1話 序章
満天の星空の中で一際大きく青白い光を放つ月の光が、夜の闇の水底に沈んだような黒々とした森の中から一つの巨大な建造物を浮かび上がらせていた。
鈍色で硬質な質感の建材で構成されたその建造物は、巨大な四角推──いわゆるピラミッド型の構造をしており、複雑な紋様に彩られたそれは深い森の海の中でその威容を誇っている。
そんな巨大な建造物の足元では、森に覆いかぶさる夜の帳を掃うべく幾つもの篝火が灯され、周辺には幾人もの人影が手に手に武器を携えた姿で周囲を警戒するように巡回している様子が窺えた。
そのピラミッド型の建造物の内部には、広大で静謐な空間が設けられており、その一種独特な雰囲気は神殿といって差し支えないだろう。
そこかしこで焚かれた篝火の光が時折入り口から吹き込む風にそよいで揺れながら、その神殿の内部を朧げにだが照らし出されている。
風に揺れる炎に照らされて、広大な空間の中央に集まる幾人もの人影がゆらゆらと踊っているが内部は異様に静かで、僅かに篝火の薪が爆ぜる音が木霊するばかりだ。
広大な空間の中央──そこには幾筋も溝の掘られた大きな円を象ったような舞台があり、その中央には小さな台座が祭壇のようにして置かれ、そこに淡い光を放つ不可思議な宝玉のような物体が飾られている。
「巫女ルーテシアよ、準備は良いか?」
明かりに灯された円形の舞台より奥の暗がりから、少し皺枯れた男の声がその場に静かに響く。
中央の舞台を取り囲むように複雑な紋様が刻まれた高さ五メートル程の円柱が十二本──等間隔に並び、円柱の並ぶ外側では、祭事用と思しき貫頭衣に身を包んだ人々が息を潜めて祈りを捧げるような仕草で並んでいる。
しかし、その立ち並らんだ人々の姿は一種異様でもあった。
彼らは一様に面布を垂らし、その顔を表に曝している者は誰一人としていない。
だが彼らが人でない事は一目瞭然だった。
貫頭衣から僅かに覗く腕や足は人のそれではなく、艶のある毛並みに覆われた者から、光沢のある鱗が覗く者、頭からは大きく張り出した角を持つ者から、大きな獣を思わせる耳を持つ者まで、多様な姿の者達で構成されていたからだ。
今まさに中央の正円の舞台へと進み出た女性も面布で顔を隠し、姿形は人のそれと変わる事はないが、その頭頂部には白銀色の大きな獣耳と艶やかな尻尾が備わっているのが見受けられた。
皺枯れた男の声の問い掛けに、舞台に進み出た女性、巫女ルーテシアと呼ばれた彼女の白銀の獣耳が僅かに動き、返事をするように小さく頷いて返した。
奥の暗がりには大小合わせて三人の人影があり、その内の一人が舞台の明かりの前へと進み出て来て彼女の前にその姿を現す。
明かりに照らし出されたその姿は、舞台の周囲にいる人々とは違い面布で顔を隠してはいない。
上質な貫頭衣を纏い、全身に幾つもの装身具を身に着け、杖を突いて歩くその人物──全身は白い毛並みに覆われ、頭頂部には大きな獣耳。その顔は人のそれとはまったく違う。
それは年老いた狼の顔をしており、その裂けた口元からは牙を覗かせながらも、おおよそ獣らしからぬ理知的な言葉が発せられていた。
「今宵は満月。大地、空、世の魂源が一際濃くなる日……。しかし今宵執り行う“召喚の儀”に森の地の魂源を用いれば、次の儀式までに数年は要する事になる。しかし、我らには悠長に次の機会を待てる程の時は残されておらぬ故、失敗は出来ぬぞ?」
老いた白い狼人の重々しいその言葉に、巫女ルーテシアの面布の奥に隠れた喉が微かに鳴る。
ややあって彼女は静かに、しかし決意を込めたように今度は大きく頷き返した。
「わかっております、大祖父様。私の全霊を持って、このメルトアの森に新たな王を──先代が遺した“王の器”に相応しき主をこの地にお呼び致します」
面布の奥から透き通るような声で彼女が僅かに笑み含んだ声音で答えると、老いた狼人である彼女の大祖父と呼ばれた彼の口元にも僅かに笑みを湛えて彼女に相槌を返す。
緊張していたその場にほんの少しの間なごやかな空気が流れるが、それはすぐに幾人もの慌ただしい足音によって掻き消された。
「長老様方! 大変です!!」
静寂に包まれていた神殿内に焦りの声を上げて駆けこんで来たのは、これもまた狼の顔を持つ男の狼人で、声色からも随分と若い者である事が察せられた。
