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 中番を終えて外に出た途端、もわりと熱された地面の空気が体にまとわりついてきた。時折吹く風すら生温く、冷房の効いた店内に引き返したくなる。

 いたるところから響くやかましいセミの無差別求愛を聞きながら、澪は忌々し気に太陽をねめつける。徐々に日の入りは遅くなり、今では夜七時を過ぎてもまだその明るさを保っている。肌は容赦なく焼かれるし目は射られるしで、澪はあまり夏が好きではない。

 立っているだけで汗を掻くほど高い気温も気に食わない。最近は南北の気温が逆転しつつあるらしく、赤道に近い南島のほうが避暑地の役割を果たしているようだ。まったくもって意味がわからない。

 夕飯の買い出しのためにすっかり馴染みになったスーパーに寄り、自動ドアを境界線にして暑苦しい外気から逃れる。日差しと熱気で火照った肌を冷やす冷気に、ほっと息をついた。

 真っ先に向かうは野菜売り場のもやしコーナー。値上がりしたとはいえ元が安かったもやしは、かさ増し要員として重宝している。それから昨晩チラシで確認した安売りの食材と消耗品をいくつかと、値引きシールの貼られた惣菜を購入して店を出た。肌をべたつかせる汗に顔をしかめながら帰路につく。

「よぉ、おかえり」

 エコバッグを揺らしながらアパートの階段を上った先に、同じくスーパーの買い物袋を提げた二〇一号室の住人──布瑠部(ふるべ)がいた。土曜日にもかかわらずスーツだ。童顔を緩和している目つきの悪い目はコンタクトをしているらしく、眼鏡がない。いかにも仕事帰りですといった格好が、繁忙期でもない限り基本的に土日は休みの布瑠部にしては珍しかった。

 かけられた言葉に少しのくすぐったさを感じつつ、澪はただいまと返す。

「布瑠部さんもおかえりなさい。スーパー行ったんですか?」

「卵がもうなかったからな。榊もか」

「はい、夕ご飯の買い出しに。相変わらず外では一向に会わないですよね。……入れ違ったのかなぁ」

 首を傾げながら、鍵を差し込む。布瑠部とは、外で出くわしたことが一度もない。近くにある澪のアルバイト先であるコンビニでですら会ったことがないのだ。ある程度の生活圏は同じであるはずなのに、心底不思議である。

 会話もそこそこに、暑さから逃れるため部屋に引っ込もうとした澪を布瑠部が呼び止める。

「カレー」

「行きます、一時間後で」

 即答した。笑いながら了解、と扉の向こうに姿を消す隣人を見送ってから澪も部屋に入る。エコバックから惣菜以外のものを取り出して仕舞い、着替えを取って風呂に向かった。上がった後は手早く髪を乾かして、見苦しくない程度に身なりを整えたら、惣菜入りのエコバックを引っ掴んで部屋を出る。ちょうど一時間だ。

 二〇一号室は、澪の部屋とは間取りと家賃が違う。二〇二号室の1Kに対して、二〇一号室は2K。さらに風呂とトイレはそれぞれで独立している。家賃はもちろん二〇一号室のほうが高い。

 チャイムを鳴らすと、そう待たずに緩い部屋着に着替えた隣人に出迎えられた。

「コーンは入ってますか」

「開口一番それかよ。お好みで入れてください」

 リビングとして使っているらしい部屋に通される前に惣菜を押し付ける。中身はハムカツだ。

 布瑠部がキッチンに引っ込むと、澪はひとり部屋に取り残される。珍しく木目調のテーブルの上に郵便物が広げられたままだったので、一声かけてから端に寄せた。その際に見えた住所のアパート名に眉をひそめる。

 ──あわいアパート二〇一号室 布瑠部由良(ゆら)

 アパートの正しい名称は〝間アパート〟である。

(あわいって一般的に聞かない読みだから、役所が間違えたまま通しちゃったのかな?)

 昔、マンションの名前はひらがなであるのに、役所に登録された住所の記載は漢字になっていたことがあった。これもその類だろうか。細かいミスだし、訂正するほどのことでもない。

 それよりも気になったのが。

「布瑠部さんって、下の名前は由良なんですか?」

 初めて知った隣人の名前にわくわくしながら聞けば、ちょうどカレーを運んできていた布留部は苦い顔をした。あれ、と澪は目をしばたたかせる。

「もしかして、お名前、あまり好きじゃないとか」

「……だって女っぽいだろ」

「? 別に男の人の名前でも違和感はないですけど。中性的ですよね」

 名前で言ったら澪だってひとのことを言えないのだ。

「というか布瑠部って漢字、珍しいなぁと思ってましたけど、布瑠部に由良ときたらもうそのまんま布瑠の(こと)ですよね。ちょっとテンション上がります」

「布瑠の言?」

「あれ、知らないですか? 死者蘇生の言霊です。布瑠部(ふるべ)由良由良止(ゆらゆらと)布瑠部(ふるべ)、って唱えるんですけど、たしか〝由良〟は玉が鳴り響く音のことで、それがあちらに渡った魂を呼び戻すんだったかな。ちょっと詳しいことまでは覚えてないです、すみません」

 記憶を手繰りながら言えば、布瑠部が感心したように相槌を打つ。でも、と言葉が続けられた。

「普通は知らないだろ。どこ目指してんだ」

「わたし、両親がいなくなってから親戚の家に引き取られたんですけど、やっぱりその家にとってわたしは異物なんですよね。だからできる限り家にいないようにしてたんですけど、遊ぶ友達も特にいなかったので中学のときは図書館に通ってたんです。布瑠の言はそこで読んだ小説に書かれてました」

