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メリバはあくまでも添えるだけ。メリバ風味です。

羽衣伝説が根底にあったはずなんですが……見る影もなくなりました。

 ──(あわい)アパート二〇二号室。

 ワンフロアに三部屋しかない三階建てのアパートで、そこはまさしく一階と三階、そして両端の部屋の〝間〟にある部屋だった。

 築三十年の、そろそろ老年期に差し掛かろうというアパートの階段を軽い足取りで上がり、榊澪(さかきれい)は二〇二号室の扉の前に立つ。築年数のわりに小綺麗な外観にほぅと息をつき、いそいそと斜め掛けにしているショルダーバッグから鍵を取り出した。

 ひやりと冷たい金属の感触に目を細め、ドアノブの中央に口を開ける鍵穴に差し込む前にぎゅっと握りしめる。初めて得た自分の鍵は、何度見ても気分を高揚させた。

 これで、誰憚ることなく生活ができる。

 防犯上郵便受けのついていない紺色の扉一枚を隔てた向こう側に広がっているのは、澪だけのための1K。荷物の搬入はすでに済んでおり、何件ものホームセンターをはしごして揃えた最低限の家具の組み立ても三十分ほど前に終わっている。荷解きはまだだけれど、朝も昼も抜いた腹が、空腹の限界を訴えていた。腕を持ち上げれば、がさり、と提げていたコンビニの袋が小さく音を立てる。

 日が沈んで徐々に彩度を落としていく空を背に、澪は体温の移った鍵をようやく鍵穴に差し込んだ。カコン、と小気味いい音が開錠を知らせる。

「……ただいまー」

 狭い玄関で脱いだ靴は、横に設置した小さめのラックへ。物の少ないキッチンを素通りして洋室六帖の中央にある脚の短いテーブルの前に陣取った。ラグもカーペットもないフローリングに直に腰を下ろして、その予想を上回る冷たさと固さに慌ててダンボールの中から取り出した毛布を敷く。

(いらないと思ってたけど、やっぱりラグは買うべきかなぁ。洗剤とか、物干し竿とか……あ、あと食材も買わないといけないし、入学式のスーツも探さないと)

 もそもそとおにぎりを食べつつ考えるのはそんなことだ。つい家電やら家具やらばかりを気にして、こまごまとしたものには意識が向いていなかった。やらなければならないことが多すぎて、考えるだけで辟易する。

(役所の手続きは二週間以内に、だっけ。挨拶は上下左右の部屋に、……でも、見た感じだと両隣は空き部屋っぽかったんだよねぇ。カーテンかかってなかったし)

 ぐるぐる思考を巡らせて、澪はテーブルに突っ伏した。行儀が悪いのはわかっているが、朝から動き続けた体の疲労が凄まじい。

 頭だけ起こしてまたおにぎりを咀嚼しつつ、テーブルの隅に邪魔にならないように置いた写真立てを眺める。父と母と、それから小学六年生の澪が写った、最後の家族写真。両親は、この写真を撮った三か月後の年の瀬に、揃ってこの世からいなくなった。

 父は医薬情報担当者で転勤が多く、短いと一年ほどで辞令が出るいわゆる転勤族だったが、母は毎回、文句も言わずついていくようなひとだった。夫婦仲は良好。子どもの目から見ても、文句なしに仲がよかった。母が在宅の仕事を行っていたのは、父の転勤にいつでも対応できるようにするためだと聞いたことがある。

 まさしく一心同体にして一蓮托生。仲のいい夫婦は、飲酒運転の車に轢かれて仲よく死んでいった。──娘をひとり、置き去りにして。

 彼らがいなくなったことで、澪は親戚に引き取られることになった。小学六年生から高校三年生までの六年と三か月で四つの家庭に世話になり、高校を卒業したと同時に一人暮らしを開始した。その初日が、今日である。

 上体を起こしてサラダに手をつける。シャクシャクという咀嚼音だけが静かな部屋に響いた。

「…………バイトしないと」

 両親が遺してくれたお金はまだあるけれど、それにはできるだけ手をつけたくない。

 ぽつりと呟いたそれは誰にも受け止められることなく、部屋の空気を震わせただけだった。




***



 隣人がいるかもしれない。

 そう気づいたのは間アパートで一人暮らしを始めてから二週間ほど経ったころのこと。朝食の準備のためにキッチンに立っていた澪の耳が、キィというか細いドアの開閉音を捉えた。続いて、足音が部屋の前を横切る。

