ある日のボルゾイ( 第六部隊副隊長サルーキ視点 )
とある日の早朝。
森の中でボルゾイに出会った。
「隊長。今日はどうしてこんなところに」
「サルーキか……君の方は?」
「この近くの演習場で、射撃の練習をしに」
私は黒シャツ・黒ズボンの私服で、肩に吊り下げた長銃を揺らす。
カチンと、ボディバッグの金輪とエレベーションノブが当たった。
「そうか」
純白の作業着を着た上司はすぐに興味をなくし、プリン瓶を片手にスプーンをせっせと動かした。
座っている切株の脇には虫取り網。
そして周囲は深い森。
なんともミスマッチだった。
ここは深遠なる森。
ケンネルの東側にある黒い森、シュバウツバウト。
入り口から少し入ったところで出会ったボルゾイは、プリンの真最中であった。
しなやかな指で優雅にすくって食べる姿は実に品が良く美しく。
だが、気になるのが足元に落ちたプリンの蓋。
蓋裏をなめ取ってしまうのは大変いただけない。
彼は普段のドレスシャツではなく、純白の作業着である。
しかもただの純白ではない。
金のかかった純白だ。
布地は当然高価なもの。銀糸が全体に縫い込まれて、木漏れ日に反射する。宝石も所々にあしらわれているようで、白一色の癖に実にゴージャスで派手だ。
どうせ誰かに貢がれたものだろう。
それよりも、私は大きな虫取り網の存在が気になった。
「この森で何か獲るのですか」
「ああ。ジャイアントアモだ」
「……今食べているのはアモーレプリプリンですよね」
「ああ。アモのプリンは美味い」
そう言って、彼はせっせとスプーンを動かした。
深遠なる森の奥からは、姦しい声と巨大生物が地面を揺らす音。
『あっちに行ったわよ、会員B!』
『会員Aが蹴り飛ばされたわ!』
『小賢しいわね、さっさと狩られなさい、獲物! この会員Cが牙で仕留めてあげる!』
女性たちの闘いの雄叫びが聞こえてくる。
(なんだいつものことか)
肩をすくめてその場を去った。
反対側に背負った籠に、食べられそうな山菜を放り込みながら。
自己紹介が遅れたが、私はエル・ホル・サルーキ。
中央騎士団の一部隊で副隊長を勤めている。
サルーキ一族は一応名家だ。
爵位は伯爵家で歴史は古く……もしかしたらケンネルの三大公爵家よりも古い。
古代の壁画にもよく登場し、古老に聞けば「誰誰さんの先祖だよ」と教えてくれる。
しかし貧乏だ。
……もう一回言わせてもらおう。
貧乏だ。
理由は事業の失敗。
代々の当主は商いや興業の才能が全くないのに、好奇心のまま挑戦しては失敗する。さらに「次で取り返す」と挑戦しては借金が増えていく。
愛想もない上に頑固だから、地味な雇われの仕事もよくクビになる。
分家の我が家は、特に貧乏だ。
輪を掛けて頑固で面倒くさがりの父は、紹介された仕事を何度もクビになり、毎日酒を飲んではグダとしっぽを巻いている。
家族の唯一の希望が長男の私。
中央騎士団入団試験に受かり宮仕えが叶ってからは、親族一同に縋られ仕送りしているというのが現状なのだ。
妹や弟たちに「お兄ちゃん、女王様の香りってどんな感じ?」と、尊敬のまなざしで見つめられる時だけが幸せなのだ。
ああ、金が欲しい。
しかし真面目に騎士職を頑張るしか、方法はない。
職場は中央騎士団の第六部隊。
主に「破壊工作」をする部隊だが、実際のところは様々な部隊と共闘する何でも屋だ。
戦争時には第二部隊を補助。
遊撃隊として敵の主要兵器や食料を破壊もしくは奪取する。
身軽で俊敏な犬の体を生かし、先制して主要戦力を叩けるのも利点だ。
目も良いので、近接攻撃名得意な小型犬の第五部隊と共闘して、遠方から射撃をして敵を無力化させることもできる。
射撃は私の十八番。部隊内で狙撃班を率いるのは私である。
だがこの国で第六部隊といえば……。
かの「ボルゾイの破壊工作」が有名だろう。
マゾ・フォン・ボルゾイ。
ボルゾイ第六部隊の隊長で、大陸でも滅多にいない絶世の美青年。
彼が他国の宮廷に現れると、必ず誰かの人間関係が壊れてしまう。
特に女の友情が壊れることで有名だ。
第六部隊の破局(主に彼女に振られる)原因も彼であることが多い。
嫌な意味で独身率の高い我が部隊。恨みの視線を一身に受けて生活をしている。
