AI人格スコアから逃げた俺が、自由の果てで見つけたもの
── 第一節「スコア配布日」
22歳の朝は、曇っていた。
この街は、いつもこの季節になると空が白む。雨が降るわけでもなく、晴れるわけでもない。決定されない空。それは、今の自分の気分に似ていた。
橘レンは目を覚ますと、何の気負いもなく、いつものように歯を磨き、トーストを焼いた。今日が「スコア配布日」だということは、もちろん忘れていなかった。忘れるはずがない。中学生の頃から、この日は制度として決まっていた。
22歳になったすべての国民は、自分の過去22年間の行動・感情・発言・購買記録・検索履歴までもとに、AIから「人格スコア」が提示される。そしてその中から、自分の“人格”を一つ選ばなければならない。
「どのAIのスコアを選択するか」
それはつまり、「どんな自分で生きていくか」を決めることだった。
午前十時。
定刻になると、自宅の端末が淡く点灯した。
「橘レン様。あなたの人格スコアが届いています。ご確認のうえ、24時間以内に選択を完了させてください」
淡々とした声。優しさも威圧もない。その分、抗えない冷たさがあった。
ディスプレイに映し出されたのは、4つのスコアだった。
A-AI評価|共感型(Caregiver)
共感性:96
感受性:88
誠実性:91
→ 総合評価:優
B-AI評価|戦略型(Thinker)
論理性:87
決断力:90
安定性:74
→ 総合評価:良
C-AI評価|従属型(Follower)
忠誠度:42
規律性:58
保守傾向:39
→ 総合評価:低
D-AI評価|創造型(Innovator)
創造力:91
逸脱性:95
社会適応:31
→ 総合評価:中
どれも“それっぽい”。
どれも“違う気がする”。
レンはしばらく画面を見つめた。
高校時代、誰かを慰めたことがある。就活では、緻密に準備した。規則を破ったこともある。夜中に衝動的な投稿をした日もあった。
自分という人間は、これらのどれでもあって、どれでもない。
「……選ぶの、俺か」
呟いた声は、曇り空に溶けていった。
【スコアを選択してください】
【注意:未選択の場合、社会的サービスの一部が制限されます】
選べ。
自分が、どんな“人間であるか”。
レンは、画面に手を伸ばした。
そして、ためらいもなく――
“選ばない”
を押した。
【確認:選択を放棄すると、スコア未登録者となります。よろしいですか?】
「うん、それでいい」
小さく、はっきりと答えた。
その瞬間、画面は静かにブラックアウトした。
窓の外の空は、まだ曇っていた。
── 第二節「スコアの外側で生きる」
スコアを選ばなかった次の日、世界は少しだけ冷たくなっていた。
変わらないものもあった。朝は来るし、空は晴れていた。けれど、なにかが違っていた。
まず、駅の改札を通れなかった。
スコア未登録者は公共交通機関を“信用不能”とみなされる。駅員に事情を話すと、「ああ……未登録の方ですか」と、ひとつ頷いてから端末を差し出された。
「この路線、現金非対応です。徒歩か、登録を」
俺は黙って引き返した。
コンビニでも同じだった。
スコアで個人識別をして、自動的に決済・年齢確認が行われる仕組み。未登録者は、そこで止まる。
「すみません、お客様……」
店員の子が申し訳なさそうに言った。彼女は悪くない。制度が、俺を弾いただけだ。
昼には、大学時代の友人グループのSNSからログインが切られていた。「スコア未登録者の不透明性により、安全のため制限されています」そう書かれた通知が、淡々と表示された。
俺が何かをしたわけじゃない。
でも、俺は“透明な存在”になっていた。
それでも、俺は後悔していなかった。
選ばないことは、選ぶことよりも孤独で、面倒で、脆い。
けれどそれでも、「自分で決めた」という一点だけが、俺の中に、確かに残っていた。
夕方、古い喫茶店に入った。
そこだけは、スコア端末がなくても入れる場所だった。80年代のジャズが流れ、コーヒーは紙幣で買えた。
マスターに「スコアは?」と聞かれた。
「ないです」と答えると、彼は少しだけ目を細めた。何も言わずに、温かいコーヒーを置いてくれた。
その夜、アパートのポストに、行政からの通知が入っていた。
【通知】
未登録者の住居保証は今月末をもって失効します。
再登録、もしくは自立証明(雇用・資産)を提出してください。
思わず笑いそうになった。
社会は“わかりやすさ”で成り立っている。
スコアというテンプレートが、人と人の間の不確かさを“管理可能なもの”に変えてくれる。
だけど俺は、それを受け入れなかった。
夜の街を歩く。
誰も俺を見ないし、俺も誰にも見られていない気がした。
それでも、確かに息をしていた。
これは、社会の外側で生きるということ。
