5話 牙の族長シグル
男の鋭い声と共に、迫り来る強大な殺気。
自分はその場から反射的に地面を蹴って横へと逃れると、先程まで自分が立っていた場所に鋭い銀閃が走るのを横目にして、さらに追撃としてこちらに襲い掛かる銀閃から逃れるように、後ろへと跳んで間合いを取る。
果たして、目の前に立っていたのは巨躯の全身が白銀色の狼男だった。
牙を剥き出しにしてこちらへの敵意を隠そうともしない鋭い眼光。
蒼い眼球は全身の白銀色の体毛と相まって、他の茶毛などの狼男の戦士達よりも神々しく見える。身長は爺と同格の、恐らく二メートル二十はあるだろう。
体格は一回り小さいが、それでも自分よりは大きいのが分かる。
大振りの曲刀に盾を持ち、使い込まれた革鎧という出で立ちは古の戦士姿だ。
少し覗く鎧の胸元には大きな傷跡が見え、その油断のない構えと立ち昇る覇気からも歴戦の戦士である事──そしてこの場に立つ自分を除いた誰よりも強者である事を肌で感じ取れる。
そんな彼が「ルーテシア」と呼んで背中に庇うのは、舞台の上に佇んでいた白銀色の獣耳の女性──その特徴的な色と耳から推測するに、兄妹か、身内の類だろうか。
「陽動を仕掛け、戦える者の少ない後方の地に攻め入るとは実に卑劣な人間らしい所業だな」
白銀の狼男がそう言ってこちらに剥き出しの敵意をぶつけてくるが、勿論自分にとっては謂れのないもので、そういった謂れのない敵意というのは大小に差はあれど不快な気分にさせる。
しかし、自分の口元から漏れ出たのはそんな不快なものに対する抗議の言葉ではなく、目の前に現れた間違いなく強敵と分かる者と巡り合えた歓喜の声だった。
「ハハっ、卑劣な人間か! だったらその卑劣な人間のオレが一対一の勝負をあんたに申し込んだなら、まさか逃げたりはしないんだろうなぁ!?」
自分は白銀の狼男にそう返すと、口元に浮かぶ挑発の笑みを隠すことなく構え、相手を誘うように構えた先の手で相手を手招くような仕草をする。
ここがどういう場所で、相手がどういった相手か──そんなものはこの際関係ない。
祖父──爺以外でこれ程の相手を見る事が初めての自分にとって、願ってやまなかった好敵手が目の前に立ち、こちらに戦いの意思を示している──それだけで十分事は足りている。
「人間っ!! いいだろう! その挑発、乗ってやろうではないか!」
相手もこちらが気に入らないのだろう、牙を剥いた姿で渋る事無く即断で誘いに乗ってきた。
「待って兄さ──っ!?」
そんな彼の背後でようやく動きを見せた白銀色の獣耳の女性が何事かの言葉を面布の奥から発しようとした瞬間、既に武器を構えて戦闘態勢に入っていた白銀の狼男が一足飛びに踏み込んでくる。
身を屈め、地面を蹴り、水平に加速するような踏み込みはまるで弾丸だ。
──速い!
