5 婚姻の儀
「凛音!」
「……は?」
かくかくしかじかで異世界に喚び出されてしまった自称一般人羽生凛音は困惑していた。
いきなり応接室に飛び込んできたかと思えばぎゅうぎゅうと抱きついてくるヒョロヒョロの軟弱者は昨夜行きがかり上助けることになった『魔族の王子』であるという。
魔族、王子。現代日本において漫画やゲームなどの中でしか存在しないワード。そんなものに関わることになるとは凛音は夢にも思っていなかった。なぜなら凛音は剣道柔道弓道合気道、ありとあらゆる武道の道を究めんがため、日夜稽古に打ち込んでいたのだ。漫画もゲーム詳しくないし、そういったファンタジーの世界など好きでもない。
この世界に来てよかったと思えたのはピンク髪の可愛いメイドさんを拝めたことくらいだ。どうせファンタジーの世界に来るならもっと可愛いものばかりの世界がよかった。
「おはよう凛音!吾輩の妃よ!」
「……はぁ?」
そんな凛音がなぜこんな事態に巻き込まれてしまったのかと言えば、軟弱王子の嫁にと無責任ではた迷惑な宣託とやらのせいで、悪人面の狸爺に召喚されてしまったと言うのだ。
冗談じゃない。自分はまだ十八の高校生だし結婚願望の欠片もない。部活や道場があるため日々忙しく恋愛経験すらないのだ。それなのに結婚?しかもこの軟弱者と?あり得ない!
凛音の眉間にはこれでもかと皺が寄り、抱きついてくる軟弱王子を引っぺがす。
「貴様のような軟弱者の嫁になどならん!ええい離せ!」
「……そっか、そうだよね……やっぱり吾輩みたいなよわい王子じゃすきになってもらえるはずないよね……グス……」
凛音に引っぺがされながら涙目を拭う青年に辟易する。こんな軟弱者は凛音の最も嫌いなタイプだった。
「王子、諦めてはなりませぬぞ。本日中にお妃を娶らなければならぬ掟、忘れたわけではありますまい」
「そうですよ王子!ここは無理やりにでもガバッと婚姻の契りを結んでしまいましょう!」
外野からかけられる老師とその従者のめちゃくちゃな言い様に凛音の怒りが煽られる。
「何をたわけたことを!私は絶対にこのような軟弱者と結婚したりせんぞ!」
「……凛音、こんなに嫌がってるのに結婚なんて無理だよ……」
「王子!最終手段ですじゃ!王子本来のお姿にお戻りなされ!さすればこのようなじゃじゃ馬でもいちころですじゃ!」
「じゃ、じゃじゃ馬だと!?老師殿!先ほどまでの殊勝な態度はどこへいった!?」
今にも老師に掴みかからんまでの勢いに従者たちは焦った。昨夜の凛音を見ているのだ、無理もない。
「王子!早く!早く元のお姿に!」
「で、でもあれじゃまだまだ禍々しさも足りないし……この姿の方がマシなんじゃ……」
「この羽生凛音!見た目に惑わされるほど落ちぶれてないぞ!さっさと元の世界に帰せ!」
「王子早く!」
「ですじゃ!」
「うう……わかったよぉ……」
ぽん!と目の前にいたはずの軟弱王子の姿が消えた。
「な!?消えた!?どこに!?」
「下ですじゃ、リンネ殿」
「うう……やっぱり元の姿じゃ恥ずかしいよぉ……」
凛音の足元から先ほどよりも高い声がした。甘えたような、何やら抗えぬ魅力をもったような。
なんだろう。見てはいけない気がする。見たらもう後戻りできない予感がする。それなのに抗えない。見たい。ゆっくりと視線をおろしてしまう。
落とした視線の先には、この世の『可愛い』を内包したすべての形容詞でも形容しきれないモノが存在していた。もう視線を逸らす事などできなかった。
それはそれはもう、筆舌しがたい可愛さの二歳児くらいの幼児が、涙に濡れたキラキラの黒い瞳で、恥ずかしそうに、申し訳なさそうに見上げていた。
髪は漆黒のふわふわでサラサラな猫っ毛。ついツンツンしたくなるような薔薇色のぷにぷにほっぺ。涙に濡れた少し生意気そうな大きな黒い瞳。これ以上涙が零れぬように我慢していじらしく噛みしめた小さな唇。その全てが可愛いを体現していた。
凛音の心臓がきゅっと音を立て、ドキドキと鼓動が早くなる。顔は紅潮し途方もない感情の渦が押し寄せてきた。
そう、これが。母性本能!庇護欲!誰もが持つ本能!愛さずにはいられない!こんなに可愛い生き物が他にいるだろうか?いやいない!こんなに可愛い幼児、見たことがない!元々子供は大好きだが、こんなにまで母性本能をくすぐられたことは未だかつてなかった。
この幼児に出会えたことに感激し身体が震える。可愛すぎて涙が出そうだ。これが尊いってことか。
「ぼ、坊や……あの、少しでいい……抱っこしても、いいか……?」
凛音はその場にくずれるように座り込み、幼児の腋に遠慮がちにそっと手を差し込んだ。
その微妙な力加減に幼児はビクリと身をよじって屈託ない笑顔を見せる。
「く、くすぐったいよぅ、凛音ぇ……!」
何だこの可愛い生き物は!?こんなものが存在していいのか!?この子の母親がうらやましい!この子を守りたい!!私が!!この命に代えても!!お守りしたい!庇護したい!!
