1 羽生 凛音
『十八歳の女子高生である羽生凛音は昨日までは普通の受験生をしていた。
しかし今日魔族の王子の嫁になった。
一体どういう事だろう?』
ウミガメのスープはご存知だろうか。
ウミガメのスープというのは水平思考パズルの事で、一見理不尽な結末が用意されており、出題者がはい、いいえで答えられる質問を回答者が投げかけ、その質問の回答を手掛かりに真相にたどり着こうという趣旨のゲームだ。
今回の出題者は凛音本人としよう。
あなたは現代日本人ですか?
―はい
実はあなたも魔族ですか?
―いいえ
魔族の王子があなたの世界に来たのですか?
―いいえ
あなたが魔族の世界に行ったのですか?
―はい
流行りの異世界転生ですか?
―いいえ
じゃあ異世界トリップ?
―はい、かな。いまいちよくわからない
そちらの世界で何か特別な力に目覚めたりしましたか?
―いいえ
魔族がいるなら魔法が存在する世界ですか?
―はい
その魔族の王子はチート級に最強だったりしますか?
―いいえ
現代知識でその世界を住みやすくしようとか考えてますか?
―いいえ
元々異世界に興味はありましたか?
―いいえ
元の世界に帰りたいですか?
―はいともいいえとも言える
帰りたいのは今すぐではないということ?
―はい
その世界で何か目的がありますか?
―はい
それは王子に関わる事ですか?
―はい
結婚しなければ目的は叶わないのですか?
―わからない
王子と出会ったのは昨日ですか?
―はい
一目惚れをしましたか?
―いいえ
彼の方は?
―いいえ?そんな事は言われていない
魔族の王子はイケメンですか?
―いいえ
あなたは美少女ですか?
―いいえ
本当に?謙遜じゃなくて?可愛いねとか一度も言われた事ないの?
―はい。一度もない
……なんかごめん。
―気にしていない
二人は両想いで結婚したんですか?
―いいえ
じゃあ無理やりってこと?
―いいえ
偽装結婚とか契約結婚?
―いいえ
あなたは彼を好きですか?
―はい
じゃああなたから結婚を申し込みましたか?
―いいえ
てことは彼の方から?
―はい
彼はあなたが好き?
―はい
でも両想いではないの?
―はい
恋愛感情じゃないってこと?
―はい
でも結婚はOKしたの?
―はい
なんで?
―はいいいえで答えられない
お金目当て?
―いいえ
体目当て?
―いいえ……いや、ある意味はいなのか?
あなたと彼の目的は同じ?
―いいえ
まとめると、あなたは現代日本から異世界に行くことになってそこで魔族の王子と出会った。
そこで特別な能力に目覚めることもなく美少女でもないのに、イケメンでもチートでもない王子に求婚された。
恋愛感情ではないけれど基本的にはお互い好意があって結婚を承諾した。
最終的には元の世界に帰りたいけど、異世界で王子に関連したやりたい事を見つけたので目的を果たしたい。
王子には王子の目的があるらしいが、あなたと王子の目的は異なる。
ここまではあってる?
―はい
何て言うか……魅力に欠けた設定だなぁ。
―?
いや、何でもない。でも一応正解は知りたいからさ。説明してくれないかな?
―あぁ、わかった
ウミガメのスープとして愚問だった。大変申し訳ない。当てられるはずがない。
何せ凛音にも理解できないことが起こったのだから。
時は昨日に遡る。
――日常は突如崩れ去った。
目が覚めた。
物理的に身体が浮き上がるほどのいまだかつて受けたことのない衝撃が凛音を襲ったからだ。
いつも通りに自室で眠っていたはずだった。何が起きた?地震か?
