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魔王オレ、只今異世界で奮闘中!  作者: 秤 猿鬼
第一部 異世界で魔王
20/24

20話 魔獣・紫晶角豹

「おい! なんで逃げ出した連中を追わない!? 今なら奴らを一網打尽にできるだろ!」


 すっかり人気の無くなった砦内に響くその吼えるような声の主は、鱗族のドルムント族長だ。

 そんな耳奥に響く彼の声を遮るように、自分は自らの耳に指先を突っ込み顔を顰める。


 案の定ではあるが、砦解放を成し遂げた後に姿を見せたドルムント族長は、砦内の片隅に晒されていた同胞の亡骸を見て激怒し、逃走した人間を追撃するよう強硬に主張したのだ。


 これには他の同行している牙の戦士達も同調するかと思われたが、意外な事にその意見に真っ先に難色を示したのは牙族の長であるシグル族長だった。


「私は反対だ。この砦が他者の手に因るとはいえ、ようやく落とす事が叶ったのだ。今は里に向かわせた者が後詰の戦士達を連れて戻って来るまでは動かない方がいい。いつまた人間共がこの砦を奪還しに現れるか知れない中、僅か五十数名の手勢を割いて追撃を掛ければ、最悪の場合、追撃に出た者、砦を防衛する者が共に命を落とす可能性がある」


 シグル族長のその意見にドルムント族長は歯を剥き出しにするように唸り声を上げる。


 恐らく、相手の言い分を正しく理解して一定の正当性を認めつつも、同胞を辱められた怒り──心が納得できていないのだろうという事は、その場にいる誰もが理解できた。


 そんな心の内の葛藤を覗かせるドルムント族長に、自分は先程から進めていた作業の手を動かしながら、揶揄うように声を掛ける。


「ドルムントのおっさんも往生際が悪いな。応援が来るまで砦を確保しておく必要がある事が分かってんなら、その間は大人しく同胞の弔いでもしてやったらどうだ? オレみたいにな」


 そう言って肩を竦めながら、足元に積み上げた薪山をさらに高く積む。

 これは砦で亡くなった兵士達の亡骸を火葬する為の準備だ。


 最初は穴を掘って土葬にでもしようかと思ったのだが、ルーテシアが亡骸は火葬するのが普通だと言うので、こうやって準備に勤しんでいるという訳だ。


 何でも、遺骸をそのまま放置した場合、良くないモノが取り憑き生者を襲う“屍者(マールトゥス)”なる存在に変異するという話だった。


 全ての遺骸がその屍者(マールトゥス)に変異する訳ではないらしいが、そんな話を聞くとますますこの世界が自身の知っている常識の埒外にあるのだと実感させられる。


 ドルムント族長はこちらのそんな火葬の準備を一瞥して小さく鼻を鳴らすと、その爬虫類然とした瞳を大きく見開き、怒りの声を上げてこちらの言動に噛み付いてきた。


「そもそも、なぜ貴様は砦の連中をみすみす逃すような真似をした!? 貴様程の力と“王の器”があれば、もっと多くの人間を倒す事も可能だった筈だ!? 違うかっ!?」


 こちらの挑発にのった彼は声を荒げるようにしてそう言うと、手に持っていた斧槍の切っ先をこちらに向けて、睨むような視線も同時に向けてくる。

 そんな彼の視線を見返しながら、自分は口元に大きな笑みを浮かべてそれに答えた。


「ここは、素直に“ありがとう”と言うべき場面か? オレの力を随分と高く買ってくれてるようで何よりだよ。あとは砦に関して言えば、オレは“砦を落とす”とは言ったが、“砦の兵士を全滅させる”とは一言も言ってないぜ?」


 自分のその態度がさらに火に油を注いだのか、ドルムント族長の眉間が大きく歪む。


「ぬぅ! 貴様──」


「止めて下さい、二人共!」


 ドルムント族長が険しい顔でこちらに大きく歩み寄ろうとしたその時、二人の間に割って入るようにして一触即発の雰囲気を止めたのはルーテシアだった。


「ドルムント小父様、シグル兄様の言う通りです。まずはシンが落としたこの砦の防備を固めてから動く事が肝要かと。それに、人間達を追撃して東へと向かうよりもまず、北のアルドの森の方達と連絡を取る事の方が先の筈です」


