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言葉を遮られたことに気分を害した様子もなく、ぱちくりと松田が目をしばたたく。思案するように、視線が斜め上を向いた。
「うーん、駄目ではないんじゃない? まったくの無関係じゃないみたいだし。榊さんさ、さっき俺が引き止めちゃったときの布瑠部の取り乱しかた、違和感なかった? 小さい子どもでもない成人済みの大人相手に、多少姿が見えなくなっただけであんなに焦るものかな? 俺の予想だと、たぶん着歴は一件も入ってないと思うんだけど、あいつと連絡先は交換してる?」
目で促されて、通知を確認する。松田の予測したとおり、布瑠部からの着信履歴は一切なかった。
「電話で居場所を確認したり、放送で呼び出してもらったりしたほうが早いのに、そこまで頭が回らなかったんだよ。いい大人が。ここ、結構広いのにさ。闇雲に探し回ったんじゃないかな」
「それはわたしが〝みおちゃん〟に似てるからですか」
「たぶんね。みおちゃんはいなくなる直前まで布瑠部と一緒に家にいたんだって。それがほんのちょっと目を離した隙に行方不明だよ。トラウマになっててもおかしくない」
「……その、〝みおちゃん〟は、……」
生きていたら。行方不明。三年前にやっと見つかった。
握りしめたスプーンの柄が熱い。意味もなくグラスの縁を凝視しながら、澪は聞いた。誘拐されたのか、と。
聞いておきながら思う。家の中で誘拐されるなんて、そんなことあるのだろうか、と。
肩を竦めて息をついた松田から返ってきた答えは、案の定。
「さあ? 誰かが入ってきたような感じはなかったらしいし、玄関の鍵はしまってたみたいだからみおちゃんが自分で外に出た可能性もないに近い。それに、みおちゃんはいなくなったときと同じ姿で見つかったんだよ」
「?」
「七歳のままだったってこと」
急激に、周りの音が遠くなった。代わりに、心臓の音が内側から大きく響いている。それに急かされるように、考える前の言葉が唇を割った。
「意味が、わからない……です」
「うん、俺にも布瑠部にもわからない。まるで神隠しだ。実際、メディアは神隠しだ何だって騒いでたんだよ」
二の句が継げない澪に、松田はまるで小さい子どもに言い聞かせるかのように、ゆったりと言葉を紡いだ。
「きみは似てるんだ、みおちゃんに。顔もだけど、何より空気が近い。存在が希薄で、そこにいるのにいなくなりそうな感じがある。──だからあいつは、あんなに取り乱したんだと思うよ」
ごめんね、こんなこと話して。
そう言い置いた松田が立ち去った後も、澪はしばらく動かなかった。カップルや夫婦、親子連れの賑やかな声が耳を素通りしていく。
やがて、のろのろと松田の名刺をスマホケースにしまった。時間を確認して、意外にもそれほど経っていなかったことに気づく。布瑠部が戻ってきたのは、完全に液体になってしまったアイスと、それによってふやけきったコーンフレークをほとんど飲むように片付けているときだった。
「ごめん、遅くなった……ってまだ食べてたのかよ」
「……つい、ぼーっとしてました。布瑠部さん、買い忘れは無事に買えました?」
本人の了承なく深い部分を知ってしまった罪悪感からか、気づいたときには誤魔化すようにへらりと笑っていた。そんな澪を訝しげに見やった後、彼は持っていた小さいマチ付きの紙袋を差し出してくる。
「? なんですか、これ」
「ハンドクリームと、……トップコート? ベースコート? 詳しくないけど、とりあえず爪を守るやつ。お前、洗い場のバイトで手袋もなにもせずに仕事してるだろ。手も爪も荒れてるからそれでケアしとけ」
「……なるほど、これが噂の女子力。ありがとうございます」
納得して頷けば、苦い顔をされた。呆れたような声で帰るぞと促され、完食した食器を持って席を立つ。
先導するように先を歩く後ろ姿に、お兄ちゃんだなぁと澪は顔を歪めて笑った。