一番はじめに目に入ってきたのは赤紫色だった。キラキラと何かが鏤められて瞬いていた。空?自分が知っている星空とは違うけれど、空だと思った。
背中の方から強烈な風が吹いている。視界には空。背中から風。
この状態は幼い頃に経験がある。忘れたくても忘れられない。
今、自分は空に放り出されているのだ。
幼い頃の経験というのは高い高いと称して祖父に力いっぱい空に投げられた時のものだ。
あれは子供をあやしていたのではなく、恐怖心を植え付けそれを克服させるための精神訓練だったのではないだろうか。あれほどに泣いた記憶は他にない。
その経験があったからなのだろうか。自分でも驚くほど凛音は冷静だった。
まずは地面との距離を測るため、寝返りをうつ要領で身体を反転させる。
視界に飛び込んできたのは光の奔流。眩しさに目を細めるが、何か円状の模様から溢れている光が徐々に収束していく様子が見えた。その円の周りは砂埃がひどくよく見えない。
しかしどういうわけか、自分が緩やかに落下している状況には気が付いた。緩やかとは言ってもスローモーションというほどではない。例えるならパラシュート落下くらいの速度といえるだろうか。この速度であれば受け身をとれば怪我などすることもなく着地は出来るだろう。
地面に近づくと何かに包まれて守られているような不思議な感覚がした。落下速度がさらに緩まり受け身をとる必要もなさそうだ。音も立てることなく爪先からゆっくりと着地する。
皮膚に感じる外気の感触がいつもとはまるで違う。目が覚めたと感じたけれど、実はまだ夢の中なのだろうか。異様な光景。裸足から伝わる砂土の感触。砂埃のにおい。吹く風の音。吸い込んで肺を満たす空気。五感はすべてリアルだと訴えてくるがどうにも納得できないのだ。ここは自分の知るどこでもない。
砂埃がおさまってくると、そこにはさらに信じられない光景があった。
二メートルは超えているだろうか。土で人の形を模ったような巨体が小脇に若い男を抱えていた。人がいるのなら話を聞くべきだ。ここがどこなのか。自分はどうしてここにいるのか。
その前にこの状況を解決する必要があるのかもしれない。抱えられた男が涙を流しながらこちらを見つめていたからだ。
男が泣くとは情けない。軟弱者は嫌いだが話は聞いてみなければならないだろう。
「もしかして、さらわれているのか?」
どう見てもここは日本ではないが、その人間は黒髪黒目を持ち、顔だけ見れば日本人っぽい容姿だった。
年齢は凛音と同年代か少し上位。服はヒラヒラしたフリルのついた白いブラウスの様なシャツにベージュのベストと見るからに高級そうな素材の黒っぽいジャケットと半ズボンと白タイツ。例えるなら中世西洋貴族風の正装の様だと言うべきだろうか。
日本語は通じない可能性もあるけれど、もし通じたらラッキーくらいの感覚で話しかけてみる。
「……」
涙は止まったようだが、ぼうっとした顔で固まっている。困惑しているようだ。おそらく通じていないのだろう。何かに気が付いたようなハッとした表情をすると身をよじりだした。
「〇△×▲!☆■◎◇!●△◆〇!□★▼×!」
まったく耳馴染みのない言語だった。英語とかフランス語とかロシア語とか、そういった少しでも聞いたことがある言語とはどれも似ても似つかない。彼の言葉を聞いた瞬間に言語による意思の疎通は不可能だろうと察せた。
言葉はわからない、しかし彼があの土人形の腕から逃れたがっていることは明らかだ。事情がわからないためあまり関わるべきではないかもしれないが仕方がない。助けるか。嫌いな軟弱者と言えど困っている弱者を放っておけるほど冷たい人間ではない。
よく周囲を確認してみると、まずこの場所は森を切り拓いてできた広場のようだった。赤紫色の星空が明るいせいか、灯りのようなものは見当たらないが周りが見えないことはない。四方に大きな柱が建っており天井はない。
地面は砂土で足元には先ほど光っていた模様が描かれている。円は半径一メートルくらいで古代文字の様なものが細かく書かれていた。詳しくはないが、一般に魔法陣と呼ばれるものだろうか。
今は陣の中心に立っており、正面の二本の柱の真ん中あたりに土人形。その数メートル後方にもう一つ人影があった。
それは小さな老人のようで、丸まった背中で前傾する痩せぎすの身体を立派な木の杖で支えていた。白っぽいふさふさの眉毛と仙人のような髭で表情は読み取れないが、その土人形を操っているのだろうか。年季の入ったローブを纏っており、いかにも悪そうな雰囲気のオーラを出している。
さらわれかけてる彼の服装などから考えて身代金目的の誘拐などが考えられた。まずは彼を助けてからどうにか帰る方法を探すことにしよう。助けたらきっと帰る手助けも期待できるだろう。情けは人の為ならず、だ。
先ほどの強風の影響か木の枝がたくさん散らばっている。その中で一番丈夫そうな太めの枝目掛けて走りだそうと一歩踏み込んだ。
「!?」
驚くほど身体が軽い。変な感覚だ。一歩では行けるはずのない距離にあった枝を一歩で回収し、反転して土人形に向かって踏み込む。軽く跳躍して二メートルもの巨体の脳天に打ち込む予定だったのだが自分でも予想していなかった高さまで飛んでしまった。男と老人は驚きの声を上げたようだった。言葉はわからないがその表情が物語っていた。
ガコーン!