 彼女のその言葉に、ドルムント族長が考えを巡らせるように唸り声を上げて足を止める。

 そんなルーテシアの意見に同意するように、彼女の兄であるシグル族長がその言葉を継いだ。


「ルーテシアの言う通りだろう。砦の外には人間が作った二本の道が開かれていた。東の人間領との境へと向かう道と北のアルドの森へと続く道だ。アルドには“王の器”を持つ爪族のシルディア族長がいるから、人間達もそう簡単に侵略する事はできていない筈だ。まずは彼らとの連絡路を確保し、連携して人間達をこの森から排除するように動いた方が確実だろう」


 シグル族長のその意見にルーテシアも頷き返し、二人の視線がドルムント族長へと向かう。

 彼もその視線を受けてバツの悪そうに顔を歪めると、後ろ頭を掻いて大きく溜め息を吐いた。


「ちっ、確かにシグルの坊主の言い分には一理あるか……。仕方ねぇ、応援が砦に到着次第、アルドの森へと向かい、爪族のシルディアの嬢ちゃんとの繋ぎを持つか。それで文句はないだろ?」


 ドルムント族長はそう言って確認の視線を向け、シグル族長とルーテシアの二人が同意を示そうと頷く動作を制するように、自分は手を挙げて止めた。

 三人の視線がこちらに集まり、怪訝そうな感情が彼らから覗く。


「いや、アルドの森へ行くのはオレとシグル族長らの戦士隊、あとはルーテシアだけの方がいい」


「なっ!?」


 自分のその意見に、シグル族長は何やら考える仕草をし、ドルムント族長は明らかに不服な表情となってこちらの顔を睨み、抗議の声を上げようとする。

 しかし、それを遮るようにシグル族長が彼の前に一歩進み出てその発言を封じた。


「確かに、そちらの方がいいだろうな。我々が北のアルドの森へと向かっている際に、東から人間達がこの砦の奪還に現れ、再びここが失陥するような事があれば、退路を断たれ孤立する事になる。そんな重要な拠点を守るには相応の手練れが指揮を執るべき──となればドルムント族長が適任だろうな。一刻も早く爪族との連絡を望むなら、牙族の我々の足が一番だ」


 だいたい自分が言いたかった事は言ってくれたので、シグル族長の意見を肯定するように頷く。

 表向きの理由としては妥当な所だろうし、人間の自分が意見するよりも受け入れやすいだろう。


 ドルムント族長は何やら難しい顔をしているがシグル族長の意見に一定の理解を示してか、それ以上の抗議の声を上げる事無く、ただ鼻息荒く握り込んだ拳で砦の壁を無言で殴る。

 怒りの矛先を失っての事だろう。


 本音を言えば今のドルムント族長が居ると、人間との交渉の余地が無くなるからだ。

 アルク下士官が逃がした元王国兵達だが、彼らの気配が北へと向かうのは既に把握していた。


 普通逃げるのなら人間領がある東へと向かう筈の所を、何故か彼らは北にある他の森族が暮らすというアルドの森方面へと逃れる動きを見せた。恐らく何か理由があるのだろう。


 その理由は判然としないが、とにかく元王国兵である彼らと取引ができないかと思ったのだ。

 規模の大きいと思われる帝国と正面から事を構えるのは得策ではない。


 正面からの殴り合いの喧嘩は個人的には歓迎なのだが、如何せん、森族側に帝国の物量と正面切って戦うだけの戦力的余裕がないのが実情だ。


 自分がこの地を訪れる前まで、既に森の奥へと押し込まれていたのがその証明でもある。


 正直、自身の力にはある程度の自信と自負はあるが、それでも己惚れているつもりもない。

自分一人が森族側の戦列に加わった所ですぐに戦局を覆すような事はできないだろう事は、自分でも理解しているつもりだ。


 まずは森族側へと向けられている帝国の戦力を減らす──それには帝国の敵が増える事が一番の近道だろうという訳で、帝国に占領されたという元王国兵との接触の機会を狙っている。


 あのアルク下士官が元王国の中尉だったという事を考慮すれば、王国が帝国に占領されたのは十年、二十年前の話などではなく、わりと最近の話の筈──となれば帝国の支配に抵抗する勢力などもまだ活発に活動している可能性が高い。


