四十四話 殺戮の天使ルート
前回のあらすじ——
2人から連続で求愛されるなんて、そんなのキャパオーバーがフローしてショートしちゃうわよ!
いくら庭木を毟っても全然落ち着かな……ヤバイ、庭師に見つかった逃げなきゃ
はぁ、ダメね何もかも。とりま手洗ってこよ。こんなご時世だからね、衛生衛生えいせ——
いったっ! もう本当にぶつかってばっかり! どいつもこいつも目ん玉が頭の天辺にでも付いてんのかってくらい私の事見えてな……
は! 灰! なんで……家庭教師終了なるほどね、そりゃ今まで、ありゃっした。さいならぁ……
ってなんであんたまで跪いてるのぉ⁈
もう無理、こんなの受け止められない。やっぱり私が向けられていいものじゃない。
ねぇねなら、ねぇねにだったら、ねぇねにこそ、相応しいものなんだ。
ねぇね、ねぇね、ねぇね、ねぇね!!!
………………え?
ねぇね、なに、してる、の?
(え……?)
リーナとナイフというミスマッチ過ぎる組み合わせにアンナは思考が停止する。
煌めくナイフを握るリーナの手からぼんやり視線を彷徨わせて、左手に握られた見覚えのある布に目が止まった。
靄の掛かった様な頭の中で、その紺色の布を記憶と照らし合わせる。何処で目にした物か、ぼーっと探していると、リーナがふぅっと、悩ましく色っぽい吐息を漏らした。
「……見られて、しまったわね」
そう穏やかに言いながら、振り上げていた手をゆっくり下ろすと、手にしたナイフに陽の光をわざとチカチカと反射させる様に動かして見せた。
その反射する光の眩しさに、いつかの運河の煌めきを思い出してアンナはハッとした。
リーナが左手に握っている布は、推定ではあるがコルらしき人物があの雨の夜にアンナに被せてくれた上着だ。
それに気付いてアンナは背筋がゾッとした。ぼんやりした気持ちが瞬時に霧散し頭と身体が一気に冷えて、ナイフと上着の組み合わせにクロードの一件を即座に思い出したのだ。
あの上着の件は父か洗濯のせいだと思い込み片付いた事にして無意識に候補から外していたが、リーナが厳格で堅牢な守護天使である事が分かった今、あの件に関する解釈も変わる。
あのズタズタに切り裂かれた上着は、あまりに彼女の普段の振る舞いからかけ離れていた為に絶対と言えるほど関係ないと疑わなかったが、それが違ったのだ。
あの上着を切り裂いたのは、今まさにコルの上着に凶刃を突き立てようとしていた姉だったのだ。
「……姉……様。なん……で、そんな……」
「なんで?」
震える声で聞いたアンナに、リーナは普段通りの声で答えた。けれどチラチラと動かすナイフを見つめる伏し目がちな瞳は、いつもの優しさを湛えていない。
「なんでって、許せないからよ?」
リーナは刃こぼれでも確認するかの様にナイフを見つめて静かに話す。
「私の可愛い妹に、次から次へと集ってくる悪い虫達が許せないの」
ナイフがキラッと光って、リーナの瞳を一瞬照らした。その一瞬に垣間見た怒りの籠った鋭い眼差しにアンナは身が竦む。
「分かっているのよ? こんな事をしても何にもならないって。でも抑えられないの。払っても払っても貴女に言い寄ってくる悪い虫のことが」
「……姉さま——」
「私から離れていこうとする、貴女のことが」
ギョロッと音がしたかと思うくらいの動きで、リーナの透き通る瞳がアンナを捕らえた。息が出来なくなるほどの濃密な恐怖がアンナを襲う。
「ずっとずっと、私が守ってきたのよ。小さい頃からずっと」
リーナはまたナイフに視線を戻す。
「何処へ行くにも何をするにも一緒で……楽しいことは全て教えてあげて、悲しいことからはその目を塞いで……そう思ってずっと守ってきたの」
伏し目がちな薄緑の瞳がナイフに反射した光を受けて、長い睫毛の隙間からチラチラと光って見える。
「……いつか来るとは分かっていたのよ。アンナが私から離れて、誰かの下へ行くって。その時にはもちろん心から祝福するわ、私は誰よりも貴女に幸せになってもらいたいって思っているんだから。でもね、こんなに早く……それが貴女の意思なのかも分からないまま、群がる虫に良いようにされるだなんて絶対に許せないの」
リーナは左手に握ったコルの上着に一瞥くれると、迷わずナイフを突き立てた。