思っていた以上の威力を伴って振り下ろしの一撃は土人形の頭に打ち込まれ、その巨体をゆらりと傾ぐことになった。腕の力が抜けさらわれた男が放り出されそうになるのを慌てて受け止める。
受け止めたその身体はおそろしく軽かった。人間の身体だとは思えないほど。それでもなぜかは見当がついていた。少し動いてみて気が付いた。
ここは日本に比べて……いや、地球に比べて引力が弱いのだ。全力跳躍すれば空をも飛べるだろうほどに。
老人が何かつぶやいている。この軟弱者を返せとでも言っているのだろうか?
腕の中の男は必死に何かを訴えてきているが何もわからない。
「すまんが言葉がわからない」
言葉が通じないことがわかったのか、男はこの広場の外の小道を指さして軽く身をよじった。
あっちにこの男の保護者でもいるのだろうか。
「あっちに行けばお前の保護者がいるのか?」
指さす方向に行きたいみたいだし連れて行くことにする。
土人形は動かなくなったが老人がどう動くかわからない。仲間を呼んで追ってくる可能性もある。できるだけ急いで男を保護者に引き渡さなければ。
男があまりも軽いので小脇に抱えて走った方が早い気もするが、さすがにそれは気が引けた。お姫様抱っこの状態のまま落とさない程度に腕に力を込めて指さす方向に走り出す。
広場を出て小道を走っていると首に回された男の手に力がこもった。男を見るとぎゅっと目を瞑って顔を青くしていた。怖いのだろうか。
「大丈夫か?」
男を抱く腕にもう少し力を込め、安心させるように抱き寄せてやった。首に回された手が少し熱くなった気がした。
視線を前に戻すと複数の人影が見えてきた。
あれか。男の伝えたがった事は。倒れているのが六人、怪我人が四人、いや真ん中を合わせると五人だろうか?奴だけは何やら空気が違う。無傷で囲んでるのが七人。どっちが悪いのかは知らないが多勢に無勢だ。弱いものいじめは見過ごせない。男はこの辺りにおいておけばいいだろうか。さすがに抱えたままでは動きづらい。
おそらく保護者は真ん中で囲まれているバイキングヘルムみたいなものをかぶっている二十代半ば位に見える男だ。左手には三十センチくらいの小さな丸い金属の盾を持っており、右手にはレイピアのような細い剣を構えている。息も上がっているし細かい怪我を負っているようだが、命に別条はなさそうだ。
倒れているやつらは生きているのだろうか?何人かはピクリとも動かない。しかしこの状況だ。これだけの人数に囲まれて殺さずに切り抜けろというのは難しいかもしれない。相手は得物を手にしているのだし正当防衛と言える状況だろうか。
小道の脇に男を降ろして、帯に挟んでいた先ほど使った木の枝を抜いて正眼に構える。
見たところ武道の心得もなさそうな素人集団だ。得物は大剣、長剣、ナイフや斧など様々だがどれも本物の刃のように見える。素人があのように危険なものを振り回すとは。本当にここは一体なんなのだろうか。先ほどの土人形といい、あれに攫われかけていた軟弱者の男といい。
囲まれているバイキングヘルムが脇に置いた軟弱者に慌てた様子で話しかけている。やはり知り合いで間違いない。
周りを取り囲んでいるやつらの一人がこの二人とはまた違うイントネーションの言語を発した。イントネーションは違うけれど、やはりどこかこの二人が発する言語に響き自体は似ている。方言なのかもしれない。
状況は未だ掴めていないが、いつあの土人形を操る老人が追ってくるともわからない。とにかくここは早くバイキングヘルムを助けてこの軟弱者と合流させねば。
後ろで軟弱者が何やら声を上げ、やつらが武器を振り上げようとした。
大人しく先制を許すつもりはない。大きく息を吸い込む。
「ぃやぁぁあああああああ!!」
試合でもいつもやる気合を入れる掛け声。一対多には不慣れではあるが基本は一対一を繰り返せば問題はないだろう。スピードはこちらが明らかに上。
まずは一番近くの重そうな鎧を身に着けた大剣の男だ。
一歩で距離を詰め体勢を低くし足を払う。重い鎧に振り上げた状態の重い剣。重心が少しでも崩れれば立っていられなくなるのは道理だ。
次の相手を選ぼうと視線を巡らしてから気が付くことになった。今倒した男以外も、皆同じタイミングで膝をつき倒れていった。
「……?」
立ち上がって見渡してみると半分以上が泡を吹いて倒れており、バイキングヘルムをはじめ、何人かの盾を構えているやつらは意識はあるものの膝をついて驚愕の表情でこちらを見ていた。
「何が起きた?」
意識は保っているものの明らかに戦意を喪失しており、ガクガクと膝を震わせながら倒れた奴らを支えながら散り散りに森の奥へと去って行く。彼らが何を言っているのかは理解できないままではあるのだが、その表情から口々に命乞いをしているのだろうと見てとれた。
正直困惑している。そんな戦々恐々しないで欲しい。足払いしただけじゃないか。殺そうとしたりしたわけでもないし。むしろ真剣振り上げてたのはそっちだろう。
色々思うところはあるのだがとりあえず最初の目的である軟弱者を保護者へと引き渡すことには成功しそうだ。
軟弱者を見ると、彼もまた気を失っているようだった。バイキングヘルムがよろよろと近づき無事を確認し胸をなでおろしている。
さて。これからどうしたものか。言葉も通じない中、もとの日常に帰る事は出来るのだろうか。
「やれやれ、移動が速すぎるわい。どうやらすべて終わったようじゃな」
後ろからいきなりかけられた日本語に驚く。振り返るとそこには先ほどの老人が立っていた。
「ふむ。通じておるようじゃな。まだ状況が呑み込めてはおられますまい。我らの居城に案内しますじゃ。一緒に来てはくださらんか?」
聞きたいことはたくさんあるがまず聞かないといけないことがある。
「ご老人、なぜあの男をかどわかそうとした?返答次第ではあの土人形のように倒れ伏すことになるが」
老人はため息をつくと肩をすくめた。
「それは誤解ですじゃ。カウセルよ、王子の様子はどうじゃ?」
「魔力切れで気を失っているだけです」
後ろの二人に声をかけるところを見るとどうやら本当に誤解らしい。変に弁解されるより納得できてありがたい。
ん……?まりょく?まりょくと言ったか?
