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王と犬・後編 ( 女王専属護衛マルチーズ 視点 )

◇◇◇◇




「パンツください!」


 ――――ある日、寒空の下。

 俺はとんでもない美少女に出会った。




 職場の工事現場に出勤する。

 すると無精ひげの親方は、俺の恰好を見て驚いていた。


「おい、アイアル。なんでお前はズボンを脱いでぼろ布なんて巻いてんだよ、趣味か?」

「さっき追い剥ぎにあったんですよ! 下履きは買ったんですけど……親方、ズボンの予備貸してください。給料日前でもう金がありません」


 仕事にならない弟子の姿に、親方は眉を潜める。

 だがなんだかんだ言っても優しい親方は「まあいいけどよ」と掘っ建て小屋の奥から、少しかび臭い着替えを引っ張り出してくれる。


 お、最近流行りの裾が広がっているやつだ。

 これ履くと高い場所でも体幹が安定するんだよね。ありがたい。


 俺がいそいそと新作を履いていると、親方は小屋の壁に貼られた、町の地図を指さしながら場所を訊ねてくる。


 工事現場であるコロッセウムと俺の住んでいるアパートは、碁盤の目のような町の南方。

 そして二点の間には、巨大な三級商店街とスラムが存在していた。


「しかし物騒っつーか妙な話だな。金は取られてないんだろう? 相手はどこに向かって逃げたんだよ」

「シメサバ商店街の奥です」

「ああ、なるほど。スラムが近いな。アルターも多い地域だ。白髪で目ん玉が紫なんて派手な外見してりゃあ絡まれやすいわな」

「……いちおう銀髪なんですが」

「似たようなもんだ」


 父親も祖父も正真正銘の立派な庶民で茶髪が多いのだが、なぜか親族に銀髪が生まれることがある。

 そしてなぜか、銀髪の人間は犬に好かれやすい。

 家系図なんてないに等しい一族だが、一応言い伝えはある。

 その昔、犬人と狩りをするのが趣味の人がいて、その人が銀髪だったとか。


(それにしても犬人とね。俺の地元にはいなかったけど。アルターと好んで付き合うとは、変わり者だよな)

  

「ちなみに犯人は?」

「可愛かったです」

「んん?」


 俺は腰を紐で縛って、しみじみと答えた。






 しかし思い返せば、あれはひどかった――――。


 早朝。工事現場に出勤しようと、ボロアパートからの道端を歩いていた俺。

 そこにわき道から少女飛び出してきたのだ。

 旧ブレーキをかけて土道に砂埃が立つ。


 少女は小柄で幼い顔をしていた。

 十三才? いや、十一、二才にも見える。


 大きく潤む、紅茶色の瞳。

 けぶる様な、紅茶色のまつげ。

 唇はぽってりとピンク色で艶々してる。

 鼻はこじんまりと中央に備わり、愛嬌がある。


 地元の田舎でも、この大きな町でも見たことがない。

 超ド級の美少女だった。


 最近十五になったばかりの俺は、思わぬ出会いに胸がときめく。


 ふわふわの長い紅茶色の髪を背中に流し、少し汚れた灰色の貫頭衣を着て、黒い荒紐で細い腰を締めた少女。

 彼女は愛らしい笑顔で、そして可愛らしい声で、俺を見上げて言ったのだ。

 『パンツください!』と。


 頭の中が白くなる。

 当然断った。


「……嫌だけど」

「なんで? なんで? すごくいい匂いするし!」


 一歩後ずさりする。


「余計に嫌だけど! なんだよお前! 男のパンツっておい」

「あたしはポチだよ。いいの匂いのするおにーさん。ねえ、くれないの?」


 こてんと首を傾げて見つめて来る超美少女。

 めちゃくちゃ可愛い。

 こんなに可愛いとつい、何かをあげたくなってしまう。


 ――――パンツ以外ならな!


『くれるわけがないだろう!』

『そうなの……?』


 とたんに萎れて俯く美少女。

 声に涙声が混じる。


 反則だ!


 周りの目が、

 『あ、あいつ女の子泣かしてる』

 『やだ痴話げんか?』

 『あんなに可愛いのになんてひどい男だ』

 と責め立てている。


 俺、何もしてないよな?