「お、おう……そっか。お前急にディープなのぶっこむよな……」

 口調と内容の温度差がひどいと、皿にあけたハムカツをテーブルに置いた布瑠部は悟りでも開いたような顔をしている。きょとんとしつつテーブルに夕飯のメニューが揃ったのを確認して、澪は手を合わせる。早速、カレーにコーンをぶちまけた。

「言霊と言えば、名前は一番短いまじないだって聞いたことあるな」

「名は体を表すって言いますもんね。呼ばれてるうちにそうなるように育つらしいです」

「へぇ。……その場合だと俺はどう育っていれば正解なんだ……?」

 自分の名が何を意味するのか思い出したのだろう。布瑠部はハムカツに伸ばしていた箸をぴたりと止めた。澪もまた、小首を傾げる。

 十秒ほどの小さな沈黙が降った。考えても答えは出なかったらしく、彼は白けた顔でハムカツにかぶりつく。やがて、気を取り直すように話を澪に振った。

「榊の名前はどんな意味があるんだ?」

「わたしの字はたしか、水路とか、水でできた溝とかそんな感じだったような……。あ、でも、もともとつけようとしてた字はさんずいがないほうだったみたいなので、それでいくと……ゼロ、とか?」

 澪の名が今の字になったのは、もともと考えていた〝零〟の字が女の子にはいささか無骨だったからだと聞いた。そう考えると、名前に持たされた意味としては〝澪〟よりも〝零〟のほうが正しい気がする。

 口に運んだカレーが程よくピリっと舌を刺激した。独特の風味は口内に留まらず鼻から抜ける。奥歯で噛み潰したコーンの甘さがカレーと混ざり合い、僅かに辛さの緩和されたそれを嚥下しながら澪はうーんと唸る。

「ゼロって要するに無のことですよね。いいことなのか悪いことなのか……」

「物事の起点、基準の意味もあるだろ。正負(プラマイ)を考えたらゼロは中間とか、境目とかか?」

 新しい考え方だ。目の前が晴れるような感覚に、澪はポカンと間の抜けた顔になった。

「……理系っぽい」

「まあ一応会計士だし、数字には強い方だと思うけど」

「頭良さそう……」

「なんだその頭悪そうな感想」

「心外な。これでも記憶力はいいし、勉強はできるほうです」

 喉の奥で笑われ、彼女は口を尖らせながら不服を前面に出してそう訴えた。




***




 大学二年ともなると、学生生活にも余裕が出てくる。一年のときに比べて必修科目が減り、英語と第二外国語を一年のうちで履修できたことで、時間割に自由が利くようになった。今期は週に四日、休みがある。

 そこで、アルバイトを増やしてみた。講義がある日は講義を終えてからコンビニのシフトに入り、四日ある休みのうち三日は一駅先の会社の社員食堂で洗い場スタッフをしている。一日は全休を確保した。

 しかし今日はイレギュラーだった。コンビニのアルバイト生が体調を崩してシフトに入れなくなり、一番近い場所に住んでいるという理由から澪が急遽応援に呼ばれたのだ。特に予定はなかったので応じたが、週一しかない全休が犠牲になった。

 午後三時で上がり、家路につく。ちなみに、コンビニのアルバイトを始めてそろそろ二年半だが、澪がシフトに入っている時間に布瑠部が来店したことは一度もない。アパートから徒歩十分の距離にある最寄りのコンビニなので、一〇二号室や三〇二号室の住人に会ったことは何度もある。他の部屋の住人は、まず顔を覚えていないので来店していてもわからない。閑話休題。

 梅雨入りしてからこちら、つねに空気が湿っぽい。空はどんよりした灰色の分厚い雲に覆われ、景色が薄暗かった。いつ降りだすかわからない空模様では洗濯物も満足に干せない。最近の悩みだ。

(雨降りそうだなぁ)

 そう思った瞬間、パラパラと雫が落ちてくる。慌てて傘を開き、心持足早に歩く。アパートについたころには、本格的に降り始めていた。

 閉じた傘を振って水分を飛ばし、家の鍵を回す。ドアを開けたタイミングで、隣のドアも開いた。ついこの間まで繁忙期に忙殺されていたらしい隣人が顔を覗かせる。ラフな服装に眼鏡。休日の格好だ。

「あれ、バイトだったのか? 日曜は休みだって言ってたよな?」

「そうなんですけど、高校生の子が風邪ひいちゃったみたいでヘルプに行ってました。布瑠部さんはどこかにお出かけですか?」

「近くのショッピングモールにな。一緒に行くか?」

 思いがけない誘いに目を丸くする。

「え、いいんですか?」

「だめなら誘わない」

 正論である。

 近くとは言っても、ここから車で三十分以上かかるショッピングモールに行く機会はあまりない。ありがたい申し出に頷き、ひとまず部屋に入ってコンビニの制服を置いた。お待たせしましたと部屋を出た後は、大人しく布瑠部の後ろに続く。駐車場ですれ違った見覚えのない顔に会釈しつつ、車に乗り込んだ。

「さっきのひと、アパートに住んでるひとですかね?」

「あの車から出てきたってことは一〇二号室の住人じゃないか?」

「え」

 思わずアパートと車を交互に見やり、眉をひそめた。一〇二号室の住人なら、澪は知っている。三十代半ばから四十代くらいの黒髪の女だ。けれどさきほどアパートのほうに消えたのは、二十七の布瑠部とそう年の変わらなそうな茶髪の男。

 たまに住人でもないのに勝手に駐車場を使用する輩がいると大家がぼやいていたのを思い出して、それだろうかと当たりをつける。また見かけることがあったら大家に報告しようと決めて思考を切り上げたとき、ちらりと澪を一瞥した布瑠部から声がかけられた。

「……シートベルトしろよ。出発しまーす」

「あ、はい。お願いしまーす」

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