実力主義で誉れ高い中央騎士団で、あれほど慕われていない隊長も珍しい。
ちなみに隊長へのクレーム担当は、副隊長の私である。
いつだってどこ吹く風。
仕事だけは見事にこなし、後はプリンを食べながら女性を惑わして生きている。
そして、隙あらば親愛なる女王陛下の靴や後姿を見ては、絨毯やクッションの毛並みをチェックしている。
犬人の中でも指折りのマイペース犬であるボルゾイ一族。
その中でも個性際立つ彼。
女性の熱い視線と、男性の殺気の籠った視線。
どちらにしろ、火傷しそうな熱量を平気で受け続ける彼。
私はそんな上司のことが――――結構好きである。
昼前になり、洗濯屋へ行った。
かごを持って寮を出て、出会い頭のハイデガー君に挨拶をし、王都の「ジャイアントアモ肉セール」をしていたバウバウ精肉店(小さな食事処あり)の横を通って、大きな靴下が看板の洗濯屋チェーン『わっしゅぶる』に着く。
質素な店先は、なぜか豪華な赤い椅子が設置してあり――――。
ボルゾイが座っていた。
着ているのは金糸が縫い込まれた純白の、実に高そうなガウン。
男にしては綺麗すぎる足を組んで、物憂げな顔で何か雑誌を捲っている。
あれは月刊犬道。
しかも今月の臨時特集号『この世のプリン特集』。
……とりあえず、礼儀として声を掛けてみるか。
「隊長は何をされているので?」
「君は?」
「私は独り身故。洗濯屋に今朝の油汚れをお願いに」
「ふうん」
興味なさそうに雑誌のプリンピンナップに視線を戻すボルゾイ。
特にコタツ王国の国境沿いの村で開店したプリン専門店「にゃーぷりん」の看板商品「鍋プリン」に釘付けだ。
すると、店の奥の洗い場(店の裏が川に沿っていて、浅い洗い場が何カ所もある。中には強い洗剤を入れた大きな壷タイプも)から姦しい声が聞こえてきた。
「私が洗うのよ!」
「貸しなさい! 私がボルゾイ様の美しいツナギを洗うのよ!」
『マゾ様の下着……! お願い! お代はいくらでも払うからぁ! 下着を洗わせてえ!』
「はあはあ。あ、洗った水を持ち帰っていいですか店長ぉ!」
『嫌よ。私が全て持って帰って風呂に使うのよ!』
がるるるるるる。
視界の橋で繰り広げられるキャットファイト(犬なのに)。
隣のボルゾイを見ると、片足をブラブラさせて一途にプリンのグラビアを見つめている。
仕方なく洗い場を勝手に借りて洗い始めた。
すると途端に衣服が白く汚れ————いや、これは羽毛だ。
指で摘んで拾い上げると、それは白い羽毛。
黒いシャツに白く何枚も張りついている。
「この洗い場では羽毛を洗ったのか。なら隣の洗い場に行こう」
仕方なく洗い物を入れたかごを担ぎ直した。
隣の洗い場のお姉さんに声を掛ける。
「あの、」
『私が洗うのよ!』
「その、」
『キー! あんたにボルゾイ様のパンツを持つ資格があると思っているの!? ファンクラブの会員ナンバーを言いなさい!』
「えー、」
『それは何代目のファンクラブのことよ! 第五十七代ファンクラブが内輪揉めで内部崩壊してから、まだ登録していないわよ!』
「……自分で探します……」
仕方なく洗い場をさまよい、端の小さな古い洗い場にたどり着いた。
設置された小さな椅子に座り、用意してある大タライに布を放り込んだ。
姦しい女の戦いのオンエアを横目で見ながら、ちびた洗濯石鹸を袋から出す。
(第四部隊で、自動洗濯機を発明しないかな。そして私にただで試作品をくれないかな)
特別製のぬるま湯が湛えられたタライを見下ろして、ため息をついた。
ああ、金が欲しい。
昼過ぎ。
上手く洗えなくてダメにしてしまったシャツとズボンを買いに、寮から再び衣料品店に行った。
途中バウバウ精肉店で、安売りしていたジャイアントアモのから揚げセットで腹を満たす。
王宮正門近くに店を構える大店『わんこうぇあ』。
王都でも有数の大きな店で品ぞろえは豊富。
子犬の前掛けから騎士の制服(官製品では?)まで欲しいものが何でも買える。しかもお買い得だ。
理由は製糸から染色、デザインから採寸まで、全てわんこうぇあで一貫して行っているから。
デザイナーも数多く抱えているので、誰が行っても外さない。
今回の狙いは、私のような細身の男に人気のブランド『バウビー』のセール品だ。