 そんな組織・集団と接触し、できれば協力や連携など──もしくはそこまではできなくとも、その存在が明らかになるだけでも森族側が取れる選択肢は増える筈だ。


 本当はその伝手や情報をアルク下士官に求めるつもりだったのだが、あのような思いもしない結果になってしまったのは、今考えても残念でならない。


 しかし済んでしまった事をいつまでも嘆いていても何も状況は変わらないのも確かだ。

 自分はそう自身に言い聞かせると、積み上げていた薪に種火を落とし火を着けて立ち上がる。


 誰もが口を開かず、勢いよく燃え上がる炎の先から空へと昇って行く煙の筋を目で追いかける。

 しばらくの間、そうして風にたなびく煙の行方を眺めていた自分は、気持ちを切り替えるように大きくその場で伸びをしてから砦の入り口に足を向けた。


「ドルムント族長様が納得したならオレは応援が来るまでの間、この砦の中を見回って来るよ」


 皆の視線を背中に受けながらそう言って歩き出すと、背後で追いかけて来る気配があった。


「私もご一緒します」


 背中越しに振り返った視線の先、声の主はルーテシアだ。

 白銀の尻尾を振りながら慌てて付いて来る様子は忠犬のように見えてしまうのは、やはり彼女の持つ狼の耳や尻尾のせいだろうか。


 自分は彼女の言葉には答えず、小さく肩を竦めて前を向き、真っ直ぐに砦の中に足を踏み入れた。

 人のいなくなった砦の中はひっそりと静まり返っており、踏みしめる足音が大きく反響する。


 石造りの砦は短期間で作られたというわりにはしっかりとした構造をしており、成る程、死者の谷という自然の防壁とも相まって、力押しで陥落させるには中々に骨だったろう事を窺わせた。


 ただ砦の規模は然程大きくもなく、周囲をぐるりと回るだけならば半時も掛からないぐらいだ。

 そんな砦の外周に沿う形で歩いて行くと、不意に天井のない一画に出た。


 天井が崩落したという訳ではなく、意図的に切り抜かれた天井はまさに吹き抜けとなって空を仰ぎ見る事ができる。そしてその吹き抜けの区画には中央に見た事のある代物が鎮座していた。


 高さは四メートル程だろうか。

 それはメルトアの森で見たビル程の高さのある巨大な結界塔のミニチュアといった代物で、オベリスク状の石柱の表面には同じように紋様が刻まれていた。


 しかし古代文明の残したどこか機械文明じみた結界塔とは違い、材質は石材で、表面に刻まれた紋様も機械的な正確さはなく、職人の手に因って彫り込まれた雰囲気が残っている。


 その模造結界塔と言うべき代物を目の当たりして、ルーテシアは小さく息を飲む。


「人間は結界塔を作り出せるのですね……」


「森族はこれを作る事はできないのか?」


 驚き見上げるルーテシアに、自分は周囲を見回しながらそんな質問を彼女に向けるが、彼女はただ黙したまま悔しそうな表情で力無く首を左右に振る。


 かつて彼女の先祖達によって築かれた古代文明の遺跡──魂源(マナ)を任意の場所へと対流させる事によって、周囲の魂源(マナ)濃度を下げる機能を持つ結界塔を作り出すその技術はもう森族の中では失われたようだ。


 彼ら森族は外界の濃い魂源(マナ)に晒されても肉体が変異しない為、無くても困らない代物ではあるが、結界塔によって囲まれた区域には魔獣が近づかないという効果は、魔獣の跋扈する森で暮らす民の彼らには有用な技術でもある事は間違いない。