 なあ!?


「あ、あのな。初対面でいきなり泣かれても……」


 泣き顔まで可愛いから余計に動揺する。

 なんとか泣き止んでもらわなければ……と慌てていると、目の端に街角の串焼きの露店。

 

 あれだ。


 仕事帰りによく寄る、格安の串焼き肉屋。

 良かった。今日も朝から開店してた。

 一体何の肉を焼いているのか分からない。だが、とにかく安くて美味ければそれでいい。たれもやけに濃くてお気に入りだ。

 俺みたいな労働者は、汗を流した後にこういった怪しげな店に日々世話になっている。


「はぐはぐはぐはぐはぐ!」


 何本か与えると、途端に目をキラキラさせて勢いよく食べ始めた。

 うっとりと幸せそうに、なのに必死に食べている様子も可愛い。

 なぜか昔実家にいた犬を思わせた。


(見えないしっぽが良く振られている気がする……)


 付き合って二本ばかり食べたが、まあなんとも元気が良い。 

 食べ終わったくしを露店のゴミ箱に放り込むと、「ところで」と彼女に訊ねた。


「おいポチさん? そもそもなんで俺の、その」

「あ! そうだった! どうしても欲しいの。だから……」


 彼女はこちらを向いて、くしを両手に唇を舐めた。

 肉の脂が乗ってで妙に艶めかしい。


 思わずドキリとすると彼女は腰を屈め―――――。

 俺の下半身に襲い掛かったのだ。


「んなっ」

「お兄ちゃんが言っていました! 欲しければまずはお願いをしろ。ダメなら実力で奪えって!」

「とんでもない兄ちゃんだなっ」


 少女とは思えない怪力!

 俺のスボンを掴んで放さない!


 おい、串焼き屋のおやじ! 

 面白そうに眺めてないで助けろよ!

 この町に来てから何本串焼き買ってやったと思ってるんだ!


「やめろ!」

「いや!」


 頭をぐいぐい押すが全然引かない!

 がるるるると本気で脱がせに来ている!

 なんだこの執着は!


 そして。


 すぽーんと、宙を舞ってパンツごと脱げたズボン。

 ズボンを両手に掴んだポチが、ぺちょりと尻餅をついた。

 

「やった……!」


 一方、地面に這いつくばった俺が見た光景。

 それは勝利のポーズを掲げ、俺のズボンを被って匂いを嗅いで恍惚としている美少女だった。


 視界の暴力だ。 


「お前……」


 俺が起き上がろうとするとポチはすぐに駆け寄って「ごめんなさい。でも欲しかったの。いいにおい。大切にするね」と言って。


 頬にちゅっとキスをしていった。

 鼻腔をくすぐる、女の子特有の甘い香り。


 硬直した瞬間に、人とは思えない速度の駆け足で、ポチは去って行った。

 俺を下半身丸裸にして―――――。 


「兄さん、モテるねえ」


 俺を見捨てた串焼き屋のおっさんがニヤニヤしている。

 そして汚ねえぼろきれを、股間隠しに譲ってくれた。


 なんなんだ。

 なんなんだこれは。




◇◇◇◇




 僕はページにしおりを挟んで、一度閉じた。

 そして眉間に皺を寄せて本の表紙を睨む。


 表紙には教科書委員会から逃れるためか、ズボンとハートのイラストが描いてあった。


「……ナニコレ」


 確か国定教科書では違った。

 アイアル様とポチ様の出会いはこう書かれていたはずだ。


《アイアル様は、生まれた頃から人望を集め、人の長として活躍をしていた。たまたま犬人たちが反乱を企てていた花咲く丘に仕事でやってきたアイアル様は、犬人の姫君ポチと出会う。彼女の可憐で美しい仕草にアイアル様は飼い主心が打たれ、ポチ様は上品で逞しく芳しい青年アイアルに一目ぼれをした。香しい花々は二人を祝福するために満開で咲き誇っていたのである》


 こんな場末の串焼き屋が舞台じゃないし、才色兼備な美犬で有名なポチ様が、気になる男性の下半身に襲い掛かるシーンなんてなかった。


 それにしてもポチ様のアプローチってなんだ!? 