 思わず動きが止まった。見えないのはわかっているけれど、つい向こう側を見透かすようにドアを凝視してしまう。

 隣人は、どちらもいなかったはずだ。この二週間、両隣からの物音を聞いたことは一度もないうえに、夜に明かりが漏れているのを見たこともない。

 気のせいか、はたまた大家が何かしらの理由で出入りしかだろうと結論付けて澪は作業に戻った。こんがり焼いたトーストの上でマーガリンを溶かし、少しいびつな形になった卵焼きと、もやしと白ネギを和えた中華サラダをテーブルに運ぶ。最近の野菜は値段高騰で食費を圧迫してくる。もともと安価なもやしですらついに値上がりした。苦学生にはなかなかにつらい現状だ。

 最寄りのスーパーのチラシを眺めながら口を動かし、朝食を終えたら食器を軽く洗って身支度を整える。これから夕方までコンビニでアルバイトだ。

 出掛けに見えた二〇一号室の部屋には、暗色のカーテンがかけられていた。




***



 隣人がいる。

 確信を持ったのは最初にドアの開閉音を聞いた三日後。夕方から夜までのシフトをこなして帰宅したとき、再び部屋の前を横切る足音を聞いた。次いで、三日前と同じようにドアの蝶番がきしむか細い音。それからバタンとドアが閉まる音。

 キッチンで水を飲んでいた澪は、二、三度瞬いておもむろに口をマグカップから離した。なるべく音を立てないように調理台に置いて鍵を掴み、そろそろと忍び足で玄関に向かう。鍵を回すのもドアを開けるのも、まるでどこかのコソ泥のように慎重に行った。

 わずかなドアの隙間から滑るように出てしっかり施錠したあと、駐車場になっているベランダ側へ回る。二〇一号室のベランダには、カーテンの隙間から少しの明かりが漏れ出ていた。

「いや、おるんかーい」

 普段の口調をどこに置き忘れたのか、似非関西弁が口を突いて出る。二〇一号室の駐車スペースには昨日まで見なかった一台の普通乗用車。確定だ。

(え、ええええ……、全然気づかなかった)

 その日のうちに最寄りのスーパーに駆け込んだ澪は、翌日の日曜昼過ぎ、適当に見繕った粗品を持って二〇一号室の住人に挨拶に向かった。

 チャイムのボタンを押す前に、自分の部屋と同じ紺色のドアの前で一度深呼吸する。心臓がバクバクとうるさい。引っ越しの翌日に一〇二号室と三〇二号室の住人に挨拶をしたときもこうだった。初対面の人間を相手にすると考えるだけで、嫌に緊張するのだ。

(切実に帰りたい。……でも、挨拶、大事。昔お母さんが言ってた。生活音とか、気をつけてはいるけどうるさくしちゃってるかもだし。そもそもいくら気づかなかったとはいえ、ここに引っ越してきて二週間経ってるのに先に住んでる人に挨拶してなかったとか失礼……ん? わたしのほうが後だよね?)

 ぐるぐると回りだした思考を頭を振って打ち切り、ええいままよとチャイムを鳴らす。

「……。あれ、出ない」

 首を捻りながらもう一度ボタンを押した。ピーンポーンと軽い呼び鈴が鳴る。住人は出てこない。

「留守……?」

 今朝は一度も蝶番のきしむ音を聞いていない。部屋の前を横切る足音もなかったはずである。しかし住人は出てこない。

 出鼻を挫かれて肩に入っていた力が抜けた。出直そうと踵を返したところで、ふいにうんともすんとも言わなかったドアがカコンと軽い開錠の音を立て、四日前に聞いたようにキィと蝶番がか細い悲鳴を上げる。