自分や爺が使う「瞬虚歩」のような氣功歩術に類するような超常の速さではないが、それでも生物が肉体を用いて出せる極限と呼べる速さ──その踏み込みで以て相手が繰り出してきたのは正面に構えた盾を用いた突貫だ。
瞬時にこちらの視界を盾で防ぎ、その死角から持っている武器で攻撃を加えるそれは、この速度でなら普通の人間なら初見殺しの技となるだろう。
だがそれは普通の人間ならばの話だ──自分は相手のその踏み込みに合わせて瞬時に前へと出ると、突き出された盾にわざと拳を当てて相手の機を外させる。
「くっ、コイツ!?」
白銀の狼男はこちらの予想外の動きに攻撃へと移るに最適となる機を潰され、次善として間合いの確保を優先して、こちらに持っていた曲刀を振り下ろし迎撃してきた。
相手の技の出掛かりを潰して勢いを削いだと思ったが、こちらが想定するよりも白銀の狼男は随分と身体能力が高いのか、筋力に物を言わせたそれはかなりの威力が乗っている。
ちょっとやそっとの力でその曲刀の軌道を変えようとしても、腕ごともっていかれるだろう──そう判断して両腕に内氣を巡らせると、自身の両腕が瞬く間に変色していく。
爺以外の攻撃を捌く為にこの技を使うのは初めてだ。
【龍氣道・龍翠氣鱗】
両の肘から手指の先までがくすんだ翠色に変化したその拳を握り直し、振り下ろされた曲刀の刃に合わせるように拳で弾くと、高い金属音をその場に響かせて狼男の持つ曲刀の刃に罅が入る。
「何っ!?」
内氣で硬化した拳には傷一つない。
白銀の狼男の顔が驚愕に変わり、その隙を懐に潜り込むべくさらに一歩、間合いに踏み込もうとするが、相手はすぐにそれをさせまいと下段から振り上げるような蹴りを放ってきた。
動揺からすぐに立て直し、一瞬で対応をしてくる速度は反射並み──やはり戦い慣れている。
狼男の鋭い蹴りを紙一重で躱すその隙を突いて、相手は動きを反転させてこちらとの距離を取るように後ろへと下がろうとする。
普通なら間合いを図り、仕切り直すのだと考えるが、そんな温い相手でない事はこの数瞬の立ち合いだけでも十分に理解していた。
十中八九、誘いだろう。
しかし、例えそれが誘いだったとしても、胸の奥から湧き上がるこの衝動は抑えようがない。
──敢えて乗ってやろうじゃないか!
持ち上がる口角をそのままに、自分は相手を追うように前へと出る。
するとそれを待ち構えていたかのように、白銀の狼男の蒼眼がギラリと光った。
『穿て、氷の牙。其は数多なる狼なり』
白銀の狼男が発するその言葉は、単なる言葉ではない。
小さく呟くように発せられた筈の言葉であるにもかかわらず、“力”を宿したとしか形容し得ないその独特の言葉の感触は、周りの喧騒とは別にはっきりとこちらの耳にまで届いていた。
そうしてその言葉と共に、相手の狼男の体内で大きく氣の巡りが活発化すると、巡っていた氣が奇妙な流れを見せて外へと排出され、それらは幾つもの塊を形成し、一つ一つが形を成していく。
「マジかよ!?」
その相手の氣の流れに驚愕し、思わずそんな言葉が口を突いて出た。
驚いたのも無理はない。
内氣を練り上げ肉体の強化や、衝撃時に瞬間的に解き放つ事は自分でもある程度できるが、あのように体外で氣を形作る──しかもそれが複数となれば自分でも難しい。
だが相手の放った氣が形作られるその様子を見て、さらに我が目を疑う事になる。
白銀の狼男の周囲に散った氣の塊はみるみる内に目に見える物質へと変化し、それらは一つ一つが円錐状の氷の塊へと変わると、風を切るような音と共にこちらに向けて文字通り弾丸のように飛んできたのだ。
「マジかっ!?」
とりあえず飛来する幾つもの氷の弾丸を、致命傷となるだろう物を中心に龍翠氣鱗状態の両手で迎撃するが、何発かは肩などを掠り、傷口からはうっすらと血が流れ落ちた。
こちらのそんな対応を見て、相手の狼男の眉間に皺が寄る。
恐らくこちらを油断できる相手ではないと判断したのだろうが、それはこちらも同じ事が言えた。
