15話 瘴気の森
明朝。
鬱蒼と生い茂る森の木々の間を満たすように、冷気を含んだしっとりとした朝靄が辺りの視界を遮り、目の前には夜の森とは違う独特の静けさが広がっている。
自分を中心としてシグル族長やドルムント族長、そしてルーテシアを含む砦攻略組が森族の皆に見送られてメルトアの森の里を発った。
砦攻略組と言っても、今回は主に自分の監視兼案内役で、砦では後方で待機の予定だ。
構成はほとんどがシグル族長から選ばれた牙族の戦士達と、あとは数人、ドルムント族長のお付きがいるだけで、総数で言えば自分を含めて五十名程とかなり少ない。
そもそも広大なメルトアの森の中で暮らす森族の総数自体が少なく、聖地にある集落以外の数も合わせてようやく五千に届くかという人数しかいないのだと言う。
その中で武器を持って戦える事のできる数は千五百から二千程と数で言えば決して多くはないが、人口の比率から言えばかなりの戦闘民族だとも言える。
しかし、この現状の数は人間側の侵略に抵抗し、メルトアの森まで後退させられた状況での数で、会戦前に比べるとメルトアの森に限って見ても約半数近くの人口を失ったと聞く。
それを考えれば、森族の中で人間に恨みを抱いていない者など皆無だろう。
ドルムント族長をはじめとした森族達の自分に対する反発は当然のものと言える。
むしろ、そんな状況下に置かれた中で、三長老やルーテシアのような考えを持ち、人間である自分の言い分を考慮して判断を下すというのはなかなかに真似できるものではない。
その点で言えば、自分は随分とラッキーだったと言える。
ラッキーでない事は、自分が呼び出された森族陣営がかなりの劣勢に立たされている事だろうか。
いや、戦場での研鑽を望む上では、優勢側に加勢しても得られるものが大きいとは思えないので、これはこれで自身が望んだ戦場の形ではあると思う。
今まで己が磨いてきた技や力がこの戦場で通じるかどうか──。
傭兵となって海外へと出ると宣言した日から爺にも何度も言われた事ではあるが、戦場という大きな場で個人が武力で以て覆せる範囲には限りがあるという話を幾度もされた。
それに関しては一応は理解しているつもりだ。
懸念事項は人間側の勢力の大きさだが、この世界特有の事情──人間が外界で自由に行動できない事を考慮に入れても、個々の戦闘力で大きく上回っているであろう森族の現状を鑑みるに、相当の戦力を保有している事を窺わせる。
果たして自分の力で、森族の情勢を何処まで覆せるのか。
まずはこれから向かうギルミの森に築かれているという人間の砦の攻略が試金石になるだろう。
そんな事を思案していると、丁度前を歩いていたルーテシアが肩越しにこちらを振り返り、その澄んだ蒼い瞳に何やら疑問を浮かべる様子を覗かせる。
自分はそんな彼女の視線で問うようにして僅かに首を傾げた。
「ん、何だ? オレの顔に何か付いてるのか?」
そう言って返した自分の問いに、彼女はやや困ったような顔で小さく首を振る。
「いえ、付いているというか……シンは何故その仮面を?」
やや困惑したような声で問い返す彼女の蒼い瞳の奥には、自分が仮面を被った姿が映っている。
自分はそんな自身の顔面に装着した仮面を撫でるように触れて、口元に小さく笑みを浮かべた。
この仮面は選定の神殿の祭壇に“王の器”と一緒に置かれていた代物だ。
元々儀式用の飾り物だというので、今回の砦遠征の為に三長老から許可を受けて持ち出した。
額に四本の角と眉間に第三の目が描かれ、上顎に並ぶ牙と相まってその姿は鬼や夜叉の如く、これがかつて森族を滅亡の縁から救い出したとされる救世主を象ったという物なのだから驚きだ。
そして自身の特徴的な髪形を隠す為に頭部を覆うようなフード付きの外套と合わせて装備すれば、少し奇抜な恰好をした森族──もとい人間が言うところの魔族のできあがりという訳だ。
今朝は里の集合場所にこの格好で行くと、他の同行者や見送りに出て来ていた他の森族の者達から困惑の目で見られるという洗礼を受けた。
勿論、この格好は伊達や酔狂、ましてやお洒落を意識してやっているつもりはない。
「オレは人間だからな。森族に混じって今後も行動するなら、顔は隠しておいた方が後々、それが役に立つ事もある筈だと思ってよ」
そう言って薄く笑みを浮かべて返すと、ルーテシアは僅かに小首を傾げて腑に落ちないという視線でこちらを見返してきた。
そんな彼女自身も今回は、ローブを目深に被ってその整った人の顔立ちを隠すようにしている。
自分はそんな彼女に軽く手を振りながら、何でもないという風に装い、先を行くように促す。
この仮面と外套は砦攻略後に活きてくるものだ。
言っては何だが、彼女を含めた森族全体に言える事だが、敵である人間の事に関して碌な情報を持っていないという事が今は最大の懸案事項だと考えている。
数年前まで彼ら森族達は森の中の集落で木を切り、畑を耕し、魔獣などを狩って暮らし、人間達とはほとんど関わり合いを持たずに過ごしてきたという。