「……いや、そもそも理解の範疇を超えているんだ。何が起きても驚くまい。聞きたい事がたくさんある。案内をしていただけるのならついて行こう」
「夜も遅い。今晩は我らの居城でひと眠りしてもらい、明日の朝ゆっくりと話をするとしませぬか」
「わかった」
信用したわけではない。それでも言葉が通じないのではどう行動していいのかさっぱりわからず、帰る方法を探すにも八方塞がりだと思っていたのだ。言葉が通じる相手がいたこと自体幸いだ。例え悪人だとしても対話を望んできているのなら話をするべきだろう。
「王子が気を失っているのでゴーレム車で先に帰ってもよろしいでしょうか?」
道の傍らに停めてあった小さな木製の馬車のようなものの扉の側に立って、申し訳なさそうにバイキングヘルムが声をかけてきた。
話の流れから察するに、あの軟弱者は『王子』なのだろう。ということはあのバイキングヘルムは護衛のようなものなのだろうか。
王子はすでに『ごーれむ車』とやらの中に運び込まれてきるようだ。この世界ではあれがポピュラーな乗り物なのだろうか。随分とアナログな世界だ。
「申し訳ないが我らは徒歩でもよろしいですかな?居城は少々遠いのじゃが」
「ああ。問題ない。体力はある方なのでな」
「かたじけない。“サモンゴーレム”!!」
いつの間にか地面に杖で描いていた魔法陣に、老人が自分の髭を一筋抜き落とすと陣から光が溢れ、光が収まるとそこには先ほども見た土人形が現れていた。
驚いてはいる。でもどこかで予想していた。この世界には『魔法』が存在している。
「ゴーレムよ。車を引き城へ帰るのじゃ」
「カシコマッタ、シロ、カエル」
「王子を独りにする訳にはまいりませんので私もお先に失礼いたします」
胸に片手を当て頭を下げるとバイキングヘルムも車に乗りこんでいった。あの大きさからいって二人乗りなのだろう。
出発した『ごーれむ車』は思っていたよりも速かった。正直あの巨体で素早く動けるとは思っていなかったのだが。ストライドが大きいせいもあり、おそらく馬車と同等くらいの速度が出ていると思う。……まぁ、今自分が走ったら比じゃない速度がでるのだけれど。
「ヒよ」
「ん?ヒ?」
老人はこちらを見ている。目が合っているので間違いなく自分が話しかけられているのだろう。今は二人きりなのだし当然だ。
「名を伺ってもよろしいじゃろうか?」
「ああ、構わない。私は羽生凛音という」
そう言うと老人は眉を寄せ難しい顔をした。
「ハニュ、申し訳ない、聞きなれぬ音の羅列でな」
日本名は珍しいのだろうか。まぁ当然かもしれない。
「そうか。凛音で良い。リ ン ネ、これなら聞き取れるか?」
出来る限りはっきりとゆっくり発音してやる。老人は嬉しそうに軽く微笑み頷いた。
「リンネ殿。感謝いたしますじゃ。儂の名はラクーム。皆は老師と呼ぶがリンネ殿は呼びやすいように呼ぶとよいじゃろう」
「了解した。私も老師殿と呼ばせてもらおう」
老人の名前も聞き取り辛かった。あえて文字であらわすなら『らくーむ』と聞こえたがそのまま発音しようとすると通じるか怪しい。カタカナ英語のような感じだろうか。恐らく老師にも凛音という名は同じように聞こえているのだろう。