身長は二メートル程で、がっしりとした体躯に茶色い毛並み。荒目の生地服の上に、革で作られた胸鎧と兜、腰には大振りの金属製の剣を携えており、神殿内にいる者たちとは趣を異にする。
その姿からも兵士や戦士といった風貌だ。
「大事な儀式の前ぞ! いったい何事か!?」
そんな武装した若い狼人に向かって、老いた狼人である長老が顔を顰めて用件を問う。
すると彼はその場で跪いて頭を下げると、すぐに用件を広間に居る全員の耳に入れるような大音声で告げた。
「申し上げます! 先程、この聖地内部に人間が侵入し、警戒にあたっていた戦士達と交戦に入りました! 敵の数は思いの外に多く、苦戦を強いられております!!」
その若い狼人の戦士の報告の内容に、神殿内部の人々から驚きと動揺の声が上がり、一時その場は騒然とした雰囲気になる。
舞台の中央に上がっていた巫女ルーテシアは小さく驚愕の言葉を漏らし傍らの長老に視線を向けるが、狼人の長老もその報告に驚愕の表情を浮かべていた。
「連中、よもや今宵の儀式を嗅ぎ付けたとでも言うのか……?」
そんな中で低く皺枯れた、不快そうな声音で言葉を発しながら狼人の長老の横に並ぶようにして姿を現した者。
その出で立ちは狼人の長老と同じく、幾つもの装身具を身に纏った高位の者である事を示しているが、体格や種族などは狼人の長老とは明らかに違う。
貫頭衣から覗く肌はびっしりとくすんだ翠色の鱗に覆われ、腰の曲がった姿でありながらその身長は二メートル程もあり、大柄な体躯に顔のそれはまるで爬虫類の鰐や恐竜の類を思わせる。
篝火の明かりに照らされて、その爬虫類を思わせる縦長の瞳孔が細く収縮し、その視線が隣で難しい顔していた狼人の長老に注がれた。
「鱗の。連中がそこまで此方の動向知り得ると思うか?」
狼人の長老が僅かにその鋭い視線を向けて隣に立つ巨躯の──“鱗”と呼び慣らす異形の長老を見上げるようにして言葉を掛ける。
しかしそんな彼の問いに答えたのは年老いた女性の声であった。
「連中が儂らの動向を知って動いたとは考え難いさね。聖地周辺の森に巡回に出たドルムントらの警戒網を抜けてきたんなら、もう残された時間はあまりないという事じゃろ。今回の儀式はこの森の希望じゃ、何としても成功させねばならん」
そう言って強い口調で言葉を放ちながら姿を見せたのは先の二人の長老と同様の出で立ち。
そして黒い毛並みと頭頂部に大きく張り出した波打つ二本の角、特徴的な横長の瞳孔を持つその姿は二本の足で立つ、人の姿をした山羊だ。
三人の長老達はそれぞれ視線を交わし合うと、互いに頷き合う。
「この儀式を邪魔される訳にはいかぬ。神殿の外の警備をしておる牙の族長らを侵入してきた人間達の撃退にあたらせるように伝えよ。我らはこのまま儀式を執り行う」
狼人の長老の宣言に、伝令役であった狼人の戦士が一礼して再び神殿の外へと駆け出して行く。
その背中を見送ると、山羊の老女が舞台の周囲に集まっていた者達に振り返って声を上げた。
「皆の者! 聞いた通りじゃ、これより“召喚の儀”を執り行う! 各自、持ち場につくのじゃ!」
彼女のその言葉に、集まっていた者達がそれぞれの持ち場へと戻り、先程と同様に中央の舞台を取り囲むようにして祈りの姿勢をとる。
その中心では巫女のルーテシアが静かに息を整えて集中するように胸の前で手を組み合わせ、目の前に置かれた台座の宝玉を前に膝を折って祈るような姿勢をとると、自身の肉体を触媒に周囲の魂源を取り込み、それを足元の魔法陣へと注ぎ込み始めた。
彼女の足元を中心として──舞台に彫り込まれた魔法陣が淡く光を放ち始めて、それは次第に大きく強くなって広がっていき、舞台全体が幻想的な光に包まれていく。
それを合図に周囲に集まっていた者達も祈りの言葉を口にしながら、ルーテシアと同様に周囲から魂源を集めて中央の舞台へと向けて送り始めると、魔法陣の輝きが増して、それに呼応するように周囲に建ち並ぶ円柱の紋様も同様の輝きを放ちながら脈動を始める。
その様子を見ていた三人の長老が感嘆の声を上げ、山羊の老女が一歩前に進み出る。
「おぉ、どうやら久方ぶりの召喚の間の起動だったが、問題なさそうだね」
