6話 メルトアの森の森族
「ここは森族の治めるメルトアの森。人間達の言い方で呼べば“瘴気の森”と呼ばれている森の奥地になり、あなたは──どうかなさいましたか?」
ルーテシアが小さく咳払いをした後に語り始めた事情──だったが、自分は早々にその彼女の言葉を遮るように片手を挙げてそれを制すると、彼女は不思議そうに小首を傾げて疑問を口にした。
「いや、いやちょっと待ってくれ。ここが白神山地や富士の樹海でない事はオレも分かってるんだ。オレが聞きたいのココが何処かって事なんだが──いや、違うな」
自分がそこまで口にして視線を上げると、こちらを怪訝な様子で窺う周囲の目に行き合う。
そこで初めて自身の言葉が先程まで何も変わっていない事に気付き、自分の語彙の無さに苛立って頭を掻きむしり、どう聞くべきなのかに思考を傾ける。
彼女の言葉が理解できない訳ではない。
ここがメルトアの森と呼ばれており、彼女達のような半獣半人の種族をまとめて森族 と呼び倣わしているという事も、そして彼女達がなんらかの手段で以て自分をここへと呼び寄せたのだろうという事も何となくではあるが理解できている。
既に不思議体験のオンパレードで、逆に冷静に今の状況を受け入れられている事が大きい。
とりあえず自分が知りたいのは、ここが何処の世界であるかという事なのだが──仮に日本の大阪に住んでいる人間に突然ここは何処だと問われて「ここは太陽系第三惑星の地球です」と答えるような奴はいないだろう。
ここでは大阪ならばそんな返しをする者が普通に居そうだという一個人の偏見は置いておく。
ただこの問い掛けにも問題がある。
突然ワープホールなどに巻き込まれた宇宙人が大阪に現れたとして、現地の人間にここはどこかと尋ね「銀河系第三惑星の地球」という答えを引き出せたとしても、その宇宙人に地球の知識がなければ結局自分が今何処にいるのかを把握するのは困難だという事だ。
そしてもう一つの問題。
この世界が彼女達のような森族だけが暮らす世界なら、人間である自分はあからさまに異分子である事が分かるが、幸か不幸かこの世界には自分と同じ人間という種族が存在する。
彼ら森族の者達から見れば、自分はこの世界に暮らす人間であると判断されての先程の説明だったのだろうが、自分にはメルトアの森がこの世界の何処の辺りに位置するかも不明なのだ。
そこまで思考してふとある可能性が頭を過った。
彼女達が自分を別の世界から呼び出したという認識がないという事は、すなわち自分が今この場に立っているのは彼女達にとっても想定外の出来事である可能性が高い。
否、彼女らは自分達と同じ種族の者を呼び出そうとしていた節があるので、確実にそうだろう。
すると今の状況は、自分にとってかなりマズイ状況ではないだろうか。
まず第一に自分はここから元の場所へと戻る事はできるのか──という事だ。
先程まで爺以外の強者に巡り合えたと独り浮かれていたが、ここでそれが叶ったとしても、その成果を試す為には爺のいる世界へ戻る必要がある。
まずは元の世界へと戻れるのか否か。
しかしこちらが敵対しているのであろうこの世界の人間であるという認識のままであれば、正確な情報提供は得られない可能性も考慮するとなると──自身が先に素性を明かすのが一番説明が手っ取り早いのではないかと結論付けて、早速そのように説明を試みる。
「悪い、質問が曖昧だったな。まず初めに言っておくべき事がある。オレはこの世界の人間ではない──そもそもオレの元いた世界ではあんた達のような、森族という者は存在していない」
そこまで言ってあらためて周囲の反応を窺うようにするが、誰しもがこちらの言い分をあまり正しく理解していないのか、俄かにその場が騒めいた。
そんな中で初めに疑問を投げ掛けてきたのは、黒山羊の老婆であるサリッサ長老だ。
「よく分からんのじゃが、違う世界とは、お主は大いなる黄泉の地の住人という事かの?」
どう見ても知識者階層だろうと思われるサリッサ長老のその発言を受けて、自分は思わず頭を抱えそうになるのを必死で堪えて頭を振った。
一応念の為ではあったが、彼らが別の世界と聞いて思い浮かべた、“黄泉の地”というのがここではどういう認識の地であるかを尋ねると、それはここより北の地にある“黄泉の門”と呼ばれる地の先にあるとされている魔境なのだと教えられた。