それが突如、人間側の森への侵攻開始を機に、人間達の住む領域と隣接していたギルミの森はあっさりと陥落させられ、ギルミの森を挟んで交流のあったもう一つの大きな森であるアルドの森とも今は交流が途絶えている状況が続いているという。
人間は何故急に森族の領域を侵してまで攻め入って来たのか。それがどの手の勢力の差し金に因るものなのか──彼ら森族はそれらの事情を全く把握していなかったのだ。
彼らは人間達を一個の大きな勢力だという認識で見ているようだが、人間は集団を形成するものではあるが、そう簡単に人間全体が纏まった集団になるとは到底思えない。
人間側社会の行動が変化した要因で考えられるのは、技術などが向上してこれまで成し得なかった事を成せるようになった、もしくは彼らの指導者や組織が変わったなど、多岐に渡る。
ここで人間側の事情をあれこれと予測するよりも、直接彼らの領域に潜り込み、そこで事情や状況を把握する方が何かと手っ取り早いだろう。
そんな時に顔が割れていなければ、堂々と人間側の社会に潜り込む事ができる。
選定の神殿から逃亡を図った人間達とは顔を合わせてはいるが、逃走中にドルムント族長らと遭遇戦となって一人を残して全滅したというので、その生き残りと鉢合わせする事でも無ければ早々に相手側にばれる事も無い筈だ。
だが今はその案を彼らには伏せている。
今の状況でこれらの案を提案すれば、彼らは自分が人間側に亡命するのではないかと勘繰るか、最悪の場合そのように断定してこちらの身柄を拘束するなどの対処にあたる可能性もあった。
今はまず砦の攻略に専念し、森族達からの信頼の第一歩を勝ち得るしかない。
そうやって胸中で決意をあらたにしていると、前を行くルーテシアが再びこちらに顔を向け、その手で天を振り仰ぐようにして先を示した。
「シン、あれがあなたが見たがっていた聖地の結界を担う、“結界塔”の一つです」
そう言って彼女が手で示す先には、まさに巨大な塔のような建造物が聳え立っていた。
いや、正確に言えばそれは「塔」というよりも巨大な石碑──オベリスクだろうか。
高さは七十~八十メートル以上だろうか。ビルの十階建て以上の高さに相当するその古代の建造物は、鬱蒼と茂る森の木々の中に突如としてそこに姿を見せていた。
面白いのは結界塔と呼ばれる古代の建造物を境にするように、森の木々の高さが内側と外側で大きく異なる事だろう。
手前にあたる内側の木々の背の高さはおおよそ四~五十メートル程、これでもかなりの高さを誇るが、結界塔の外側に見える木々はその結界塔と同等かそれ以上の高さを誇っていた。
中には百メートル近くはありそうな巨木の姿もある。
まるで遠近感の狂ったようなその光景は、どこかアメリカのシエラネヴァダ山脈に自生するというジャイアントセコイアを彷彿とさせるものがあった。
そんな奇妙な光景の境に建つ古代の建造物──結界塔と呼ばれるその建材は、恐らくあの選定の神殿に使われている物と同様の物だろう。
鈍色で硬質的な表面。そこには幾何学的な紋様がびっしりと刻み込まれ、その見上げるような高さのオベリスクの全面を上から下まで覆い尽すように施されている。
聖地の中心だと言う選定の神殿から、この結界塔と呼ばれるオベリスクまでの距離を思えば、この聖地という地はかなりの範囲がありそうだ。
ルーテシアの話に拠れば、この結界塔は選定の神殿を中心として、円を描くように十二本が配置されているという。森族は聖地の極一部しか活用できていないようだ。
それは彼らの総数自体が少ないので、致し方のない事なのだろう。
しかし、これが古代の都市の遺構だとするなら、古代の都市はかなりの規模だった事を窺わせる。
そしてこの結界塔の外側──これより先、人間は魔道具無しでは活動のできない世界だと言う。
あの結界塔の外側の広がる巨木の森も、やはりその人間を害する程という濃い魂源の影響に因るものなのだろうか。
人間が魔道具無しに外界で活動すれば、たちまち肉体は異形へと変貌するという。
すると考えられるのは、人間の暮らす街などもここの聖地の結界塔のような役目を果たす機構が施され、その内側という限定された場所に街を築いていると考えられる。
彼ら人間が森の中にまで分け入って来たとなれば、彼らはその拠点となる場所に自らの生存圏となる空間を確保する──結界などを構築する技術があるとみて間違いないだろう。
逆に森族は外界でも魔道具の補助がなくとも特に支障なく行動できる事から、これらの結界技術は既に失われて久しいらしく、ますます以てこれが何の為に築かれたのか謎の存在となっている。
普通に考えるのならば、これらの結界技術を必要としたのは間違いなく人間側だという事。
それを踏まえて考察するならば、このメルトアの森に在る聖地はかつて人間の居住地だったという事が想像されるが、今そんな事を彼ら森族に問えるような状況ではない。
