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Innocent Fairy

作者: 神崎 ゆう

 日は沈んだ。光はもう射し込んでいない。けれど、大気汚染や消える事のない街灯のせいで、小さな星達は姿を見せることができない。

 見えるのは、地球(ここ)からあまり離れていない星。火星や金星……あ、北極星は見えるかな。

 それらの星だけが仲間外れにされてしまったような、その悲しさで泣いている星達の涙が光って見えているような……そんな、悲しい空だった。



 いつもと同じ時間に携帯が鳴った。

 私は慌てて駆け寄って、電話に出る。

「もしもし、亮介君?」

「おぉ、いかにも!もうすぐ着くから、前で待っててくれ」

 電話の相手は上樹亮介(うわき りょうすけ)君。ジャーナリストを目指してる、私の彼氏。付き合い始めてから毎朝、家の前で彼と会い、一緒に登校している。

 最初は戸惑ったけど、朝に弱いってわけじゃないし、向こうも電話する時間を考えてくれるから、全然苦にならない。むしろ一緒の時間が増えて嬉しいと思ってる。

 私の家と亮介君の家は結構離れているから、毎日迎えに来るのは大変なはず。でも彼は文句を言わず、私のわがままに応じてくれてる。それが嬉しくて、いつも元気になれる。

「うん、待ってるね」

 おうよ!亮介君の元気を聞いてから電話を切って、私は鞄を手に玄関へ走る。

 彼は全速力でこっちに向かってる。先に出て、笑顔で彼に会うのが私の日課。これがないと、一日が始まったって気がしないくらい、重要な事。

「いってきまーす!」

 お母さんのいってらっしゃいを背中で受けながら、私は外に出た。

 すぐにいつも亮介君が走って来る方を見る。自転車が一台、物凄いスピードで走っていた。

 彼の自転車だ。

「おはよう、亮介君」

「おう!」

 自転車はドリフトの後、私の前にピッタリ止まった。タイヤ……焦げないのかな?