別の世界と聞いて真っ先に思い浮かべるのが誰も足を踏み入れた事のない遠地を想像するあたり、彼らには別の世界という概念自体がまだ乏しいのかも知れない。
「……何と言えばいいのか、こことは別の星の住人と言えば分かり易い、とは思う」
何とか分かり易い解説はないものかと、頭を捻って絞り出したその説明に、ルーテシアは再び小首を傾げてから、中空を見上げて神殿の高い天井の先を見透かすような仕草をする。
「あなたは夜空に輝く星々を故郷とする方なのですか?」
視線をこちらに戻したルーテシアが向けてきたその問い。
ここで夜空に輝いているのは恒星の為、そこで暮らす事はでいないという真っ当な返しをする場面ではない事ぐらいは分かっている。
焦点となるのは、自分がこの地の人間とは別種であるという認識が成される事だ。
「あぁっと……まぁ似たようなもの、かな。とりあえずオレはこの地に暮らす人間とは別の種族だという理解をして貰えればそれでいい」
当然、人間である自分のそんな言葉を素直に信じてくれる者がこの場にいるとは思っていない。
「誰が貴様のそんな言葉を信じる? こいつもギルミの森を侵略に来た人間の一味だ!」
神殿内の誰かのそんな声が響き、それに同調するように周りが騒めく。広い神殿内を照らす篝火だけでは暗がりが多く、誰がその言葉を発したのかは判然としない。
ただ指摘の内容は至極もっともな話の為、自分は次の言葉を脳内で探していると、白い狼人のオルク長老が手に持っていた杖で床石を叩いてその騒めきを静めた。
「仮にお主のその話が真実だったとして、我らに何を求める? 何を知りたい? 牙の族長であるシグルに素手で渡り合えるようなお主だ、この地で孤立無援だからと言って我らを謀って取り入ろうなどという事を考えるようには見えんが?」
オルク長老のその言葉は、自分にとっては渡りに船──というよりも、彼はこちらが何を欲しているのか察してその問いを向けてきたのだろう。
話せる相手というのは姿形がどうであれ、ありがたい。
「話が早くて助かるよ、オルク長老様。とりあえず初めに聞きたいのは、オレは元の場所に帰れるのかって事なんだが──」
そう言って周囲の反応を見るように辺りを見回し、視線をルーテシアへと向ける。
こちらのそんな反応を受けて面布の奥で少し慌てたような気配を見せた彼女は、オルク長老らの方に視線を向け、視線の先で彼が頷き返したのを見て小さく息を吐き出した。
その際に面布が彼女の吐息で少し捲れて、その奥から形のいい顎が覗く。
だがそれは彼女が兄と呼ぶ白銀の狼人──シグルのような獣のそれではなく、れっきとした人のものと変わらぬ──というよりも人そのものだった。
それを見て、最初に彼女を見た際の違和感の正体に気付いた。
この場には多くの面布をした者が立ち並んでいるが、その誰もが面布の奥に収まる獣の鼻筋や顎の形が面布を押し上げて特徴的な形が分かるが、彼女の面布にはそれがない。
その事からも、少なくとも兄のシグルのような狼の顔立ちではない事が分かる。
そうしてあらためて周りを見回してみると、多くはないが何人かが彼女と同じような姿の者がいる事に気付いた。
そんな新たな疑問が浮かび上がった所で、ルーテシアは落ち着きを取り戻したのか、こちらに向き直って自分の最初の質問に対して回答を口にした。
「結論から言って、あなたを元の場所へと返す事、それ自体は可能です──」
他の事に気を取られていた自分は彼女のその言葉をうっかりと聞き逃しそうになって、慌てて視線をルーテシアに戻し、そしてようやくその意味を正しく理解した。
どうやら懸念事項の一つはこれで払拭されたと言っていいだろう──そう思って胸を撫で下ろしていると、ルーテシアがさらに言葉を付け加える。
「ただ、今回の召喚の儀に際し、この地の魂源を多くを使ってしまったのと、先程の騒ぎで召喚陣の一部が破損してしまったので、その修復が必要になる為にすぐには無理です」
彼女のその言葉に、自分の思考が少しゆっくりと時を刻む感覚を覚えた。
細かい部分──マナだとか召喚陣だとかはよく分からないが、自分をこの地へと呼び出した行為と同等の事を再び行うには、それなりの期間が必要になるという事だろう。
ここで問題になるのは、その期間が如何ほどなのか。
「……その、オレを元の場所へと戻す方法だが、次はどれくらいの期間で使えるんだ?」