 

「そりゃあ僕だって、リーゼ様の靴下は欲しいよ! マメタなんてワンピース一式持ってるしさ! 羨ましくないけど」


 でもポチ様の言動を見ていると、一年前の僕らがリーゼ様にしてきたことを思いだす。

 無理やり首輪をお願いし、ひたすら取ってこいをお願いし、靴下も隠した。

 怒られたけど謝らなかった。


 だって歴代の王は笑って許してくれてたんだ。

 犬はそういうものだって。


 それに、僕らは王族に可愛がって欲しい。

 犬としてご主人様の側で安心したい。

 ご主人様の香りに包まれると、心の底から居場所を感じることが出来るのが、犬人なんだ。


 ――――脳裏にふと、バドの黒縁メガネが浮かんだ。


 ……なんだろう。

 この敗北感。


 僕は続きを読み進めることにした。

 



◇◇◇◇




 この話をした後、散々親方に笑われた。

 ありえないって。

 仕方ないよな。ふつう信じないわ。俺なら信じない。


 とにかく仕事を始めるべく工具を担いで、建築中のコロッセウムに向かった。




 コロッセウムはこの国で一番の娯楽だ。

 すり鉢場の巨大な会場では、底で行われる数々のイベントに人は集まり、熱狂する。

 公演の中には劇や演奏会といった平和なものもある。


 だがメインは血肉の争いだ。


 奴隷剣闘士の自由と金をかけた戦い。

 獣と人の生存をかけた争い。

 巨大な舞台装置を何度も作り換え、劇上のドラマをいかに強烈に演出するか、日々演出家たちが頭をひねっている。


 俺が今働いているのも、その装置の変更をする工事現場だ。

 国でも有数のコロッセウムは、改修に使う人員もバカにならない。俺みたいな田舎から出てきたペーペーにも、それこそ山のように仕事がある。


「親方、この石灰と火山灰が混ざったモルタルでいいんですか?」

「ああ、木組みの間に丁寧に流し込めよ。しっかり固めて、あいつらの衝撃にも耐えてもらわなければいけないからな」


 俺はコロッセウムの底の底に降りる。

 底には新しい木組みが作られていた。設計士によってベテラン職人が組んだ枠だ。

 脇に積まれた煉瓦を持ち上げ、木組みに合わせてそって積んでいく。

 流し込むセメントは特製のものだ。先輩は凝灰岩がうんぬんと言っていたが、よく理解できていない。


 次のレンガを肩に掛けると、足先に煉瓦の破片が当たった。 

 見ればそこかしこに破壊された破片が、掃除しきれず残っている。


 危ないな。

 うっかりするとサンダルの底に刺さりそうだ。


 こつこつ作業を続けていくと、先輩たちの噂が聞こえてきた。


「しっかし今日の改修は時間がかかるな」

「最近、クルス・ピットブルが竜人の新人を地面に叩きつけて底が抜けたんだよ」

「凶悪犬クルスか。あいつ本当に暴れ出したら止まらないからな。竜人は無事だったたのか? 希少種だろう?」

「大丈夫だ。死なせたらオーナーが大損だからな。ぎりぎりで蘇生させたさ」


 特に人気がある興行。

 それはアルターと呼ばれる変身人種たちの戦いだ。




 変身人種とは、人と獣の姿を行き来する不思議な存在だ。


 俺たち純人と同様に古代から存在するのだが、圧倒的に少数派である彼らは奴隷や家畜の様に扱われてきた。

 聞くところによると、たびたび大規模な「品種改良」とやらも行われてきたらしい。


 人としての人権は、彼らにはない。


 奴隷として売買される純人の方が、まだ待遇がましだ。運が良ければその先に自由がある。

 むしろ奴隷に落とされた連中は、最近はやりの「純人教」とやらに染まって「自分よりも下の存在」であると「決めた」変身人種をことさら差別する始末だ。


 一方で、変身人種は家畜。

 彼らに見つかり次第捕らえられ、競りに掛けられていく。

 そこに飛び交うのは金と、彼らの尊厳と、彼らがことさらに大切にする―――――魂と呼ばれるモノ。




(お気の毒だな。俺は純人の庶民で良かったよ)