どういう原理だかはわからないが口の動きと聞こえてくる言葉は一致しない。そのあたりも明日説明はあるのだろうか。説明されても理解できない気もするが。おそらくこれも魔法の一種なのだろう。
一時間ほど森の中の小道を歩いただろうか。何度か分かれ道があり、案内がなければ確実に迷っていただろう。広い森だ。分かれ道の中には獣道のような人の手の入っていない道もあった。迷ったら野垂れ死んでいたかもしれない。老師一行が悪人だとしてもひとまず感謝しよう。
段々と道が広くなってきて石で舗装された道に出ると道の先は開けていた。ぽつぽつと木造の小さな平屋が点在している。どの家からも灯りは漏れ出しておらず、星空が明るすぎてどうにも実感はわかないがおそらく現在は寝静まる深夜の時間帯なのだろうと考える。
集落の奥は小高い丘になっておりそこにはこじんまりとした西洋風の城が建っていた。大きめの屋敷と言ってもいいかも知れない。あれが居城だろうか。
「あれが我らの居城、ライラック城じゃ。小さくはあるが住み心地は保証いたしますぞ」
「長く居座る気はないが……」
「フォフォフォ、ご自分の家だと思ってくつろいでいただきたい」
老師がそう笑って髭をいじりながら玄関のノッカーを叩くと、すぐに内側から両開きの扉が開かれた。
城の外観はそこそこ年季が入っているように感じたし深夜だからかどこか陰鬱な雰囲気があったのだが中に入ると一切そんな空気は感じさせなかった。
掃除の行き届いた塵一つ落ちてない床。くもりのない窓。大きなシャンデリアには火が灯っていて明るいが、電気は通っていないのだろうとわかる。たぶんインフラは絶望的だろう。
「おかえりなさいませ」
扉の傍らでメイド服を着た女性が美しいお辞儀で出迎えてくれた。
文化祭でメイドカフェをしていたクラスもあったしそこでコスプレは見た事はあったが、本物のメイドさんを見るのは初めてだ。世の男性が喜びそうなミニ丈フリフリだったり胸元を強調するようなデザインだったりもしない。クラシカルメイド服とでもいうのだろうか。丈も長く露出はほぼない。変わったところというと頭のホワイトブリムの両脇に巻貝のような飾りを付けていた。スモーキーピンクのゆるふわロングヘアはサイドでまとめられている。
顔を上げた彼女と目が合うとにっこりと微笑まれ、きゅんとする。何を隠そう可愛いものが大好きだ。少し垂れ気味のアーモンドアイも髪色と同じスモーキーピンクが色白の肌によく映えていた。見た目と年齢が一致するのかはわからないが、二十代前半位に見える。
「お食事の用意もお湯の用意も寝室の準備も出来ております。どちらにご案内いたしますか?」
完璧だ。可愛いメイドさんに感動を憶えながらも、彼らを信用しているわけではないのだ。何が入っているかわからない食事も、無防備になる風呂も今は遠慮したかった。
「寝室に頼む」
「かしこまりました。王子はもうお休みでございますのでベッドに入る際ご留意くださいませ」
部屋が近いからあまり音を立てないようにということだろうか?