ザッと音を立てて突き立ったナイフはギチギチっと引きちぎるように布を裂く。その様子にアンナは、ひっと小さく悲鳴をあげる。
「この上着の彼だって、友達ってアンナは言うけれど、彼方はどうかしら? 友達のフリをして近付いて来たのじゃない? だってあの城の庭にわざわざ行かなくてはいけない理由が、貴女を呼び出す理由があって? あるとしたらきっと邪なものよ。あのノアル伯の御子息と同じで」
リーナはまたナイフを突き立てる。余程切れ味がいいのか中空で揺れる布にもなんなく突き立つ。
「あの男……アンナを2度も辱めて……その上お父様にも上手く言って取り入ったわね、許せないわ……。マティアス卿も、まだ子どものアンナに言い寄って……女性好きにも程がある。貴女が招待されたパーティーってあの方が関係してるのでしょう? 調べたわ」
言いながら裾まで割いてはザッとまたナイフを突き立てる。その様子に震えるアンナの脳裏に、あのファンブックのリーナの説明文が蘇る。
「エドゥアルド卿も貴女を連れ出して何かしたわね? 良識ある大人と思っていたけれど、中身はあの2人と同じケダモノかも知れないわ。……そうだ、あの日騎士団の馬車を貸して下さったのはライオット卿でしょ? 他に面識のある方いないものね。あの方とも何かあったのかしら……そういえばジョストの後、貴女様子がおかしかったわね。しばらく戻って来なかったけれど、忘れ物って何だったのかしら」
リーナは独り言の様に呟きながら上着を八つ裂きにしていく。アンナは止まらないリーナの右手を見ながら説明文を思い出す。
《ここだけの話だけど、ゲームの進め方によっては禁断のルートに突入出来るらしいよ。しかもそのルートではなんとあのフェアリーナが……⁈》
あの一文を初めて見た時から、禁断のルートとはリーナを主役に戻す為の存在だと信じて、別物だと気付いた時から一切の興味を失っていた。しかしルート自体が潰えた訳ではない。このシナリオはまだ生きているのだ。
「ジェレミアも……貴女のこと慕っているみたいだけど、まだまだ叔母様に甘えてばかりのお子様よ? 到底貴女を任せられないわ。この先もね」
振り下ろされるナイフに、アンナは青ざめながらほぼ確信する。
禁断のルートとは、恋愛シミュレーションゲームでたまに出食わす——体感と憶測と偏見で言えばアダルティーな方のゲームに見る——ヒロインないし登場人物が主人公を惨殺してエンドを迎えるあの陰惨で絶望的なルートのことなのだ、と。
つまり、フェアリーナの禁断ルートとは、暴走した守護天使の行き過ぎた過保護故に、その怒りの矛先が主人公メレディアーナに突き立てられる、殺戮の天使ルートなのだ、と。
アンナがその考えに到った時、見計らったようにリーナがナイフを振り下ろす手を止めた。
「渡さないわ……誰にも。私が守ってきたのよ。大事に大事に……今も昔も、これから先も。アンナを傷つける奴らになんて絶対に……誰にも、渡さない」
リーナはそう厳格過ぎる守護天使として呟いて、アンナの方へゆっくりと顔を向けた。
「でも貴女は飛んで行ってしまうのよね。わたしがどんなに囲っても、貴女はすり抜けて行ってしまうの。自由に飛び回る妖精の様な人だから」
幾分翳ったのか、弱まった逆光がリーナの影を薄くするが、読み取れるようになった表情からは何の感情も窺えず、ただ見開かれた大きな瞳がアンナを飲み込むように見つめていた。
「そうやって、私の下から離れて行って、何処かの誰かにその羽根を毟られるくらいなら……」
ゆらっと、リーナが揺れて、左手からズタズタになった上着が床に落とされた。それでも右手にはまだナイフが握られている。
「そんな日が来るくらいなら……」
アンナを美しく透き通る瞳の中央に据えたまま、リーナはゆらゆらと近付いて来る。アンナはリーナが一歩近づく度に、先ほど至った解が答え合わせされていく気分になる。
それが真実正しいのであれば、数秒後に待つのは死だ。一歩、一歩、また一歩。揺れながらゆっくり近づく姉を前に、アンナの震える足は動かない。
「いっそこのまま、ここで……」
あと一歩。堕天使が右腕を持ち上げた。禁断のルートは今、拓いた。
お読みいただきありがとうございました。