 この町に来て思ったのは、それだけだった。

 そもそも実物に会ったこともないし。

 コロッセウムのショーでしか見たことがない庶民も、大方似たようなものだろう。


 だが、そんな俺が無関係だなんて言っていられた日々は―――――取られたパンツと紅茶色の少女のせいで、とっくに終わっていたのだ。

 それに気が付いたのは、帰り道のことだった。






「おい」


 夕日に照らされた集合アパートの前に、巨漢が待ちかまえていた。


 一言でいうなら凶悪な顔。

 よく見ればかなり整った顔をしていることは分かるのだが、何せ怖い。

 目つきの悪い三白眼。裂けたような大きな口。皮肉に曲げられた薄い口元。

 西日に当たって陰影が濃く浮かぶ。


 刈りあげた灰色の髪。徹底的に鍛え上げられた肉体。ふくらはぎと太ももは筋肉の鎧のようだ。

 貫頭衣からはみ出た二の腕は隆々として―――――焼き印が押されている。


 あれはアルターの証。


 コロッセウムに貼られた興業ポスターを思い出した。

 こいつは……!


「凶悪犬クルス!」

「ふん。よく知っているようだな」


 超低音吐き出すように答えると、じっと俺を睨んできた。

 ぶわっと湧き上がる殺気にびびる。


「いえ。最近町に来たもので。さほどは知りません。シメサバのコロッセウム格闘王にして年間勝者。竜人も鰐人もその腕力で吹っ飛ばし、逆らうやつは皆噛み殺す凶悪王だなんて、そんな」

「知っているじゃないか」


 うわ、余計なこと言った! この口か、この口か!

 冷や汗をだらだらと流して慌てていると、今にも撲殺してやんよといった凶悪顔が、俺に一歩、一歩と近づいてくる。

 俺を見下ろす撲殺魔。


 子供が笑い、行商人の掛け声が響く平和な夕方の光景。

 それが殺伐とした空気に染まっていった。


「妹が世話になったようだな」

「妹……?」


 こんな凶悪な顔の女の子なんていましたっけ。

 俺が恐る恐る顔を眺めていると、男はしかめ面をした。

 口の端が裂けたように引き攣る。


 だから怖いよっ。


「妹の名はポチという」

「ああ、朝の……って、ええ?」


 紅茶色の超ド級変態美少女。

 その、兄!?


 嘘だろう!?


 思わず顔を上げてマジマジを見つめ返す。

 彼は強面の顔ふっと崩して、笑いかけてきた。

 

「妹に素晴らしいものをくれたようだな。ずいぶんと芳しいものを持っているものだから貸してもらった。力づくでな」


 彼が手に持っていたのは――――。


 俺 の パ ン ツ だっ た 。




 ―――――芳しいって言った?

 ―――――言ったよな?


 臭いの間違いじゃないですか?

 いや、普通に臭いって言われてもそれなりに傷つくけどさ!


(なんなのこの兄弟、そろって変態かよ!)

 しかも同じ変態でも確実に兄はやばい。

 力づくで襲われたら、まじで貞操の危機だ。


 一歩一歩、後ずさりする俺に、クルスは簡単に間合いを詰めて来る。


「妹のものは俺のもの。俺のものも俺のもの。妹は(俺に殴られて)半泣きになりながらも、おまえのズボンを死守し、首に巻いて逃げた。だがこれくらいで満足できる訳がない。俺はもっとこれが欲しくなって、匂いをたどってきた訳だ」


 背中がアパートの壁についた。

 逃げられない。


 奴はぬっと俺を見下ろして訊ねてくる。


「なぜだ。なぜおまえの匂いは俺の魂を揺さぶる。心が落ち着かず、全てを破壊しおまえに差し出したくなるんだ」

「知りません。病気です。診療所に行ってください。妹さんと一緒に」


 必死に拒絶する俺。

 言葉をいっさいスルーして、ぎりぎりまで顔を近づけてくる凶悪顔。

 くんくんと首筋を嗅ぐ。

 (喰われる!)と心で悲鳴を上げた俺に、超低音で囁いてくる。


「(俺にもっとパンツを)やらないか?」

「いやー!!!!」


 俺の人生まじ終わる!






