきゅうっと縮こまるような感覚に襲われた。彼は、誰よりも深くエレナを想っていたのだ。


「私は……私は何も、失ってないのに……」


「いいや、前回君は多くを失った。エレナ、恋人、足の自由、尊厳……もう十分に。それより、リンジー、約束を守ってくれるよね?」


 ヨハンが、今度はリンジーの額に優しくキスをして、抱きしめた。


「まあ、まあ。いつの間に私のリンジーをヨハン様に奪われてしまったのかしら」


 冗談めかしてエレナが言うとリンジーは真っ赤になり、ヨハンが肩をすくめる。


「いいだろ? 君は兄上と結婚するんだから、リンジーはエレナの義妹になるんだし。な、兄上?」


「えっ……け、け、結婚……?」


 頬を染めてうろたえるエレナに、レイナードが薄く笑って聞いた。


「私では、不満かな?」


「い、いえ……夢みたいです……」


 レイナードは再び、彼女を抱きしめた。だけど、すぐに身体を離した。


「名残惜しいが、ユーミナを探さなければ」


 そう言って、ヨハンと護衛を連れて森へ向かっていった。




 残されたエレナが、ぽつりとつぶやいた。


「私、幸せになっても……いいのかしら。あの子を……陥れたのに」


「幸せになってください。ユーミナは、自分の欲に従って森に入っただけ。罰が当たったんです」


 リンジーの心は冷えていた。井戸には落ちなかった。あの子は、自分の足で森の奥へ奥へと白鹿を求めて走って行ったのだ。


「……エレナを見殺しにした罰。私は、許さない」


 二度もユーミナに殺されかけたリンジーの本心は、決して揺らがなかった。彼女が失ったのは、妹のように想っていたユーミナへの愛情。


(本当は、私が罰すべきだった。でも……命を失ったエレナのほうが、深く、覚悟を持っていたんだ。でももしユーミナが無事に発見されたら……)


 リンジーは、震える自分の手を見つめた。


 ***


 ──結局、ユーミナは見つからなかった。


 捜索は何日も続けられた。人員を増やし、範囲を広げ、それでも――彼女の痕跡は一つとして見つからなかった。


 誘拐説、獣害説、そして、白鹿に魅入られて"花嫁"になったのではという、根拠のない噂まで。


 だが、広大な森には限界がある。やがて捜索は打ち切られ、ユーミナの父だけが、時間を見つけては一人で森へ入っていった。


 リンジーの中に残ったのは、安堵と、わずかな罪悪感。エレナもきっと、同じだった。だからこそ、二人はお互いの手をしっかりと握り、前を向こうとしていた。


 ***


 エレナとレイナードは、婚約を果たした。結婚式は春に予定されている。

 不愛想だが意思の強いレイナードは、一生かけてエレナの心を守るだろう。彼女を信じて、ただ真っ直ぐに。


 リンジーと弟のトーマスは、今では伯爵家に迎えられている。心臓の手術は無事に成功し、トーマスは以前よりも明るく、元気に笑えるようになっていた。


 ヨハンの求婚を受けて、リンジーは現在「花嫁修業中」だ。

 平民の彼女を迎えることに伯爵家は少しも躊躇せず、むしろあたたかく受け入れてくれた。


 伯爵家の次男と結婚する──その立場は決して軽くない。それでもリンジーはヨハンを想い、どんな厳しい修行にも真剣に向き合っていた。


「無理はしなくていいからね」

 ヨハンは心配そうに、一日に何度も様子を見に来る。


 目を細めて答えるリンジー。

「ありがとう。大丈夫ですよ」


 将来は、優しいヨハンとともに、小さな領地を治めるのだ。

 まだ何もかもが未完成で、頼りないかもしれない――それでも、リンジーの夢は少しずつ、確かに広がっていく。


 *****


 アイザックは、エレナと、かつて心を寄せたリンジーの幸福を、誰よりも心から祝福した。


 かつて「呪いの井戸」と呼んだあの場所には、今では何も残っていない。

 きれいに埋められて、まるで最初から存在しなかったかのように。


 その跡地に、アイザックは今年も花束を供えた──彼女が好きだったピンクの薔薇の花束。


 ……あの日、確かにユーミナは井戸の底にいた。

 何度も呼びかけたが、返事はなく、もう冷たくなっていると思われた。


 アイザックは――誰にも気づかれないように、枯れ枝を集めて井戸に蓋をした。

 その上に土や枯れ葉を敷いてユーミナの姿を覆い隠した。


 目の前の現実を「なかったこと」にするために。

 それが正しいかどうかも考えられないほどに、ただ必死だった。


 そして日が暮れる頃、ようやく人影が近づいたのを見て「こちらにはいなかった」と告げた。

 その夜、一人で再び戻り、夜明けまで井戸の形跡を消し続けた。


 ユーミナが、誰にも見つからないように。


 ――この罪を、エレナにもリンジーにも背負わせるわけにはいかない。


「ユーミナ……悪いのは、僕だ。恨むなら、僕だけを恨んでくれ」


 後から井戸の様子を見に来たレイナードとヨハンは、すべてを理解した。

 何も語らず、ただ「ご苦労だった」と一言だけ。

 それが、彼らなりの決着のつけ方だったのだろう。誰もユーミナを赦してはいなかった。


 *

 年に一度、アイザックは井戸跡に花を供え続けた。命尽きるその時まで。

 彼の死後は孫が森での狩りを再開しようとしたが――すぐに噂が立った。


「少女の霊が彷徨っている」と。


 それを聞いた人々は次第に森を避けるようになり、やがて別荘も使われなくなった。

 建物は静かに朽ち、誰も訪れぬまま、白鹿の森は再び沈黙に包まれた。


 その静けさの中に、ここを訪れた過去の者達の想いは確かに残っていた。


 だがその想いもいつしか雲のように消えてゆき、今日も白鹿の森には、変わらぬ時だけが流れていく。




最後まで読んでいただいて有難うございました。



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ユーミナが邪悪過ぎてもう…… アイザック良くあんなのに惚れたな
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