店頭に貼ってあるセールのチラシを眺めながら紳士服コーナーに向かうと、なぜか女性向けの一角から、ふらりとボルゾイが現れた。
いつもの物憂げな顔で、少し長めの亜麻色の髪を緩くまとめて流している。
それに珍しくラフな格好だ。
黒いブーツに、黒い細身のズボン。
そこに、巨大なプリンが印刷された白いTシャツを着ていた。
「隊長。どうしたのですかそのシャツ」
「サルーキか。じっと眺めていたら店員がくれたよ」
「……良かったですね」
白地にリアルなプリンが書かれたTシャツ。
それを身に着けたボルゾイはどことなくご機嫌だ。
献上した女性店員(女に間違いない)は幸運だな。
脚立の横で失神していて(何をしたボルゾイ)気が付いていないようだが。
(……そういえば)
「隊長」
「なんだい」
「隊長はいつも手ぶらで薄手の服を着ておられますが、財布はどこに入れているので?」
「財布? 何を言っている?」
月も霞む絶世の美青年は「ん?」と首を傾げる。
さらっとした亜麻色の髪が、Tシャツの襟に掛かった。
さりげない姿もどこか清楚で色っぽい。
……男に言う言葉ではないかもしれないが。
「この世の半分が私の財布なのに、なぜ持ち歩く必要があるの?」
―———聞かなかったことにする。
しかしこっそりとボルゾイのことを、心の中でボルゾイ「様」に昇格させた。
ほんの一瞬だけ。
そこにふと、鼻腔をくすぐる素晴らしい香りがした。
「うわあ~可愛いお洋服がいっぱいありますね」
「リーゼ様。これが町で流行の色なのですわ」
「王宮でお見受けするドレスとはまた違う色ですね」
「庶民にとって汚れが目立たない色も人気なのですの」
後ろを振り向くと、店先に陛下がおられるではないか!
ケンネル一のファッションデザイナーで、陛下の服を日々作成しているグレース・コリー・フォン・ピットブル侯爵夫人が、陛下の横でケンネル各地方の服について説明をしていた。
「陛下!?」
「突然すみません」
「連絡もなく申し訳ありませんわ。視察の帰りに陛下がこの店先の服を「王宮で見かけるお洋服と違います」とおっしゃられたものですから」
陛下の香りに気がついた店主。
あわてて陛下に駆け寄って行く。
思わず犬になって駆け寄ろうとして、気がついた。
―———ボルゾイがいない。
嫌な予感がして、とっさに警戒体勢を取る。
肝心の敵はすぐに発見した。
精肉店の陰に、ほっそりとした大型犬の姿で隠れている。
そしてじ、と陛下の丸いピンクの靴を見つめているではないか。
止めるべきか。
そう思って、前足を一歩出す。
すると、自分よりもよっぽど適任の犬が前方を塞いだ。
筋肉でずんぐりとした中型犬。
獰猛な目つき。気を抜くと噛み付き、引き裂かんといったばかりの鋭い牙。
他の犬を威圧するその圧倒的なオーラ。
バーバリアン・フォン・ピットブル侯爵だ。
暇つぶしに精肉店で買ったと思しき、ジャイアントアモの骨をガリガリと齧っている。
怖っ。
(良かった。どうやら今日は、彼が護衛当番の日だったか)
本来の専属護衛であるマルス・フォン・マルチーズ卿は、最近「修行(内容は不明)」に行くようになったらしく、その都度、女王専属そり犬である彼が代理を務めるようになったのだ。
凶相の犬は陛下と夫人の二人連れと、精肉店の間で伏せをして、じっと敵を見つめ返していた。
———両者しばらく動かず。
ケンネルで一番物騒な犬と、一番関わり合いたくない犬が対峙するなど、悪夢でしかない。
「あ、このクッション。ハートマークが可愛いですね」
「リーゼ様はその柄がお気に入りですか?」
「はい、お部屋の椅子にぴったりです」
「陛下に気に入っていただけて光栄です!」
ぴくり。
陛下の可愛らしい声に、ボルゾイの耳が反応した。
そして、そわそわと落ち着かなくなる。
「もっと大きなクッションがあったらあの深い椅子には楽なのですけど」
「申し訳ありません。すぐに作らせますので」
「ああ、すみません。ちゃんと正式な依頼で出します!」
そわそわそわそわ。
とても落ち着かない耳だ。
心なしか、滅多に揺らさないしっぽが微動している。
ピットプルがその様子を見ながら、ボリボリと残りの骨をかみ砕いた。
『ボルゾイ。お前の目的はジャイアントアモの羽毛クッションに隠れて陛下のお尻に敷かれることだろう』
(それか!!!)