 その時、巨体がふっとんだ。

 クルスは道向かいの公衆風呂屋にまで飛び、壁にぶつかり破壊した。

 当たりどころが悪かったのか、気絶したようだ。


『兄貴のバカー! この人はあたしの!』


 聞き覚えのある、小鳥のような可愛らしい声。

 振り向くと、そこには―――――。

 小柄な犬がいた。


 くりくりとした目が可愛い、艶々の紅茶色の毛並みの小型犬。

 巻きしっぽをぶんぶんと振っている。


 首には巻いているのは大きな手ぬぐいではなく――――俺のズボン?


 それは次第に輪郭がぼんやりと見えなくなり、大きく変化していくと、最後には朝見た貫頭衣の少女。

 首に俺のズボンを巻いたポチだ。


 犬人――――。

 俺は初めてそれを、純人とは異なるものだと認識した。

 人と動物の姿を行き来する、人種。





 夕日を浴びて、影が伸びる。

 二人の影が重なる。


 俺の戸惑いに気が付いた彼女は、恐る恐る紅茶色の瞳で上目使いに見上げてきた。


「兄貴に聞いたの。あなたアイアルっていうんでしょ。アイアル、犬人見るのは初めて? 怖い?」

「いいや」


 犬の姿は丸っこくて可愛かった。

 紅茶色の毛皮は艶々、目はくりくりとつぶら。

 特にしっぽがくるりと巻いていて、実家の犬よりよほど愛嬌があった。


「……あたし、ちょっとは可愛い?」

「ああ、まあ」

「嬉しい!」


 ポチはぱあっと頬を染めた。

 そしていそいそと、首に巻いていた俺のズボンを外す。

 気絶しているクルスの手からもパンツを奪い取って、ズボンの間にぐいと挟む。


 そして―――――。


「ごめんなさい!」


 大きな白い布袋を乗せて、謝罪と共に返してきた。


「デルスに怒られたんだ。どんなに心が惹かれいても、相手の魂に沿って言葉を尽くして最後まで交渉しろ。暴力を使うくらいなら先に権力を使えって」


 それもどうかと思う。


 デルスさんがどう人だかは知らないが、ポチの周囲には癖の強い人間しかいないようだ。

 俺の白い目をどう捉えたのかは知らないが、彼女は深く謝罪の礼を取った。


「だからごめんなさい! 上に置いたのはあたしのお昼のパンだよ。今日の分食べないで全部持ってきたの。あの、串焼きも美味しかったの。ありがとう」


 殊勝な美少女の謝罪。

 ちゃんと反省しているようだ。

 俺は受け入れるほかなかった。


 だが、ズボンを受け取ると――――彼女は手を離さなかった。

 ぐぐぐと引っ張るが、全く動かない。


「あの、ポチさん?」

「ううううう。物惜しい……」


 葛藤してる!


 大好きな香り(……)のスボンを返すことを、葛藤している!

 やめてくれ。


 顔が百面相のようにクルクル変わり、しょうもない懊悩を伝えてくる。


 そしてふと、手がゆるみ。

 彼女は何かを思いついたように、満面の笑顔になった。


「そうだアイアル! 公演のチケットをあげる! あたしの歌をただで聞かせてあげる! そうしたら改めて、これちょうだい?」

「歌?」


 ポチはにこにこと俺に提案をしてきた。

 頬を紅色に染めて続ける。


「そうだよ! あたし、鳥人のカナリアよりも人気あるんだから! 狂犬雑伎団のポチと言えば、貴族が大枚叩いたってなかなか聞けないんだからね!」




 ――――狂犬雑伎団。


 これも工事中に聞いたことがある。

 犬人を中心に構成された特殊な芸をする団体で、元老院の誰かがオーナーだと聞いた。 


 歌にはさほども興味がなかったが、貴族が大枚はたいたって、という言葉に心惹かれる。

 庶民だからな。


 ……転売したらいくらになるだろうか……。


 財布の侘びしさに、ちょっと心が動く。

 彼女のくれた布袋のパンが大きかったこともある。腹も減っていた。


 それに彼女の必死の顔が可愛いので、つい口が―――――。

 

「洗った奴なら、いいかな」


 了解してしまった。

 というか、洗わない奴は絶対に嫌だが。


 すると彼女がぱあああっと破顔して抱きついてきた。


 うわっめちゃくちゃ柔らかい!