「…………はい」

 のそりと気怠そうに出てきた相手は男だった。うつむいているせいで顔はよく見えないけれど、長身痩躯で、声と緩いスウェットから覗く手が若い。

 すっかり気を抜いて帰る気になっていた澪は、唐突に現れたその姿に狼狽した。考えていた挨拶の言葉は頭からすっぽり抜け落ち、捻り出すために慌てて口を開く。


「あっの! 先住民の方ですか!?」


 ──時間が止まった気がした。

 まだまだ肌寒い季節なのに、タラリと背筋を嫌な汗が伝う。

 隣人がおもむろに口を開いた。

「……俺はアボリジニか何かか」

「ネイティブ・アメリカンのほうがメジャーじゃないですかね」

 意外な返しに考えるより先にそう返していた。我ながら心底どうでもいい返しをしてしまったことに、見栄も体裁もなく頭を抱えたくなる。しかし隣人には案外受けたらしい。なんだそれ、と小さく笑いながら彼は顔を上げる。

 そして、そこでようやく澪の顔を認識したらしい眠たげな眼鏡の奥の眸が、ゆっくりと瞠られた。薄い唇がポカンと開く。

「……お、まえ」

「は、はい」

 一転して鋭くなった眼光にたじろぐ。何を言われるのかと身構えたが、隣人はしばらく澪を凝視した後、何事もなかったかのように、ふいと視線を逸らした。

「いや、なんでもない。それで、何か用か?」

 ぐしゃりと前髪を乱しながらそう問われ、ここに来た目的を思い出す。

「あ。えっと、隣に引っ越してきたんです。……二週間くらい前に。ご挨拶が遅くなってすみません。これ、粗品ですが」

 昨日買ってきたばかりの紙袋を差し出す。中身は当たり外れのないプレーンのパウンドケーキだ。

 渡す拍子に、何かがひらりと隣人の足下に落ちた。一昨日階段下の郵便受けから回収したはがきだ。テーブルの上に置いておいたものだが、その上に紙袋を置いていたためにインクでくっついてきてしまったらしい。あ、と言う暇もなく、屈んだ隣人が拾い上げる。

「……さかき、……みお……?」

「あ、いえ。〝みお〟ではなく〝れい〟です。よく間違えられるんですけど」

「そうか……勝手に見て悪い」

 はがきが手元に返ってくる。隣人は、わずかに眉根を寄せて澪を見下ろしてきた。

「一人暮らしか?」

「? はい」

 間アパートは単身者向けだ。どうしてそんなわかりきったことを聞くのかと見上げると、隣人の眉間の皺がさらに深くなっていた。

「大学生か」

「いえ、まだ違います。来年度入学予定で」

「……」

 ふつり、と隣人が沈黙する。その表情は険しい。何故、と眉を下げると、彼は苦虫を噛み潰したような顔で深くため息をついた。

「榊澪。二〇二号室で一人暮らし中の、次大学に入るってことは歳は十八。ああ、早生まれだとまだ十七の場合もあるか。……聞いた俺が言うのもなんだけど、簡単に個人情報答えすぎ」

「えっ。……あ」

「女の一人暮らしは特に、警戒しすぎるくらいがちょうどいいんじゃないか。聞かれたからってなんでも答えるのはどうかと思うぞ。挨拶回りもしないほうがいい」

「え、でも……生活音とか、もしかしたらうるさくしちゃってるかもしれないですし。円滑なご近所付き合いのためには必須だって、前に母が言ってました」

 戸惑いつつそう言った澪に、隣人は再び息をつく。やれやれ、とでも言いたげな顔だ。

「それ、きみが小さかったときの話じゃないか? 子どもは足音とか配慮しないし、家の中で暴れることもあるから、迷惑かけるかもしれないけどって意味の挨拶回りだろ。一人暮らしはむしろ一人でここに住んでるって教えてるようなもんだし、防犯上しないほうが身のためだよ」

「なるほど」

 言われてみれば、である。殊勝な顔で素直に聞き入れる澪に、隣人はもはや呆れ顔を隠そうともしない。だからこそ、続けられた言葉は意外なものだった。

「まぁでも、高校生で周りに配慮できてるのは偉いな。ご両親に昔言われたことを覚えてて実践できるのも凄いことだろうし。佳品もありがとう」

 ──隣人は、アメとムチの使い手だった。

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