思い返せばジャイアントアモは卵だけではなく、羽毛も人気だった。
最近陛下の尻に敷かれたいボルゾイが、クッションや座布団にぴったりの材料を逃すはずがないのだ。
どうせ今頃、わんこうぇあの女性店員が巨大クッションを作って(本人曰く「勝手に」)いることだろう。
ボルゾイは、獰猛な番犬にうろん気な視線を送った。
『なぜ止める』
『止めてはいない。私はおやつを食べているだけだ』
『じゃあ、私はクッションに戻る。貴公のことだからおやつを食べたら帰るのだろう?』
『ああ、今日はおやつを食べる日だ。せいぜい頑張ることだな』
ボリボリボリ。
そわそわそわ。
骨を齧り切ったピットブルは、その後本当に赤いそりを引いて帰ってしまった。
ボルゾイは何事もなかったかのように店の奥に消えた。
そして陛下と夫人が、勝手に消えたピットブルに怒っていた。
仕方なく(むしろラッキー?)、お二人の他の護衛たちに混じり、陛下を送って差し上げながら考えた。
ピットブルは基本スパルタだ。
陛下の専属となっても、そのスタンスは変わらない。
自分で考えてなんとかしろというスタイルである。
たとえ、相手がボルゾイであっても。
(陛下の人生に幸あれ)
私は陛下の小さな手になでなでされて「くーん」とちゃっかり甘えながら考えた。
ついでに陛下の「ワナナむいちゃいました攻撃」をいただき、ゲップをしながら四つ足で歩いていると、やがて日も暮れてきた。
すると夕日を背にした美青年が、てぶらでふらふらと歩いて来た。
長い影の先が私の前足にかかる。
格好はプリンプリントTシャツのままだった。
頭には散らばったアモの羽。
『隊長。どうされたのですか』
「ああ、サルーキか。ちょっと失敗しちゃってね」
本気で憂いている顔。
伏せる瞼も美しいのがなんとも微妙な気分だ。
しかし珍しい。
彼は作戦を立てればほぼ100%完遂する男なのに。
「ハート柄のクッションの中に潜んでいたのに、陛下は『嫌な予感がします』と代わりにヒグマー柄のクッションを所望してしまったんだ」
『……』
まさかの直観力!
ピットブルの教育は間違っていなかったようだ。
ただでさえ心のお強い陛下は、日々、確実に女王陛下として成長しておられる。
感動していると、ボルゾイが「あ、そうだ」と私に声を掛けてきた。
「ねえサルーキ。ちょっと店で飲んでいかないか」
『今、手持ちがちょっと……経費もかつかつですし……』
「お金なんて必要ないよ」
物憂げに彼は飲み屋がある一帯に視線を向けた。
そうだった。
ボルゾイは、行けば奢ってくれる女性店主や女性客に困っていない。
故に、彼が行くところは全てタダ。
私は喜んでしっぽを振ってついて行くことにした。
まだ早い時間だからか、わんわん家族食堂は空いていた。
白を基調とした明るい店内には家族連れも殆どいない。
一人二人ちらほら早い夕食を食べているくらいか。
しかし。
「なんで家族食堂なのですか? そこに美味しいバーがいっぱいありますよ?」
私は不満だった。
ここは月刊犬道に特集されるような有名なバーがいっぱい連なっている。
なのに、なぜ。あえて家族食堂なのだ。
デザートのメニュー表を覗くボルゾイは言った。
給仕のお姉さんの熱い視線を当たり前のように受け止めながら、露骨にギガプリンの特集ページを見つめていた。
「この辺のバーってさ」
「はい」
「最近女性向け雑誌に特集されたじゃないか」
「そういえば、そうですね」
「女性客がハシゴをしてさ。いつも奢ってくれる連中がかち合うことが増えたんだ」
「それって……」
嫌な予感がする。
ボルゾイは「『君の』ギガプリン、美味しそうなのにね」と呟くと憂愁のため息をついて、そっとメニュー表をおいて頬杖をついた。