もし人間側の侵攻の理由が聖地奪還という大義名分であれば、森族と人間との争いはかなり泥沼なものになる事が予想される。
「ふぅ、流石にあちらのエルサレムの攻防みたいなのは御免被りたいな……」
そう言って自分は独りぼやきながら、結界塔を見上げるようにその視線を空へと向けた。
すると視界の先、結界塔の上空で幾つもの影が蠢いている姿に、思わず目を見開く。
「なんだ、あれは?」
誰ともなしに漏れたその自分の疑問に、後ろから付いて来ていたシグル族長が同じように空を見上げて、その正体を端的に答えた。
「あれは空怪魚だ」
「空怪魚?」
彼のそのあまりにも簡潔な、それでいて馴染のない単語の答えに首を傾げ、それを再び見上げる。
結界塔の上空を泳いでいるのは、まさに魚影と言って差し支えないだろう。
様々な形──サメやマグロ、タイやチョウチョウオなどに似たものから、奇怪な深海魚を思わせるものまで実に様々な姿形をした魚が空を泳ぎ回っているのだ。
それらは本当に魚としか言えず、特に空を飛ぶ為の羽根が生えているという様子もない。
しかし、普通の魚とは違い魚体はいずれも半透明で、日の光を浴びてキラキラと虹色の光を放っており、そんな空を泳ぐ摩訶不思議な魚の姿を地上から見上げていると、自分が立っている場所がまるで海底のような錯覚を覚える。
そんな不思議な光景に目を奪われていると、ルーテシアが補足の説明を語ってくれた。
「空怪魚は空を泳ぐ魔獣の総称です。主に結界塔の上空や、黄泉の門、死者の谷といったような魂源の濃い場所を回遊しています。特に害のあるものではないですが、強力な魔法などに反応して襲って来る事もありますので、近くではあまり魂源を使う事はお勧めしません」
彼女のその説明に、自分は感心したように頷きながらその空怪魚を凝視する。
確かに、この結界塔は周辺の氣を吸い上げて、それを上空高くに解き放っている様子が氣の流れで感じられた。その様はさしずめ人工の氣脈といった所だ。
氣とは世界を満たすエネルギーだが、それらは満遍なく存在する訳ではなく、濃い場所や薄い場所など場所によって異なり、特に濃い流れのある場所を氣脈や地脈などと呼んでいた。
空を泳ぐ魚の魔獣、これ一つとってもここが異世界である事を実感させられる。
そんな事を思っていると、結界塔の周辺を何やらウロウロとしていた同行者の牙族の戦士達が、やや深刻そうな顔つきで、シグル族長の下へとやって来た。
「シグル族長様、結界塔の周辺に魔晶石がほとんど落ちてません。代わりに人間のものと思われる複数の足跡が残ってました」
そう言って報告を上げたのは、牙族の戦士の一人だ。
その報告を受けたシグル族長はドルムント族長と顔合わせて何やら言葉を交わしている。
「人間共がここを通った際に魔晶石を回収して行ったんだろうな」
そんな彼らの話を余所に、自分はルーテシアの隣へと移動してこっそり耳打ちするように彼女に先程牙族の戦士が話していた内容の質問を投げ掛けた。
「聞きたいんだが、魔晶石って何だ?」
自分のその問いに対し彼女は少し辺りの地面の上を見回してから、何かを見つけたのかそれを拾い上げて、それをこちらに見せるように差し出してきた。
彼女の手の平に転がっているそれを覗き込むと、そこには小指の先ほど大きさで透き通るような紫色の水晶の欠片のような物がのっていた。
しかし、それは単なる綺麗な鉱石でない事は一目で分かる。
「魔晶石は魂源が結晶化した物の事です。魔獣の体内や魂源の濃い地、他にもこれは上空を泳ぐ空怪魚が糞として排出した物です。魔晶石は魔道具を動かすなどに使うので、人間が持ち去ったのでしょうね」
ルーテシアのその説明に、自分は思わず彼女の手の中にある魔晶石を覗き込む。
まさか、氣が宝石のように結晶化するような事があるとは思いもしなかった事もだが、まさかそれを糞として排出する生物がいるという事にも驚きだった。
この世界は本当に色々な意味で自分の中の常識を超えた世界なのだという事を実感する。
思わず口の端が持ち上がり、自然と笑みが零れる中、自身の両腕に嵌まっている“王の器”が変容した手甲に視線を落とし感触を確かめるように拳を握り込む。
自分の常識が通じない一方で、自分の感覚は明確な答えを一つ示してもいた。
シグル族長達が人間の痕跡などを探っている横で、自分はそんな確信と共に聳え立つ巨大な結界塔の脇を抜けて、その先に広がる外界へと歩いて行く。
そんなこちらの様子に、ルーテシアは慌てたように追い掛けて来た。
「シン!? 待って下さい、そこから先へ行くには人間のあなたは瘴気マスクを装備しないと!」
彼女の焦ったようなその声音が、シグル族長をはじめとした他の者達に届くと、彼らは何事かという風にその視線を一様に自分へと向けてきたのを背中で感じとる。
そんな中で自分は結界塔の外側にゆっくりと足を踏み出していた。
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