 プロ並のテクニックを披露した亮介君は、満足げな表情で自転車から降りた。

「もう、危ないよ?」

 来てくれるのは嬉しいけど、毎日ドリフトなんてしてたらいつか事故を起こしそうで怖い。

 でも亮介君は、そんなこと全く気にしてないみたい。

「大丈夫だって。さ、行こうぜ!」

 さっさと歩き出した彼を、私は慌てて追いかける。

 その時、目の前を何かが横切った。

「……?」

 何だろう?そう思って振り返ると、黒い蝶が近くを舞っていた。

 不思議な蝶だった。羽根には模様もないし、眼もどこにあるのかわからない。ただ黒いだけ。

 何でだろう……不吉な感じがする。

「どうした、静香?」

 突然立ち止まった私を、亮介君が気にしてる。でも、私はそれどころじゃなかった。

 見ていればいるほど不安になって来る。一刻も早く、アレから離れないと……。そんな思いが、私の中で大きくなっていった。

「ううん、何でもない。ほら、早く行かないと遅刻……」

 しちゃうよ。そう言うつもりだったのに、なぜか言葉が続かない。

 体が鉛みたいに重くなって、亮介君に近付けない。意識が遠ざかっていく。

「おい、静香!静香!」

 何?聞こえないよ……亮介君……。

 私はそれ以上、意識を保っていられなかった。



 何が起きたのだろう。前でカップルが歩いていると思ったら、女の子の方が倒れた。何かを見ていたようで、男の子に呼ばれて振り返ったと思ったらいきなり……だ。

 男の子は女の子を揺すりながら名前を呼び続けている。

「どうしたの、如月さん?」

「……赤口君、救急車呼んで」

 あの倒れ方、普通じゃない。操り人形の糸が切れたみたいだった。

 ……まずいかもしれない。

 父さんに連絡した方が良さそうだ。

 急患だ……って。



 静香と会ったのは、高校生になってからだ。入学式の日に、全員が自己紹介をした。その時に、俺とは正反対の席に座ってた。

 別に変わった自己紹介をしたわけじゃない。けど、腰くらいまである綺麗な黒髪が、廊下側の窓からの風で僅かに靡いていたのを覚えている。

 夕凪静香(ゆうなぎ しずか)は地味なわけでも、極端に目立っているわけでもなかった。

 普通に学校に来て、普通に授業を受けていた。成績だって馬鹿ってほどでも、賢いってほどでもなかったさ。

 だけど何故か他とは違う感じがした。俺だけがそう思ったのかもしれない。それでも気になって、一度声を掛けてみたんだ。

 そしたらあいつは、何食わぬ顔でこう言った。

「あ、ここ使うの?」

 いやいや違うって。昼休みでもないし、つうかそもそも次は全員教室移動だし。何か……言ってる事が的外れだなぁ。

 でも、笑顔は輝きっ放しなんだ。よくここまで純粋な笑顔ができるよな……。

 あぁ、そうか。彼女が他と違うって思った理由が、少しわかった気がする。

 純粋なんだ。

 いくら高校生がガキだっつっても、何つうか……ある程度は濁ってるもんだと思うんだ。ほら、無駄に悟ってみたりとか、汚い手使って嫌いな奴を陥れるとか、そんな風に。

 それが静香に限っては全くない。幼稚園児が汚れる事なく高校生になった感じ。人を疑わず、未来を疑わず。彼女の辞書に『疑念』の文字は存在しない。

 高校生ともなれば一回は思うはずだ。どうせ俺もその辺の大人と同じように、つまらない人生を歩むんだろうな……って。

 でも静香は、そんなことは一度も考えず、自分の将来に夢を持ち続けているんだ。

 知りたいな、その夢……。

「なぁ……」

「はい?」

 こいつは何を目指しているんだろう?未来に何を見ているんだろう?

 ――知りたい。

「俺と……」

 付き合ってくれ。



「助から……ない?」

 静香が倒れて数時間……。俺達は総合病院の一室で、静香の手術を行った医者……如月って名札に書いてある……からあいつの容体について聞いている。

 『達』っていうのは、静香の家族も……ってことだ。あいつが倒れたと連絡したら、すぐここに駆けつけた。当然と言えば当然だ。

 あの後、情けない事に俺は完全に混乱してて、ただ静香の名前を呼ぶ事しかできなかった。なのに連絡もしていない救急車が現れて、静香を病院に運ぶ事が出来た。

 ついさっき聞いた話だが、この如月医師の娘が偶然近くにいて、そいつが救急車を呼んでくれたらしい。その子に礼を言いたかったけど、連絡の後すぐに学校へ行ってしまったらしくて、それも出来ない。

 いくら倒れたのが自分の彼女だったからって、判断能力が中学生に劣るなんて情けない。

 俺が冷静になれなかったせいで、静香は……。「こちら側としては全力を尽くしました。しかし、病状が予想以上に深刻でした。今は落ち着いていますが、長くは保たないでしょう」

 くそったれ……っ!何で、何でこんなことに……!

 そりゃ人はいつか死ぬさ。だからって、今じゃなくてもいいだろ!あいつじゃなくてもいいだろ!

 あいつには、俺なんかよりもっといい未来が待ってるはずなんだ。汚さなんて欠片もない、綺麗な人生を歩めるはずなんだ!

 何で俺じゃなくて、静香なんだ……。

 何で綺麗な人間が、汚い人間よりも早く死ななきゃいけないんだよ……!

「上樹君」

 突然、優しい声が俺を呼んだ。

 静香の母親だった。静香みたいに柔らかい表情で、俺の手を握っている。

 何でだ?何で静香の家族達は、誰も俺を責めないんだ?

 あの時一番あいつの側にいたのは俺だ。あいつに何かあったら、俺が一番に行動しなきゃならなかったのに……何も出来なかった。

 謝って済む事じゃない。殴り殺されても文句はない。なのにどうして、そんなに優しい目をしてるんだ……。

「静香のところへ行ってあげて」

「え、でも……」

 気持ちは嬉しいけど、行けるわけがない。行く資格がない。

「静香の命はもうじき消えるの。あの子自身も、それをわかってる。そして、あの子が最期に話がしたいと思うのは、きっとあなただと思うわ。だから……ね?」

 何てありがたい言葉だろう。俺は涙が止まらなかった。

 今が静香と言葉を交わす、最後の機会になるかもしれない。そのチャンスを、俺になんかに譲ってくれる……。

 今までの人生で、これほどありがたいと思ったことはない。

「ありがとう……ございます!」

 何回も礼を言って、馬鹿みたいに頭を下げて……それでも、この優しさに応えられた気が毛程もしない。

 応えられる事があるとすれば、それは一つ……。

 俺は急いで静香の病室へ向かった。



 何でだろう……私、学校に向かってたよね?