彼女の言葉通り、舞台を覆うような光はさらに強くなり、まるで舞台から光の柱が立ち昇るように儀式の間全体を明るく照らし出し、それと同時に神殿のような建物全体が震えるように静かに震動する様を他の長老達も固唾を飲んで見守っていた。
『──王の器よ、汝の認めし王を彼方より此方へと召喚せん。王の器に認められし者よ、我らが呼び掛けに応え給え。願わくば汝と我らを結ぶ途を歩み、我らの願いを聞き届け給え──』
空気が震撼する神殿内で、そんな朗々たるルーテシアの祈りのような、それでいて謡うような声が響き渡り、それに反応するように彼女の目の前に置かれた宝玉が瞬くように明滅を繰り返す。
そんな光景を目の当たりにして、誰もが儀式の成功を確信している所に、突如として外からの悲鳴と怒号が神殿内に響き渡り、今まで厳かであったその場の空気が瞬時に動揺するそれに変わった。
「何事だ!?」
狼人の長老のその言葉に、近くで見張りとして立っていた狼人の一人が外の様子を見ようと、神殿の入り口に駆けて行くと、程なくして入り口に姿を見せた人影と鉢合わせして驚きの声を上げた。
「に、人間っ!? ぐはっ!!」
見張りの狼人が上げたその声に三人の長老が驚きの顔でそちらを振り向くと、丁度その狼人と鉢合わせした人間が、手に持っていた長剣を振るって狼人を斬り捨てる場面が目に入った。
「別働隊が主力を引き付けてる内に、巣の中の魔族共を一人残らず殺せっ! 女子供でも油断するなよ、連中はオレらより体格も膂力も上だ! 容赦するな!!」
神殿の入り口に姿を見せたのは壮年の人間の男。
金属と革とを組み合わせた動き易そうな軽鎧を身に纏い、手には長剣と小盾を携え、口元は金属製の筒を横にした物を備え付けたマスク状の物で覆われていた。
武器を構えて鋭い視線を神殿内に配る男は、油断する事無く肩越しに、後ろに詰めているのであろう仲間達へと指示を飛ばす。
風貌やその動きの所作からは、戦いを生業にしている者てあろう事が察せられる。
その男の指示に従うように、神殿内に男と似たような装備した人間達が十数名、雪崩れ込むように侵入して来て、手近にいた彼らが“魔族”と呼ぶ獣の姿を持つ人々に襲い掛かった。
そんな人間達の強襲を、神殿内に控えていた数名の見張りの戦士だけでは到底防ぐ事は叶わず、あっという間に形勢は人間達の側へと傾き、武器を持った者達は真っ先に襲われて床に倒れ伏していく。
「キャーーー!!?」
神殿内に響く悲鳴と逃げ惑う人々の声の中、舞台の上ではルーテシアは未だに集中したまま一心不乱に魔法陣へと魂源を注ぎ込み続けていた。
「隊長! 連中、怪しい儀式をやってまずぜ!! なんだかヤバイ雰囲気だ!」
強襲をかけてきた人間達の中で、神殿内に溢れる光と、その中心で祈りを捧げるルーテシアの姿を認めた一人がそう言って隊長の男に声を掛けると、隊長である男もその事に既に気付いていたのか、頷き返して周囲の者達に顎で指示を出した。
「魔族共の呪術師は絶対に生かしておくなよ!」
隊長の男のその指示に、部下である男達が吠えるような返事で武器を振り上げて、中央で儀式を続けるルーテシアや、周辺の巫女たちにその手が伸びる。
「ルーテシア!!」
狼人の長老の狼狽したような声が名を呼ばれた彼女の大きな白銀色の獣耳にも届くが、彼女の意識は宝玉の「王の器」が示した者の近くまで既に到達しており、ここで儀式を止めるなどできよう筈も無く、ただただ無防備に晒された背中は襲撃者にとっては格好の的でしかない。
その襲撃者の閃く剣が今まさに振り下ろされそうになった瞬間──中央の舞台が一際眩しく、まるで閃光の様な光を発して、その場にいた全員がその強烈な光に目を覆って動きが止まった。
閃光で目が眩んだ者達が必死で目を開けようともがき呻く緊迫した中で、一人の男の声がその場の雰囲気には合わない──ひどく調子外れな言葉がその場に居た者達の耳に届く。
「──っ、なんだ? 何処だ、ここは!?」
はじめてまして、秤猿鬼です。
とりあえず第一部を順次投稿していきますので、楽しんで頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。