***
大学三年の四月、老朽化を理由にアパートの取り壊しが決まった。退去の猶予期間は六か月。十月末日までに新しい部屋を見つけ、荷物をまとめて引っ越さなければならない。
大学やアルバイト先からそう遠くなく、近くにスーパーやコンビニのある部屋を探すのは至難の業で、仕方なく大学入学前から勤めているコンビニを辞めることを視野に入れ始めたとき、まるで狙ったかのように条件に合う部屋が見つかった。先行契約を行い、今の住人が退去次第入居するという形になる。
間取りは今の部屋と同じ1K。家賃は築年数がそう古くないこともあって、新しく見つけた部屋のほうが上だ。仕方がないこととはいえ、仕送りも何もない一人暮らしの大学生には少し痛い。まだ良心的な値段なので、どうにかなる範囲ではあるけれど。
澪の退去予定は八月下旬。まだあと二週間以上も先だ。
布瑠部は七月末に引っ越していった。なんでも祖父母が所有していたファミリー向け賃貸マンションを引き継ぐとかで、そのマンションの祖父母が生活していた一室に移ったようだ。今は未消化だったこれまでの有給と繁忙期の代休を駆使して八月丸々を休みにし、隠居した祖父母も生活しているという実家に帰省している。
繁忙期の忙しさを思い出したのか、遠い目で閑散期万歳と笑っていた。今思えばあの笑いかたは、俗に言う乾いた笑いだったのではないだろうか。
(期末レポートはこれで全部終わりだから、明日のバイト前に出しに行って……)
今までずっと向き合っていたノートパソコンを閉じて、首を回す。肺が満杯になるまで空気を取り込んで、細く吐き出しながら瞼を下ろして眉間を揉んだ。しばらく唸ってからぱちりと目を開ける。タイミングよく、トークアプリの通知音が鳴った。
内容は簡潔に。『飯ちゃんと食ったか?』──送り主は元隣人である。
「……お母さんかな?」
なんだかんだ面倒見のいい元隣人を兄のように思うことは今までに何度かあったけれど、最近、とりわけ〝お隣さん〟でなくなったあたりから、食事に関してのメッセージが送られてくるようになり、兄を通り越して母のような存在になりつつある。
最初は驚いたが、今ではもう慣れたものだ。食べました、の一言に夕食の献立を添えて送信すると、向こうも律儀にメニューを教えてくるようになった。これは正直、献立を考える手間がなくなるのでありがたい。最近の夕食はもっぱら、送られてきた中からランダムにチョイスして作っている。
──そんな毎日のやりとりが唐突になくなったのは、澪が間アパートを引き払い、新居に移った八月の最終週のことだった。
ある程度決まった時間に送られてきていたメッセージの着信を知らせる通知音が鳴らなかった。何かあったのかなと思いつつ、すでに習慣になっていた夕飯の献立を送信する。蒸し暑い中で汗だくになりながらの引っ越し作業だったため、適当に買ってきた惣菜で済ませた夕飯の内容。
しかし、しばらくもしないうちに送信エラーが表示された。珍しい反応に首を傾げながら再送信してみる。表示されるのは、二度目の『メッセージを送信できませんでした』という文字。調子が悪いのかと時間を置いてみても変わらない。
眉根を寄せて電源を入れ直してみる。少し躊躇って、まずは疎遠になっている最後に世話になった親戚に、今日の引っ越しを伝えるメッセージを送った。何の問題もなく送れた。親戚から返ってきたメッセージも問題なく受信する。けれど布瑠部へのメッセージは何度やっても、日を改めてみても送信不可になる。トークアプリだけでなく、電話もコールすることなくブツッと切れる。呼び出しの音すらならない。
おかしなことはそれだけではない。ショッピングモールの様相が再び変わっていた。外観はそのままに、布瑠部と来たときはなかった店があり、あった店がない。店舗の位置も違う。ただ、迷子になりそうなほど戸惑った前回とは違い、今回の変わり様は見覚えのあるものである。戸惑いはあるものの、店舗配置や内装は記憶にあるものと寸分違わない。変わったというよりは、戻ったのほうが正しいような気がした。