 それがどうして、ベッドで寝てるんだろう。どうして、真っ白い天井を見上げているんだろう……。

 体が重い……ダメだ、動かせそうにないや。

 頭は何とか動く。状況を理解しようと、あちこちに目をやった。すると、何か液体の入った袋から管が伸びていて、それは私の腕に繋がっていた。

 あぁ、そっか。点滴だこれ……。あれ……じゃあ、ここは病院?

「気付くのが遅ぇよ」

「……あ、亮介君。どうして……?」

 どうしてここにいるの?

 どうしてそんなに、目を腫らしてるの?

 わけ……わかんないや。

「あ、じゃねぇよ。心配かけやがって」

「?……ご、ごめん」

 えぇっと、何があったんだっけ?

 亮介君から電話があって、外に出て、一緒に学校に行こうとして、それから……。

 ――……!

 そうだ、あの蝶!

 見たんだ、黒い蝶を……。それから突然体が重くなって、意識も……。

「亮介君、私が倒れた時、近くに蝶がいなかった!?」

「は?……いや、いなかったと思うぜ、そんなの」

 もしいたとしても、あの状況じゃ気付かなかったろうけどな。そう繋げた亮介君に、心当たりはなさそうだった。

 気のせい……?ううん、違う。絶対に見た。

 何だかとても不吉な感じだった……。一体何だったんだろう、アレ。

 私にしか見えない、気味の悪い蝶。絶対に近付いちゃいけない……あの時、私の頭にそんな警告の声が聞こえていた。

 でも、目を離せなかった。まるであの蝶に刃を突き付けられたみたいに……。

 それでも何とか背を向けたら、気を失っていた。逃げ出そうとした兵士が、敵兵に剣で刺されたような……そんな状況だった。

 もしかしたら、あの蝶は……。「大丈夫か?」

「わひゃあっ!?」

 ふと我に返ると、亮介君が超至近距離で私の顔を覗き込んでいた。近い、近過ぎです隊長!

 突然叫んだ事に驚いて、亮介君は、

「うわっ!?」と弾かれたみたいに後ろに下がった。まさかそこまで驚かれるとは思わなかったみたい。

「わ、悪い。何か考え込んでるみたいだったから……」

「あ、ううん。こっちこそごめんね」

 あぁビックリした。今にもくっつきそうな距離だったんだもん。そりゃ驚くよ。

 いつもお前は鈍過ぎるって言ってるくせに、人の事言えないじゃない。

 ……あんな近くで亮介君の顔見たの、初めてかも。ちょっと……惜しいことしちゃったかな。

 あぁ、もう。何か意地悪したくなってきた。

「……ねぇ、亮介君」

「ん?」

「キスしよっか」



ぬあぁぁぁぁにいぃぃぃぃっ!? い、いきなり何言い出すんだこいつは。今までそんなこと一回もなかったくせに。

 ……やっぱり、わかってんのかな。自分がもう長くないって。 はっきりとはわかってないと思う。でも人間って、死が近付くと何となくそれがわかるって、どこかで聞いた事がある。

 静香も本能的に、それを感じているんだろう。

 自分の命が終わるのを……。

「……亮介君?」

 はっ!そうだ、今こいつは凄い事を、しかもサラリと言いやがったんだ。

 キスしようって……。

「な、何言ってんだお前!今はそんな場合じゃ……」

「……ダメ?」

 だあぁぁっ、そんな顔で見るな!何とか自分を抑えようとしてるんだ、拍車をかけてどうする!

 い、いいのかホントに。いや、それ以前に本気かこいつは?つうか意味わかってんのか?