やや恐る恐るといった感じでの問い掛け。
それもその筈で、これで十年単位などの期間が開くようならばどうなるか──それを想像すると首筋に嫌な汗の一つも掻こうというものだ。
ルーテシアはこちらの質問に対して、首を捻りつつ宙空に視線を彷徨わせる。
おおよその期間を脳内で算出しているのだろう。
思わずそんな彼女の一挙手一投足に目を向けながら、唾を飲み込んだ喉が小さく鳴った。
「おおよそですが、最低でも季節が一巡するまでは無理でしょう」
彼女のその言葉に自分は思わず拳を握り、その拳を振り上げてガッツポーズをしそうになるが、別の嫌な想像が脳裏を過り、その手が途中で止まって思わず頭を振った。
季節が一巡するとは、つまり一年を指しているのであろう事は分かる。
一年ならばこの見知らぬ地でも、強者と手合わせしたり、修行などして過ごしていればそれなりにすぐに経過する期間だが、それは自分が想定している一年である場合だ。
この地球ではない別世界で、一年という周期が地球と同様の日数である保証はない。
もしかすると季節が一巡するのに、地球換算で十年を要するなどとなれば──そこまで思考が及んで、自分は思わずその思考を振り払うように頭を振って小さく息を吐き出した。
ここでいちいち最悪の想定をしていても建設的だとは言えない。
目の前に答えを持っている者がいるのなら、さっさと聞いてこれからの事を思考する方がより建設的と言えるだろう。
「ところで……こ、これは興味本位で聞くんだが、季節が一巡──とは、具体的にどれくらいの日数で一巡するものなんだ? 三百日、くらいか?」
少し高鳴る鼓動を呼吸法で沈めながら、目の前のルーテシアに尋ねるが、その問いに答えたのは彼女ではなく、その後ろに控えるようにして立っていた彼女の兄──シグルだった。
「季節の一巡はおおよそ四百日程だ。その問い掛けは自分が常識を知らないという芝居なのか、それとも本気で聞いているのか?」
蒼い双眸でこちらを睨み付けてくるシグルだったが、自分はそんな事よりも一年が四百日程という答えを聞いて思わず両手を左右水平に伸ばし、野球の審判の如くセーフの姿勢になっていた。
そんなこちらの行動を奇異の目で見つめる半獣半人の者達の視線に流石に耐えかね、自分は小さく咳ばらいをして姿勢を正すと彼らに向き直った。
「もちろん、本気で聞いている。あんた達が何の目的でオレをここに呼んだのかは知らないが、とりあえずオレはこの場所以外からの帰る方法を知らないんでな。ここでどれだけの日数、厄介になるかを尋ねておくのは、これからの心構えにもなる」
そう言って自分は向かい合うように立つシグルを見返して笑う。
「ここには願ってもないオレと同等に戦える相手もいる事だしな、退屈せずに済みそうだ」
そんな自分の物言いに反応してか、シグルからゆらりと濃い気配が立ち昇る。
しかし、すぐにオルク長老が持っていた杖で床石を叩き、それを収めさせた。
「やめよ、シグル。そして、そこな人間の──」
「龍道寺。龍道寺慎だ。慎と呼んでくれればいい」
オルク長老がこちらを窘めるような視線を向けた際に、こちらの呼び名を言い淀んだ事を受けて、自分が未だに名乗っていない事に気付き、名乗りを上げた。
こちらのそんな名乗りに、オルク長老ら、三人の長老達の視線が集まる。
「リュウドウ……シン。変わった響きの名ではあるが……そうかシンか」
狼人のオルク長老が片眉を跳ね上げるようにして、こちらの名を反芻し、視線を向けてくる。
確かにルーテシアやシグルという名を持つ彼らからしてみれば、「龍道寺」というのは珍しい響きだろう。そして、森族と自らを呼ぶ彼らにとっては、同じ響きを持つ「慎」もまた。
「それで? 肝心の話がまだだが、オレはなんでここに呼ばれたんだ? “器”の抽選に選ばれた、みたいな事を話していたような気がするんだが?」
自分のその問い掛けに、ルーテシアが長老達に視線を向ける。
それを受けて白狼人のオルク長老と、黒山羊のサリッサ長老、蜥蜴人のダリオス長老らが互いに視線を交わして少し離れた場所で何事かを相談するように小声で話す。
場はしんと静まり返っており、時折響くのは篝火の薪が爆ぜる音だけだが、話している内容まではここまで届かないようだ。