 森族が生み出したというその技術が、今は人間だけが知るというのは何とも皮肉な話だ。

 今は森族よりも人間の方がこういった技術力は上なのかも知れない。


 ただそれでもこの結界石柱を見る限り、古代文明の技術力に追いついているとはお世辞にも言えない所を見ると、致命的な技術格差があるとも言い切れないのが救いだろうか。


 この砦もそんな人間が作り出した結界石柱によって守られているのか、こうした吹き抜けの間が砦を囲むような形で一定間隔ごとに設けられていた。

 その様子はさながらちょっとしたミステリーサークルのようでもある。


 そんな砦の様子を観察しながら歩いていると、奥から小さな気配を感じてそちらに視線を向けた。

 視線の先にあるのはやや広めの倉庫のような場所で、明かりも無く薄暗いそこには幾つもの木箱や予備の武器らしき物などが積まれている様子が見てとれる。


 自分は小さな気配を探すようにその倉庫に足を踏み入れ、暗がりの中を進んで行く。

 そんなこちらの様子に気付いたのか、ルーテシアも慌てて小走りで寄って来て声を掛けてくる。


「シン、どうしたのですか?」


 広めにとられた石造りの倉庫内に彼女の声がいやに大きく響き、自分は口元に指を当てて静かにするようにというジェスチャーを彼女に向け、小さな気配の主の位置を探る。

 しかし、気配の主はあまり大きく動いた様子が見られず、じっとしているようだった。


 訝しむような表情を見せるルーテシアを置いて、自分はさらに倉庫の奥へと進んでいき、その一番奥の暗がり中に無造作に置かれた少し大きめの鉄籠を見つける。


 どうやら気配の主はこの鉄籠の中からのようだ。


 鉄籠の大きさは縦横の幅は一メートルもなく、高さは膝上程の五、六十センチ程だろうか。

 雰囲気としては少し大きめの鳥籠のような印象だが、使われている素材を見るとかなり頑丈そうな代物で、その籠の中の暗がりから警戒するような黄金色の瞳が覗いていた。


「ヴゥ~~」


 喉奥から唸るような威嚇の声を漏らしていたのは一匹の猫だ。

 否、正確を期すならば、猫のような動物と言うのが正しいだろう。


 大きさはまさに正猫程で、容姿も猫によく似てはいるが決定的に違う箇所が二箇所。

 額には美しい輝きを放つ紫色の角状の突起が突き出ており、腰から伸びる尻尾は二股に分かれ、一方が黒、もう一方は白という二色の尻尾が警戒の為か逆立っている様子が見える。


 全身の毛並みはこの薄暗い倉庫の暗がりに溶け込むかのような艶やかな黒色をしており、首元だけに白い襟巻のような柄模様が入っていた。


「……おぉ、変わったネコちゃんがいるな」


 自分はそんな事を口に出しながら、警戒するその珍しい角付きの猫をこれ以上怖がらせないようにゆっくりとした足取りで鉄籠へと近づいて行く。


 すると背後から追いかけて来たルーテシアがそれを見て、警戒するような鋭い声を向けてきた。


「!? シン! それは紫晶角豹(アグリ・トマスタ)の幼体です! 角から雷撃を放つ、危険な魔獣ですから、無暗に近づかない方が──」


 そんな注意を促す彼女に、自分は振り返って再び静かにするようにという仕草を向ける。

 倉庫内に静寂が戻ると、再び鉄籠の中の魔獣だという猫に向き直り、そろそろと足を進めた。


 雷を放つ危険な魔獣だという彼女の話を信じていない訳ではないが、猫の容姿をしたその愛らしい姿を見ると、つい撫でたくなってしまうのは魔性の魅力を持った獣、魔獣と言えなくもない。


 それに人間が檻に閉じ込める事ができている時点で、対処不可能ではないという事でもあった。


 こちらから距離をとるように鉄籠の隅で唸り声を上げる紫晶角豹(アグリ・トマスタ)にそっと氣を集中させた指先を伸ばそうとすると、額から突き出た水晶のような角から青白い紫電が走る。


 パシンと空気を弾くような音とも発せられたそれは、雷撃というよりはスタンガンの放電のような代物で、氣で強化した指先でデコピンをするように弾くと事も無げに掻き消えていた。


 普通の人間くらいでも一時の麻痺程度の威力しかないそれは、まだ幼体故か。


「悪いが、オレにはその程度の電撃は効かんぞ」


「ニャヴゥ……」


 その後も幾度かこちらに向けて放電を仕掛けてきたが、その度に同じ要領で弾き消していると、紫晶角豹(アグリ・トマスタ)はとうとう二本の尻尾を股の下に挟み、立っていた耳を畳むように寝かせて奥でうずくまってしまった。


 こちらにはどうあっても敵わないと察したのだろう。


 魔獣と言えども野生の動物と同じで、強い相手には逃げるか降参するかの判断において、逃げられない鉄籠の中で後者を選択したようだ。


紫晶角豹(アグリ・トマスタ)を手懐けるような人、初めて見ました……」


 自分と紫晶角豹(アグリ・トマスタ)のそんなやりとりを見ていたルーテシアは、何やら安堵の溜め息を吐いて、やや驚きを含んだような声音でそんな事を言った。


 まだ幼体だと言っていたので、まだ慣らし易い段階だったのかも知れない。


「人間はこんな危険な魔獣を捕まえてどうするつもりだったのでしょうか?」


 こちらを不安そうな瞳で見上げる紫晶角豹(アグリ・トマスタ)の幼体が入れられた頑丈そうな鉄檻を眺め、ルーテシアはそんな疑問を口にする。


「まぁ人間には凶暴な獣を自身の手中に収めて、自らの権力(ちから)を誇示する者や、珍しいからという理由でそれらを収集する好事家も多くいるから、そんな所だろう。中には可愛いから飼ってみたいという奴もいるだろうしな」