 付き合い始めてからわかった事だが、こいつは男女が付き合うってことの意味をちゃんと理解していない。と言うか何も考えてない。

 何事もないかのように一緒に登校して、何事もないかのように一緒にデートに行く。俺が自分の彼氏だって事はわかってるみたいだが、友達と彼氏の境界線をちゃんとはれてないんだ。

 事実他の男とも普通に仲良く話してるし、一回ホントにデートの約束をしかけてた事もあった。

 あの時は男の方を睨みつけたらビビって消えやがったが、ちゃんと見てないと何しだすかわからない。そういう奴なんだ、静香は。

「……ププッ!」

「……え?」

 何秒硬直していたんだろう。真顔だった静香は今、窓の方に顔を向けて、俺にバレないように笑いを堪えてる。

 ま、まさか……。

「てんめぇ、ハメやがったな!」

「ご、ごめん!だって亮介君、ずっと必死な顔で考え込んでるから……プククッ!」

 やられた!まさか俺が静香にハメられるとは……不覚!

「このやろう……覚悟できてんだろうな!?」

 俺をおちょくった事、後悔させてやるぜ!

「ちょっ、亮介君、落ち着い…………んぅ!?」

 途端に静香の顔が赤くなった。肌から温度の上昇が伝わってくる。

 謀られたとわかった瞬間、自分でも意外なくらいに恥ずかしくなった。耳まで真っ赤になるのが自分でもわかって、それを静香に見られるのが嫌だった。

 だから、見えない距離まで一気に近付いたんだ。

 キスしちまえば、互いの顔色なんて、わかんないだろ?

「亮介……君?」

「俺を馬鹿にした罰だ。ざまぁみろ!」

 静香は口を手で隠したまま呆然としている。

 意外だったろうな。何せ付き合ってから一度も、キスどころか手を握ろうともしなかったんだ。

 俺にそんな度胸があるなんて、思ってなかったろ。

「……もうっ」

 あら、拗ねちまったよ。参ったな。何て言えば機嫌直してくれるんだろ………。

 情けない話だけど、付き合い始めてから静香が拗ねたのなんて初めてだから、どうすればいいかわかんねぇ。

 今までずっと、俺の前では笑顔でいてくれてたんだ。どんな時も……。

 ……何だよ。

 こんなに近くにいたってのに、俺はこいつの事、何もわかってねぇじゃねぇか。

「悪かったよ。だから怒るなって、な?」

 自分が情けねぇよ。結局、俺ばっかりが幸せをもらってたんだ。

 俺はこいつに、幸せだったて思わせる事が出来たのかな。お前は……幸せなのか?

 なぁ、明後日の方向いてないで教えてくれよ。

「何だ、やっぱり……」

 ……?どうしたんだこいつ。外見たまま……。

「もう、来ちゃったんだ……」

「お、おい、静香?」

 何の話だ、何が来たってんだよ?外には誰もいないぞ?

 明らかに様子がおかしかった。まるで先が見えているような、何かを悟っているような……。

 俯いた静香の表情には哀愁が漂い、さっきまでとはどう考えても雰囲気が異なっていた。

「亮介君。私ね、夢があるんだ」

 ――……!

「ま、待て静香!それは……」

 確信した。静香はわかっている。自分の命がもうすぐ尽きる事を。

 でも、どうしてだ。さっきまであんなに元気に話してたのに、何で今いきなり……?

「笑わないで聞いてね。私の夢は、『普通』に生きる事」

 ずっと知りたかった。いつか、お前から夢の話を聞きたいと思ってた。でも、それは今じゃダメなんだ!

「静香っ!」

「お願い聞いて!もう……時間がないの。すぐそこまで来てるの」

 静香が俺の前で、初めて声を荒げた。今日は初めて尽しだ。

 でも全然嬉しくない。色々な静香を知ることが出来たのに、それがこいつの死ぬ直前だなんて……全然嬉しくねぇっ!!

 わかったんだ。静香の言葉の意味が。もう、迎えが来てるんだよな。『向こう』からの迎えが、すぐ近くまで。

 何故だかわからないけど、お前にはそれが見えるんだよな。そうなんだろ?