そうこうしている内に三者の話をまとめ終わったのか、再びこちらに向き直り最初に口を開いたのは黒山羊の老婆、サリッサ長老だった。
「みんな聞いての通り、召喚の儀は季節が一巡するまでは執り行う事はできん。が、残念ながら儂らにはそれ程の時を待つ猶予はない上に、“王の器”が選んだのは森族である我らではなく、そこに居るシンという人間の男じゃ。よって牙、鱗、角の長老である儂らで協議し、出した答えはシンに“王の器”の選定を受けさせるという事に決定した」
彼女のその言葉に、神殿内がまた雑然とした喧騒に包まれる。
「静まれ!」
神殿内に響くダルカス長老のその一喝に、また静寂が戻り篝火の炎が爆ぜる音が鳴った。
その機を見計らって、再びサリッサ長老が口を開いた。
「さて、シンとやら。お前さんには悪いが、儂らに敵対する人間ではないと言うのならば、その証拠として“王の器”を手に取り、儂らの戦列に加わって貰えんじゃろうか? どうじゃ?」
そう言ってサリッサ長老は意地悪そうな笑みを浮かべてこちらの顔を仰ぎ見てきた。
山羊の瞳孔である四角いその瞳に呪い師にも見える恰好、そこに不敵に浮かべる笑みが揃うと、まるで悪魔の魔女のようにも見える。
「勝手に訳も分からない場所に呼びつけておいて、自分達の戦いにオレの手を貸せって言うのか? それはあまりに虫が良すぎる話じゃないか? なぁ、サリッサ長老様」
はっきり言って現状、こちらとしてはあまり選べる選択肢はないが、それでも精一杯の主張は行っても罰は当たらないだろうと、そう言って返して大きく肩を竦めて見せた。
しかし相手のサリッサ長老は、その悪魔のような瞳をうっすらと細めてこちらを見やる。
「今回の件は儂らも同胞を呼び寄せる腹積もりで行ったものじゃ。それがまさか、人間の──しかもこの地に暮らす人間とは違う別天地から呼び出されるなど。これは双方にとって予期し得ない事故じゃった、それだけの事じゃ」
そんなサリッサ長老の言を引き継いだのはダリオス長老だった。
「お主がルーテシアを人間の手より救ってくれた事には感謝している。しかし、それは同時にお主がここへと攻め入って来た人間達に弓を引いた事を意味する……。そして、今このメルトアの森はそんな人間達の侵略に抵抗するただ中にある。我が言葉の意味が分かるか?」
ダリオス長老の爬虫類然とした瞳孔がすぼまり、こちらをじっと見据えてくる。
自分もそんな彼の瞳を黙って見返し、ややあって小さく溜め息を零す。
「つまり、どちらにしろあんた達が暮らすこの地を連中達から死守しない限り、オレが元の地に戻る事はできない──あんたらはそう言いたいんだろ?」
自分のその言葉に、黒山羊のサリッサ長老が満足そうに頷く。
確かにその場の判断での勢いとはいえ、ここに攻め入った人間達をこの手で倒した事は覆りようがないし、かと言ってあの時の自分の判断が間違っていたとも思っていない。
視界の端でルーテシアが僅かに身動ぎする姿が目に入る。
それに、元々自分は海外の戦場へ傭兵として出ようとしていたのだ。
予定が狂い海外ではなく異世界の戦場へとやって来る羽目になったが、それもまた一興か。
やる事も彼らに雇われる傭兵だと考えれば、何も問題ないように思えた。
視線を三人の長老達から、牙の族長と呼ばれていたシグルへと向ける。
妹である巫女のルーテシアの背後に控えながらも、いつでもこちらの攻撃に対処できるように全身に氣が充実しており、隙らしいものは見当たらない。
この世界には以前の世界では見た事のないような技を使う者がいるのだ──半獣半人の森族らの身体能力などは人のそれを軽く上回り、人間達もまたそんな彼らを追い詰める程に戦いに身を投じるような地ならば、自分の力を試すには持ってこいではないか。
元の場所へと帰れるかという問題にある程度目途が付いた今、先程とは打って変わって今後の事を考えると身体中の氣が充実するような高揚感が生まれてくる。
我ながら現金なものだと内心苦笑しつつ、昂った気持ちを発散させるように、握り込んだ拳をもう一方の手の平に打ち込むと、その衝撃で神殿内に軽い爆発音が響く。
そうして口角が持ち上がるのをそのままに、自分は再び視線を三人の長老達へと向け口を開いた。
「いいぜ、その話に乗ってやろうじゃねぇか。それで、オレが呼ばれた理由は?」
誤字、脱字などありましたら、感想欄までご報告頂ければ幸いです。