「久々に見てもこの破壊力……凄まじいですじゃ……王子……」
「本当になんとお可愛らしい……!王子にお仕え出来て私は本当にこの上なく幸せです!」
老師と従者がメロメロになっていることなど目にも入らず、凛音はその幼児の瞬き一つ見逃すまいと凝視していた。その成長の瞬間を一瞬たりとも見逃すものかと。わが子を見守る母親のように。
凛音はそっと幼児を抱き上げると、その小さな手がきゅっと凛音の二の腕と胸元を掴んで、その高い体温を預けるように、しっかりと抱きついて落ちないようにその身を預けてくる幼児が愛らしくてたまらない。
「……くっ!坊や……ここで何をしているんだ?名前はなんという?」
まるで迷子の子供にするような質問が口をつく。油断するとこのまま抱いてどこかへ逃げてしまいたくなる。二度と引き離されてはたまらないと。
「え……吾輩は王子である。名前はまだ無い」
「夏目漱石のような答えだな」
まるで吾輩は猫であるの有名な書き出しの一文を思い出させるような答えに思わず笑ってしまう。
この世界にも同じように名作が存在するのだろうか。
「ナツ……?今のが吾輩の名前?」
「ん?私は親から付けられた名前を聞いたのだが」
キラキラと幼児の瞳が輝く。会話は噛み合っていないような気がするけれど、そんなことは重要ではない。可愛いは正義。嬉しそうな幼児を眺められて幸せだ。
「魔族の王子は百の誕生日に妃を娶り婚姻の儀をかわし、妃に名を頂くのが習わし。はて。儂にはうまく聞き取れなかったが王子をなんと名付けられましたのじゃ?」
「……ナツ。吾輩の名前っ……凛音、ありがとう!だいすき!」
きゆうううううううううううん!!!!!
キラキラの笑顔でぎゅっと抱きついてくる幼児に母性本能を最大限まで刺激され、凛音は意識を手放しかけた。やばい!可愛すぎる!
だめだ!ここで意識を失うわけにはいかない!この可愛い生き物の成長の瞬間を一瞬たりとも見逃すことがあってはならない!
ぐ、とみぞおちに力を込め、崩れかけていた姿勢を正す。凛音の腕には今、庇護すべき幼児が抱かれているのだ。気を抜くわけにはいかない!
「凛音……その、吾輩と……」
言い出しづらそうに視線を落とす幼児が愛おしい。この子の為ならどんなことでもしてあげたい。どんなお願いでも自分に出来ることなら叶えてやりたい。
「吾輩の、お嫁さんになってほしい!」
「!!」
恥ずかしそうに頬を赤らめて、少し震えながらもまっすぐに凛音を見つめる瞳は強い意志を持って、それでもどこか不安げで自信がなさそうで。
この子なりに精一杯勇気を出して言ったのだなぁと思えばなんとも微笑ましくて愛おしい。
こんな可愛い生き物が他にいるか!いやいない!何度目かもわからないその自問自答を胸に抱き、凛音はついに涙を流し、微笑みながら幼児を優しく抱きしめた。
「もちろんだ!お前をどこにもやったりしない!私が一生面倒見るぞ!どこの馬の骨とも知れぬ娘の婿になんぞするものか!」
「ほんとに!?うれしい!凛音!絶対しあわせにする!」
「私の方こそ幸せにする!一生守ってやるからな!」
「凛音、だいすきっ!」
にぱっと笑った幼児はちゅ!と凛音の唇に口付ける。またしても意識を失いかけた凛音が丹田に力を込めて何とか耐える光景を見つめながら老師は髭を撫でながら満足そうに微笑んでいた。
婚姻の儀は言霊と接吻を経て無事済んだ。
まるで小さな娘に「おおきくなったらパパと結婚するー!」と言われた時のような気持ちで魔族の王子と正式に婚姻を結んでしまったことは凛音は知る由もない。
王子は魔族ではなくヒトを選ぶのではないかと内心考えていた。しかしいざ召喚してみれば冒険者や勇者でもなく、ましてやこの世界のヒトでもない異世界の女子。まさか王子がそのような女子を妃にするとは予想外だった。
何者かは分からずとも、あの力を持った妃がこの先王子をお守りくださると言うのだ。王都への道中の安全はしばし約束されたようなものだ。
それでも魔王様の御力には及ばないだろう。魔王様を倒し、王子が魔王位を継承なさる可能性は今のままでは無い。
『百度目の生誕の日を迎える前夜、召喚の儀にて舞い降りる女子
これを愛し愛された時、百番目の御子は覚醒の時を迎え、真なる力を手にする事となるであろう』
老師は宣託を外したことはない。百年前の宣託も外れたのではない。老師は信じていた。
王子は歴代最強の魔王となって新たな時代を創る。今ではない未来に、必ず。
凛音がこの婚姻を後悔する日が来るのか来ないのか……それは宣託を外したことのない老師にもわからない。
傍から見たら、若い母と息子にしか見えない事は置いておいて、今はただ、魔王の百番目の王子と異世界から喚び出された娘の成婚を喜ぶことにしよう。
第一部完。現在更新予定はありません。