「普通に高校卒業して、普通に仕事して……普通に結婚して、普通に子供を作って、普通な家庭を築く。とっても簡単みたいだけど、とっても実現の難しい日々……それが、私の夢。変かな?」

 全力で首を横に振る。変なはずがない。飛び切りつまんないようで、でも飛び切り大変で、誰も敵わないくらい……飛び切り、でかい夢だ。

「叶えようぜ、静香……。俺と一緒に、その夢……!」

 断言できる。お前の夢を叶えるためなら、俺は何だって出来る。

 ダメダメな上司にペコペコ頭下げるハメになっても、こき使われてあちこち走り回ることになっても、それが少しでもお前の夢に近付くのなら、俺は……!

「ありがとう、亮介君。でも、ダメなの。私は……」

 情けねぇ……男のクセにメソメソ泣きやがって……。そんなこと、いくら思われてもいい。

 哀れみの目を向けられようが、人間の中のクズって言われようが、お前と一緒なら俺は堂々と生きていける。

 お前が必要なんだ。だから、だからさぁっ!

 そんな満足げな顔するなよ。お前の夢はまだ……まだ何も叶ってないじゃないか!

「私は幸せだよ。短い間だったけど、私の夢……ちょっとだけ叶ったから」

「静香ぁっ……!」

 叶えてやるよ。今度は、ちょっとじゃなくて全部!だから静香……俺を、俺をおいていかないでくれ!

「頼むよ……俺にチャンスをくれ。普通に卒業しよう、仕事しよう、子供つくろう!絶対に、今よりもっと幸せにしてみせるから!生きてて良かったって思わせてみせるから!だから静香……!」

「……ごめんね、亮介君」



 亮介君が私を呼んでる。死なないでくれって、心からそう言ってくれてる。

 見たかったな……私と亮介君の子。理想なのは、とっても元気な、男の子と女の子が一人ずつ。亮介君と築く、普通な家庭。

 でもダメなんだよね?私は、見れないんだよね。そうなんでしょ、蝶々さん?

 やっぱり、私を迎えに来てたんだ。気味悪いとも思うよね。縁起でもない。

 ……何でかな、不思議と寂しくない。亮介君が近くにいてくれるから?

 ごめんね、亮介君。私は十分幸せだよ。亮介君から、抱えきれないくらいの幸せをもらったよ。だから……。



 もう……泣かないで。



「し、静香……?」

 動かない。病室にピーという音が響いてる。

 止まったんだ、心臓が。

 終わったんだ、静香の……俺の大切な人の命が。

「静香ぁぁぁぁぁっ!!」

 冷たい部屋、冷たい音……。だけどお前の表情だけは、まるで冷めないココアのように……温かかった。



 八年後――。



「申し訳ありません。精神科の仕事まで頼んでしまって」

「……大丈夫」

 世間の医師不足が叫ばれて久しい今、私は専門分野以外の仕事もこなさなければならなかった。

 今回回ってきたのは、精神科の仕事。何でも、カウンセラーみたいなことをやって欲しいとか。 人と関わるのはあまり得意じゃないから断ろうとも思ったけど、知らない患者ではないだけにそうもいかなかった。

「では、よろしくお願いします」

 呑気な顔で立ち去っていく同業者。ああいう人間には、精神科(ここ)で悩んでいる人の気持ちなんて、一生わからないだろう。

 ……いや、自分も同じ……かな。

「……気分はどう?」

 試しに声をかけてみる。思った通り、反応はなかった。

 不憫だと思う。彼はここに来てから八年間、亡くなった恋人の影を追い続けている。

「……やっぱり助からなかったのね、彼女」

「…………?」

 解放してあげよう。彼を捕えて放さない心の檻から。それが私にできる、彼女への唯一の手向け。

「久し振りね。と言ってもあなたは私を知らないけど」

「あんた……誰だ?」

 立ち直るの、上樹亮介。あなたはもう十分、自分を責めたはず。いつまでも現実から目を逸してはいられない。 バックアップはする。だから出てきて、光の射すところまで。

「……如月綾。脳外科医。今日から、あなたの話し相手」

 ……よろしく。

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