1話
桜の香りが漂う季節。竜笛の音が式の始まりを告げた。日本の神道を裏でまとめる日の宮大社での襲名式。本殿へと歩みを進めるのは、本日、神主を襲名する氷雨尊だった。
「こちらのお席でございます」
「ありがとうございました……!」
本殿の関係者席を一席あけた少女が、小声で、しかし覇気のある声で礼を告げた。彼女は氷雨美子。氷雨尊の妹だ。
慌てた息を落ち着かせ、ゆっくりと足を折り畳んだ。ギリギリ間に合ったと胸を撫でおろすと、本殿に足を踏み入れた兄の姿に視線を移した。
「(兄様は今日もかっこいいなぁ!)」
美子の瞳には憧れと尊敬があった。
文武両道、優しく人望も厚い、それにイケメン。幾多の武道も極めており、美子の目指すべき人の姿でもあるのだ。
ゆったりと、しかし堂々とした佇まいに芯を感じる。そんな彼が、神剣、天羽々斬を手に取ろうとした、その時であった。
一瞬、猛暑のような暑さが場を襲った。それと同時に神社自体が光に包まれる。その光が溶けるようになくなると同時に、何かが墜落したような音が聞こえた。美子は反射的に音の方へ振り返った。
境内の中心部に突如として現れたのは、黒装束の集団だった。般若の面を着けたその集団から、地を這う様な黒い影がくっきりと現れていた。
夏のように、太陽がギラギラと彼らを照らした。
「なっ、何事だっ!?」
来賓席に座っていた一人が声を挙げた。その声の下に黒い影が忍び込む。
「あがっ……!?」
一瞬の出来事であった。
影から飛び出すように黒い腕が現れ、来賓者の喉笛を刀で斬り裂いたのである。
鮮血が床に飛び散り、辺りの人間は悲鳴を挙げた。
「影だ……!」
氷雨尊はそう呟き、腰にある鞘から剣を抜いた。
影とは、日の下に現れる存在で在りながらも日とは対立する物、即ち敵襲である。
「わ、私も……!」
「美子、下がれ!」
兄の言葉で敵が足元に潜んでいる事に気付き、間一髪で攻撃を免れる事が出来た。
血飛沫が舞い、断末魔が轟く中、必死で逃げ惑う人間達を影は容赦なく斬り倒す。
「父様! 母様!」
雑踏の中、美子の両親も刀を振るっていた。
「うわああああ!」
美子は悲鳴が聞こえる方を向いた。右下だった。
尻もちをついた男をめがけて、刃がギラリと煌めいた。
「危ないっ!」
美子は間髪入れずに自身の剣を抜き、上から下へと振りかぶられた刀を受け止める。キィッ、と刃が擦れた音がした。
「今のうちに! 早く!」
「あ、ありがとうお嬢さん……!」
足音が遠ざかっていくのを聞き、再び影と向き合う。
美子が刀を受け止めるだけでも精一杯だ。それに対し、影は苦しそうな素振りを見せるどころか、呼吸一つ乱れていなかった。
「くっ……」
鍔迫り合いの中、ジリジリと力をかけられ、美子の刀は自分自身に近づいてゆく。
「うわぁっ!?」
そして影は、軽々と美子を吹き飛ばした。その勢いは止まることなく続き、美子は青ざめる。このまま壁に当たってしまうと思った、その時であった。
美子が背中で感じたものは、固い壁ではなく、優しく包む人間のぬくもりであった。
「大丈夫か」
そこに居たのは、先ほど美子に襲名式会場まで案内してくれた少女であった。
「あ、ありがとうございます!」
「平気そうだな。なら良かった」
彼女は美子に優しい微笑みを向けると、すぐに影と対峙した。大俱利伽羅の刃が舞う。
「はっ!」
切っ先が影の喉元を捕らえ、綺麗に弧を描く。
「(か、かっこいい……!)」
美子が見とれている間に、巫女装束の少女が次々と境内に現れる。影と戦い、裏でこの国の治安を守る巫女達であった。
「皆さん、こちらに避難してください!」
とても良く通る声の先に居たのは、襲名式が始まる前、受付でお世話になった少女である。美子が招待状を忘れてしまったのを見兼ねて、尊と連絡を取ってくれた少女であった。
「美子さん! こちらです!」
彼女は美子を見つけると、境内の奥を手で指しながら叫んだ。
その声と同時に、美子は兄の方を振り向いた。
彼は天羽々斬を守りながら複数の影と対峙している。
「すみません! 兄様を助けなきゃ!」
「あっ、ちょっと!」
美子は少女の声には振り向かず、兄の元へと向かった。
途中で襲い掛かってくる影を、右へ左へといなし、後ろから兄に襲い掛かる敵に斬り掛かった。グチャ、と気持ち悪い手応えがあった。美子はこの時初めて刀で肉を斬ったのである。だが剣を止めるわけにはいかない。そのまま勢いに任せ、斜めに銅を斬った。全て斬り終えた切っ先を振るい、刀についた血液を払う。美子に斬られた影は何も言わずに煤となって消えた。
「美子!」
「兄様!」
兄が無事な事に安堵した美子は頬を緩めた。
「助かった。ありがとう」
「当然だよ! 私は兄様の妹なんだからっ!」
「はは。頼もしいな」
兄の微笑みに一瞬だけこの地獄が和らいだような気がした。だからこそ美子は気を抜いてしまった。
また猛暑の様な暑さが全身を襲う。視界が一瞬だけ光ると、今度は誰かに押し倒される。
「美子!」
兄の声が聞こえたと同時に、美子は地面に伏した。上には兄が覆い被さる様に彼女を守っていた。
「う……うぐ……」
兄の小さい悲鳴と、滴り落ちる赤い液体に美子は目を見開いた。
「に、兄様! 血が……!」
兄が自分を庇ったのだと気づいた時には、もう遅かった。
「我は禍津日神なり。その剣をわらわに渡しや」
美子と尊の前に現れたのは、妖艶な美女であった。怪しく笑う彼女は人間にはない圧倒的な威厳を感じさせる。
禍津日神と名乗るその女は美子たちを見下す。下界の者を見るような目であった。