爺も氣弾を生み出し、それらを用いて遠・中距離の攻撃に用いる事はあるが、それら練り上げた氣弾が物質に変化するなど見た事も聞いた事もない。
あれではまるで──、
「おいおい、どうなってんだ。狼男は魔法使いか何か?」
そんな自分の軽い独り言に、相手の白銀の狼男の頭頂部にある大きな獣耳が反応して動く。
見据えられた蒼の双眸は真っ直ぐにこちらに向けられ、油断なく構えをとる。
それに反応して自分も油断なく構え直し、浅く長く息を吐き出した。
そうだ、今はそんな些末な事を気にしている場合ではない──。
この肌にひりつくような両者の間を覆う氣迫の鬩ぎ合い──爺以外の相手でこれほど濃密なものを感じられるのは初めてだ。
やはり自分の読みは間違っていなかった。
お互いの視線が交錯し、両者の間で鬩ぎ合っていた氣迫が一層膨れ上がり、共に初撃を相手に入れる為に動こうとした瞬間、その間に割って入った者がいた。
「待って下さい、シグル兄様! この人は違うのです!」
そう言って両手を広げて自分と白銀の狼男の間に身を晒したのは、先程まで舞台の中心で呆然としていた面布で顔を隠した白銀の獣耳を持つ女性だった。
どうやら彼女の言によれば、あの白銀の狼男の戦士とは兄妹のようだ。
そしてシグルと呼ばれた白銀の狼男は、自身の前に立ちはだかった彼女の行動に動揺して、こちらへの意識を外して彼女に向かって信じられないという風な顔で怒鳴り声を上げた。
「ルーテシア! 何を考えている!? 人間を庇うなど、正気なのか!?」
シグルは興奮してか、彼の背後に垂れていた狼の尻尾がピンと上に持ち上がり、緊張したような動きを見せているのはやはり身体が狼に近いからだろうか。
それに対するシグルの妹──ルーテシアと呼ばれた彼女の白銀の尻尾も同様に立ち上がっている。
彼女はこちらに背を向けたまま、対する兄であるシグルに端的な説明の言葉を口にした。
「この人は──この人間の方は私が儀式で呼び出した、“王の器”の新たな主なのです!」
彼女のその言葉にシグルは驚愕に表情を変え、さらには周囲にいた他の獣人達からも動揺と悲嘆の声を上げさせる結果になった。
「そんな、馬鹿な!? 父上の形見であった“王の器”の後継者が人間だと言うのか!?」
白銀の狼男──シグルがその双眸を見開き、こちらを信じられないモノを見るような目で睨み付けて曲刀を差し向けてくるが、細かい事情を把握していない自分にはさっぱりな話だ。
すっかり興が削がれた自分は構えを解き、大きく溜め息を吐いて肩を竦めて見せると、向かい合っていたシグルの眉根とその狼の特徴である長い鼻筋に深い皺が刻まれた。
「いや、だからと言って何故人間を庇うのだ、ルーテシアよ!? その男は人間なのだぞ!」
シグルの一喝が神殿内に響く。
ルーテシアはそんなシグルに向かって小さく首を振って返した。
「兄様、この方は襲って来た人間から私を守って下さいました。そのような方に礼を尽くす事無く手に掛けては、それこそ我々が忌み嫌う人間と同じ所業です」
白銀の獣耳を垂れ、項垂れるような姿で呟くように訴えるルーテシアに、シグルが名状しがたい氣を発しながら歯を食いしばる。
彼らのそんな様子を眺め、自分は自身の眉間を親指で押しながら小さく息を吐き出した。
細かい事情は分からないものの、自分がこの場に居る事が誰の歓迎も受けていないという事だけははっきりとしているようだ。
そんな事を考えながら周囲を見回すと、既に武装した人間の集団は神殿内から姿を消していた。
否、正確に言うのならば、神殿内に残っていた人間達は、後からやって来た獣人の戦士達によって掃討され、この場から撤退できたのはあの隊長格の男を中心とした集団だけのようだ。
神殿内に残っているのは獣人姿の者達と自分だけとなっていた。
その場に重苦しい雰囲気と緊張が漂う中、神殿内の床石を杖で突き、高い音を響かせながら前へと進み出て来て、朗々とした声を上げたのは老いた狼人だった。