給仕のお姉さんは「あ、あ、あ、」と顔を真っ赤にして去っていく。
そして次にはお冷と一緒にギガプリンが差し出された。
ボルゾイだけ。
もちろんお勘定票は付いていない。
「……」
「喧嘩が終わらなくて支払いする余裕がないようで」
もくもくと幼児の頭ほどのプリンを食べる詐欺男。
私は呆然と、「早く注文してくれませんか」と先ほどとは正反対の態度でせかす給仕のお姉さんに、バウ豆の塩ゆでと泡犬盛を注文した。
「あー、最近本当についてないよ」
「そうですか?」
「そうだよ。クッションはことごとく失敗するし、好き勝手に喧嘩していたピットブル一族が多少は警備をする気になって徘徊しはじめたし」
ようやく届いた塩ゆでバウ豆をちびちび摘まんで、上司を眺める。
憂鬱そうな顔は演技ではなく、本当のようだ。
ボルゾイでも上手くいかないことがあるんだな。
なんだかんだ人間味もある彼は、金に困ったこともない。
金に執着している様子もない。
真似は出来ないが、尊敬はするし、見習いたいとは思っている。
(もうちょっと女性の前でのおしゃれに気を遣おうかな)
そう考えてしていると、彼はプリンを平らげて「さて」と立ち上がった。
「ちょ、ちょっと隊長。ここのお支払いは!?」
「大丈夫だよ。支払いは————ほら」
彼が指を指すと、そこに女性の集団が店になだれ込んできた。
「今正式なファンクラブは第六十五期『マゾマゾ☆ファンクラブ』だっていっているでしょう!?」
「何言っているのよ。昔からの老舗第百八期『マゾ様ファンクラブ』に決まっているじゃない」
「第五十八『ボルゾイ様ファンクラブ』ですよう」
「まだ五十七期は解散したつもりはないけれど!?」
今にもつかみ合いの喧嘩をせんばかりににらみ合っている。
うわー、怖ー。
ファンクラブの内部分裂半端ない。
(どれだけ女の友情を壊せば済むんだ、この人は)
思わず半目で隣のボルゾイを見ると、彼は犬に変わって後ろ脚で顎を掻いた。
抜け毛がテーブルの上に散る。
「隊長、お行儀が悪くないですか?」
『ではサルーキ。逃げるぞ』
「え」
ぐるるる、と戦闘時の声で指示をされて、条件反射で犬に変わる。
疾風のように店をすり抜け、二人で飛び出した。
「あ、ボルゾイ様よ!」
「どこが本当のファンクラブか決めてもらおうと思ったのに!」
「いけずー!」
「あ、こんなところにボルゾイ様の毛、いえ、食べたバウ豆のお勘定票が!」
「仕方ないわね。ボルゾイ様の食事は私の食事。ここは私が支払って―――――」
「いいえ私よ!」
「違う! 私よ!」
「私のものよー!」
後ろを見ると、お勘定票を奪い合う女たち。
一部の狩猟犬の女性は犬に変わり、こちらを探り出していた。
危ない、危ない。
月夜の屋根伝いに走る自分たち。
赤い屋根には月の光で明るい道が出来ている。
屋根から屋根へと逃げる上司の後ろ脚を見ながら思った。
見習うのはやめようと。
細い足で空中を掛けるかのように走るボルゾイに聞く。
『隊長。これでいいのですか?』
『サルーキ。今日も世はこともなしだよ』
月光に当たると、亜麻色の毛並みが白銀に輝いて見える。
キラキラと白く浮かび上がる肢体。
今日の月夜のボルゾイは、本当に美しく、最低で、いつも通りだ。
そこで腹がぐう、と鳴った。
(ああ、もっと高いもの食べておけば良かった)
今更ながらに反省する。
『……隊長。まだ私はお腹が空いているのですが』
『……もう一軒行く?』
『はい。南の商業地区で最近開店したお店はいかがでしょうか。シックで高いですけど小金のある女性にも人気らしいですよ』
『いいよ』
そうして私は、最低な隊長にお似合いの、ろくでもない金欠副隊長として。
今夜の隊長のお供を仕るのだった。