でも不思議と、それは絶望じゃなかった。
「俺は、俺のままでいるために、“何者でもない”を選んだんだ」
その言葉だけが、胸の奥にぽつんと残っていた。
── 第三節「過去、名前を選べなかった日々」
思い返せば、22年間、俺は何者かになろうとするたびに、自分の“本当”から遠ざかっていた。
小学生の頃、「大人しくていい子だね」と言われていた。
本当は、うるさく騒ぎたい日も、強く言い返したい瞬間もあったのに、飲み込んだ。
「いい子」という名前が、自分の中で勝手に育ちすぎていた。
中学では、勉強ができた。だから、勝手に「努力家」と呼ばれた。
でも、実際は効率のいい方法を探していたし、さぼる方法も常に考えていた。けれど“その期待”を裏切るのが怖くて、演じ続けた。
高校では、恋人ができた。優しい、と言われた。
実際は、優しさなんてわからなかった。ただ、相手の感情に強く影響されるのが怖くて、常に合わせていただけだった。
自分で自分を説明できる言葉が、なかった。
誰かに貼られたラベルのまま、22年を歩いてきた。
だから、スコアを見たとき、わかった。
──ああ、また誰かに俺を決められるところだったんだ。
そう思った。
あの日、初めて自分の“曖昧さ”を受け入れた。
何者かにならずにいることは、弱さじゃない。
まだ言葉にならない自分を、信じることだった。
たとえ、誰にも説明できなくても。
たとえ、社会に居場所がなくても。
「選ばない」とは、「まだ決まっていない自分を捨てない」ことだ。
俺は、それを選んだのだった。
── 第四節「選んだ人間、選ばれなかった記憶」
久しぶりに、彼女の名前を聞いたのは、喫茶店でコーヒーを飲んでいたときだった。
ミサキ。高校のとき、俺の恋人だった人間。
「Aスコアでトップレベルらしいよ。中央省庁に内定だって」
隣の席の会話だった。名前を聞いた瞬間、俺の中に何かが沈んだ。
それから数日後、街のはずれの駅で偶然、彼女に会った。
「……レン?」
驚いた顔をしたあと、ミサキは少しだけ笑った。相変わらず整った表情をしていたけど、どこか削がれたような目をしていた。
「スコア、選ばなかったんでしょ」
「うん」
「知ってた。……あなた、そういう人だよね」
それが褒め言葉なのか、責めなのか、わからなかった。
「ミサキは、Aを?」
「そう。正解だったかどうかは、わからないけど」
彼女は小さく笑った。
「“優しさ”を選んだの。でもね、優しくあろうとするうちに、何が本音かわからなくなった。スコアに恥じないように生きていたら、スコアが私の正体になったの」
風が吹いた。
彼女の髪が揺れて、しばらく沈黙があった。
「あなたが羨ましかったよ、ずっと」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
「でもね、私みたいな人間は、スコアがないと、何者にもなれないの。だから選んだの。選ばなきゃ、自分の声が聴こえなかったから」
彼女は静かに去っていった。
俺は立ち尽くしたまま、風の音を聴いていた。
選んだ人間。
選ばなかった俺。
どちらが幸せかなんて、きっと誰にも決められない。
ただ、一つだけわかっていた。
——俺たちは、今でも探している。スコアの外にある、自分という存在を。
── 第五節「名前のないまま、歩く」
夜の街は静かだった。
街灯の明かりが、濡れたアスファルトを照らしていた。
自動車の音は少なく、人の声も遠い。こういう夜に、俺はよく歩く。
ミサキと別れたあの日から、何日が経ったのか、もう覚えていない。
俺はまだ未登録者のままだ。どこにも属していない。
仕事は、駅から遠い古本屋。
データベースには載らないような、紙の匂いと埃にまみれた店だ。たまに来る客は、みんなどこか“スコアから少しはみ出した人たち”だった。
誰も俺にスコアを訊かない。
俺も誰かの点数を気にしない。
ただ、そこにいる。それだけだった。
店の奥に、壊れかけのラジオがある。
そのラジオから、ある夜こんな声が流れてきた。
「今週、スコア制度の再審議が行われます。人格評価を前提とする社会構造に対し、一部の未登録者の活動が注目を集めているようです」
ふうん、とだけ呟いて、電源を切った。
社会は揺れている。
でも、俺はもう焦らない。
たとえば今、俺にスコアをつけるとしたら、どうなるだろう。
きっとどのAIも困るだろう。評価不能、測定不能。
でもそれでいい。
俺は、誰かに決められた名前ではなく、
自分で自分を名乗れるような人生を、これから少しずつ探していくつもりだ。
名前がなくても、生きていける。
何者でもなくても、歩いていける。
問いは、いつも静かに胸の中にある。
「あなたは、どのスコアを選びますか?」
俺は、答えを持たずに、生きている。