「スィープ、本日は客間にご案内するのじゃ」
「え!?そうでしたか。失礼いたしました。ではこちらにどうぞ」
『すぃーぷ』と呼ばれたメイドに案内された客間は十畳ほどの広さで、キングサイズのベッドをはじめ、置かれている家具どれもアンティーク調で細かな意匠が施されており、一目で高級品だとわかる。
「こちらにお召し替えください。今のお召し物は洗濯しておきます」
渡されたのはシルクのような手触りの良いネグリジェだった。そもそも今着ているのも寝間着の浴衣なのだが。
森の中を歩いて来たせいでかなり汚れてしまっていた。さすがにこのままあの高級ベッドに寝転がる勇気はない。
そして今気づいたが裸足だった。裸足で生活するのは慣れているので気が付かなかった。この足で丁寧に掃除されたあの廊下を歩いたことに申し訳ない気持ちになる。
「すまん。汚してしまった。自分で掃除するので道具を貸してはもらえんだろうか?」
「清掃は私の仕事です。どうかお気になさいませんよう」
「いやしかし……」
「私は自分の仕事に誇りを持っております。只今おみ足を拭くものをお持ちいたしますので少々お待ちくださいませ」
有無を言わせぬ笑顔でそう言われてしまうと引き下がらざるをえない。
やはり多少リスクをおってでも風呂に入るべきだったか。『すぃーぷ』に申し訳ないことをしてしまった。
湯を張った桶とタオルを受け取り、身体の汚れを落としてからネグリジェに着替えて、着ていた寝間着を『すぃーぷ』に渡す。自分で洗濯するというのはもちろん聞き入れられることはなかった。
「本当に、何から何までありがとう」
「滅相もございません。当然の事でございます。それでは失礼いたします、おやすみなさいませ」
「おやすみ」
本当に行き届いたメイドさんだ。突然訪れた一介の客である自分に、まるで主人に仕えるように対応してくれた。疑っている気持ちに罪悪感を抱くほどだ。完全に信じ切るとまではいかなくとももう少し警戒を解いてもいいのかもしれない。そう。内側から鍵のかかるこの客間で仮眠をとるくらいには。
手元に得物がないのは少し不安だが素手でも戦えないことはない。幼い頃から一通りの武術は習得してきている。普通の成人男性位が相手なら何の問題もなく勝てるだろう。
言われた通り大きな音を立てないように肌触りの良い羽毛布団に潜り込み大きなベッドに身体を横たえる。ひんやりとしたシーツがすぐに体温を吸ってじんわりと暖かく身体を包む。訪れるまどろみに不安な心が少しずつ薄まっていく。
きっと、大丈夫。どうにかなるさ。
目が覚めたら全部夢だった。そうなっていることが一番いいけれど。そうはならないだろうという確信めいた予感があった。
こうして羽生凛音の日常は突如崩れ去った。
魔法が存在するファンタジーな世界でこれからどんな未来が待っているのか。彼女は未だ知る事はなかった。
続きは明日12時に予約投稿済です。