「ルーテシアの言う通りだ、シグル族長。少し冷静にならんか。ルーテシアを心配するなと言わんが、お主は牙の族長でもあるのだぞ」
上質な貫頭衣を身に纏い、全身には彩り豊かな装身具を幾つも散りばめた姿。白銀とは違いやや色艶が失せた白色の毛並みを持つ狼人は、傍から見てもその者が上位の者である事を示している。
その狼人の言葉に、シグルは自らの曲刀を鞘に納めて頭を下げた。
「申し訳ありません、オルク長老。賊の侵入を許したばかりか、妹まで失うかと取り乱しました」
シグルのその言葉に、神殿内の喧騒がひと時収まり、静寂な間が訪れる。
そんな中で、オルク長老と同じような恰好をしたもう二人の獣人が前へと進み出てきた。
「巫女ルーテシアよ、お前さんが呼び出したのはこの人間の男で相違ないのじゃな?」
皺枯れた老婆の声を発したのは、山羊の頭を持つ女性。
身長は百六十弱ぐらいだろうか、比較的背の高い者が多い中ではかなり小柄な体格だ。
波打つように大きく張り出した二本の角を有する黒毛の山羊姿の女性は、その纏っている衣装のせいもあってか何処かの黒魔術の術者のような雰囲気がある。
そんな彼女の問い掛けに、巫女と呼ばれたルーテシアが首肯するように返した。
「はい、サリッサ長老様。メルトアの森に残された最後の“王の器”──その主に選ばれたのは、そこにおられる人間の男性のようです」
ルーテシアのその言葉に、サリッサ長老と呼ばれた山羊の老婆が難しい表情を作る。
「何かの間違いではないのか? 我らに残された“王の器”に人間が選ばれるなど──」
俄かには信じられないという老人の声音を発するのは、サリッサ長老の横に立つ腰の曲がった全身がくすんだ翠色の鱗に覆われた大柄な男で、その顔や姿は二足歩行で歩く蜥蜴のようでもあり、鰐のようでもある。
自分はその姿を見て、以前小さい頃に見た恐竜図鑑に掲載されていた、恐竜が人型へと進化した際の予想図の姿に似ているなという感想を抱いた。
しかし予想図とは違い、全身に鱗を持つその者の頭部にはまるで馬の鬣のような毛が生えており、それが奇妙ではあるものの、同じ人種の存在である事を主張しているようにも見えた。
そんなこちらの内心の感想を置いて、ルーテシアが一歩前に出るように進み出て発言をする。
「恐れながらダリオス長老様。御存知ではあると思いますが、私の父──前の“王の器”の所持者でもあったデルタ族長は、私達のかつての同胞から奪った“王の器”を所持した人間に討たれました。今や森族で“王の器”を持つのはアルドの森のシルディア族長様のみです」
神殿内にいた誰もがその彼女の言葉に項垂れ、辺りに重い沈黙が流れる。
ダリオス長老と呼ばれた大柄な蜥蜴姿の男もこちらとルーテシアとをかわるがわるに視線を向けて大きな溜め息を吐く。
そんな雰囲気に耐えかねて、自分はとりあえずの現状を尋ねる事にした。
「あぁ、大事な話の途中に悪いんだが、誰かオレに説明してくれる親切な者はいないのか? ここは何処で、あんた達は誰で、なんでオレはここに居るんだ?」
肩を竦めて辺りを見ま回す仕草でそんな言葉を周囲に投げ掛けると、あちらこちらから敵意と困惑の入り交じったような視線が向けられる。
自分以外はみな異種族という場で、事情も語られずに放置されるというのはひどく居心地が悪い。
敵対するとなれば、ここから逃げる能力は有している自負はあるが、先程相対したシグルのようの者が複数いれば少々辛い状況に追い込まれるだろう。
一番事情を語ってくれそうな人物は誰かと見回すが、やはり目の前に立った彼女──巫女であるというルーテシア以外にはいなさそうだ。
面布の奥に隠れる瞳を覗き込むようにして、無言で意思を主張すると、彼女は一度その視線をシグル族長へと向け、彼が頷いて返したのを見てこちらに向き直った。
どうやら事情を語ってくれる気になったらしい。
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