 そう言って鉄檻を覗き込む自分に、ルーテシアは信じられないという表情で首を振った。


「可愛いって、本気ですか? この魔獣は、今はこの程度の体躯ですが、大きくなれば人の大きさ程にもなって、その強さは今の比ではないのですよ?」


 ルーテシアはそう言いながら、大きく成長した紫晶角豹(アグリ・トマスタ)の体躯を自らの腕の動きで表す動作をして見せて、あらためて信じられないという表情を作った。


 彼女が示したその大きさは、だいたい豹や虎くらいの大きさだろうか。

 確かに猛獣だろうが、あちらの世界でも豹や虎は動物園でも飼われているし、中には個人で飼っているような者もいると聞くので、それ程驚くような行為でもない。


 そんな驚く彼女をおいて、自分は腰に下げていた小袋からある物を取り出す。


 こんな森の中で魅惑のもふもふと(まみ)えたのだ、屈服させた後に懐柔し、その艶やかな毛並みを思いっきり撫で回してやろうではないか──。


 この世界へと来る前に撫で損なった猫の姿を思い出しながら、満面の笑みでその取り出したモノを鉄籠の中の紫晶角豹(アグリ・トマスタ)へとそっと近づけていく。


 それは昨夜、森族が仕留めた大蜘蛛(アラニア)の足肉の残りだ。

 焚火の熱でじっくりと乾燥させたそれは、水分が抜けて固く絞まり、どことなく棒状の乾燥させたホタテの貝柱のような見た目へと変わっていた。


 これは森族が大蜘蛛(アラニア)を捕らえた時によく作る保存食の一つだそうで、凝縮した旨みと噛み応えのある感触はなかなかに癖になる一品だ。

 これが乾燥ホタテと同様の旨みを持つならば、是非とも炊き込みごはんの具材にしたいものだ。


「ほれ、ほれ」


 そんな酒飲みのお伴的なそれを鉄籠のそっと差し入れて、誘き寄せるように振って見せる。

 しかし、すぐに飛びつくような事はなく、未だに警戒したような目で揺れる乾燥大蜘蛛(アラニア)の足肉の行方を追いかけていた。


 どうやらまるで関心がないという訳でもないようだ。

 もう少し相手に譲歩する形で誘き寄せた方がいいかも知れないなと思い、鉄籠の扉に付いていた錠前を引き千切って、籠を開けてやる。


 そうして今度は入り口に誘うように、乾燥大蜘蛛(アラニア)の足肉を振って見せた。


「ニャウ……」


 そんなこちらの様子に戸惑っているのか、紫晶角豹(アグリ・トマスタ)は入り口で踊るエサとこちらの顔とを行ったり来たりしながら、恐る恐るという風に鉄籠から外へと出て来る。


 そこへすかさず目の前に乾燥大蜘蛛(アラニア)の足肉を置いてやると、徐にその匂いをフンフンと鼻をひくつかせてひとしきり嗅いだ後、こちらの様子を窺うように見上げてくる。


 自分はそんな様子を見せる紫晶角豹(アグリ・トマスタ)に飛びつきたい衝動をぐっと堪え、ただ黙って置いた荷物袋からもう一つの乾燥大蜘蛛(アラニア)を手に取り、先に齧って見せた。


「旨い」


 そうするとようやく紫晶角豹(アグリ・トマスタ)は足元に置かれた乾燥大蜘蛛(アラニア)に噛り付き「ヴニャヴニャ」と唸るような声を上げて必死に噛み付き始めた。


 目の前に無防備に晒される艶やかな黒の毛並みの頭頂部に思わず手が出てしまいそうになるが、ご飯中に手を出して警戒度を上げてしまえば元の木阿弥だ。


 砦に応援の部隊が到着するまであと一日以上は掛かる。


 ──焦る事は無い、じっくりと懐柔してその腹毛に顔を埋めてやるぞ。


 すっかりと目的を見失った自分は、夢中で乾燥大蜘蛛(アラニア)に噛り付く角猫の様子を笑顔で見下ろしながら、次の懐柔作戦を頭の中で練り始めていた。


誤字、脱字などありましたら、感想欄までご報告頂ければ幸いです。

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