 それに胸! 胸当たってる!

 

 女の子との交流は、村祭りの踊りで幼なじみの手を握ったことくらしかない自分には、とんでもない強烈な経験だった。


 体温が高い。


 心臓がバクバクする。


 そして、鼻孔をくすぐる甘い体臭。

 髪からも良い香りがしてくる。

 何だろう。いつかどこかで嗅いだような花の香りだ。でもポチのものはそれよりもずっと――――甘い。


 良い香りだな、と俺が思う間もなく――――。


「すーはーすーはーすーはー」


 ポチがうっとりがっつり、俺の上着に鼻を押しつけて匂いを嗅いでいた。

 仕事帰りの俺の汗臭い体。

 それを深呼吸してやがった。

  

 思わず突き放す。


「やめろ!」

「きゃんっ」


 いくら可愛い女の子だからって、マナーってものがある!

 男だって痴漢には断固として抗議する!


 俺は怒鳴った。


「人の許可なく嗅ぎまくるな!」

「……これもダメなの?」


 きゅうん、としょぼくれるポチ。

 紅茶色の目が潤み出す。

 そして、ふんわりした紅茶色の髪の気持ちしぼんで、小さくうつむいてしまった。

 見えない耳がぺたんと落ちたように見える。


 ……俺は悪くない。

 悪くないのに、動揺する。


 ―――――きゅんきゅんと、俺(の匂いを)を慕って鳴いている犬がそこにいる。 


 ああもう!

 俺は手ぬぐいを外してポチに投げつけた。


 目の前に落ちる手ぬぐい。

 ポチは目の前のそれに気づき、こちらを見て大きな目をパチパチと瞬かせる。

 俺は「いいの?」という風情のポチに、頷いてやる。


「いいか。これをやる。これをやるから人のものを勝手に狙うな。今後やるとしてもちゃんと洗った物しかやらないからな」

「!……じゃあ公演には来てくれる!?」

「……ああ。約束したからな」

「ほんとだよ!? 絶対だよ!?」


 ポチは喜んで満開の花のような笑顔になり、手ぬぐいをいそいそと首に巻く。

 そしてくんくんと―――――。


「俺の見えるところで嗅ぐな!」

「きゃん!」


 びしっと注意した。

 びっくりと背筋を伸ばすポチ。




 そうして、巨漢の兄貴を担いだポチは「絶対だよ!」と叫びながら、夕日の向こうに去っていった。


「疲れた…………」


 俺は地べたに座り込んむ。

 匂い嗅ぎ魔の恐ろしい兄妹と、甘い匂いと、ひたすら可愛い女の子。

 頭が混乱してただ疲れる。


 これが俺ことアイアルと、美少女のくせに畜生なポチとの出会いだった――――。 




◇◇◇◇




 頭痛がしてきて、本を閉じた。


「なんだろう。これ、ポチ様はアイアル様の心を掴んだと言えるのかな」


 でも男として分かる。

 もうアイアル様の中でポチ様は「可愛い女の子」なのだ。


 犬ではない。

 この時点で女の子だ。


 ……僕とは大違いだ。


 机にうつぶせてため息をついた。

 白い髪が机上に広がる。


「それにしても現実のポチ様はひどいな。淑女はどこに行ったんだろう」


 こんなに感情豊かでガサツな女の子とは思わなかった。

 しかも犬性を全く隠していない。


 ルマニア大陸へ脱出した頃には美女犬として名を馳せ、どの犬人も純人も惚れるような才色兼備として、アイアル様を助けていったのは本当だ。

 当時の歴史文書に書かれている。

 

(本当は、すごく努力したのかもな)


 アイアルという青年に恋をして。

 彼に相応しい女性になろうと決意して。 

 女という異性として、はっきり意識してもらうための努力を――――。




 まだまだ残りのページは厚い。

 でも、続きは後で読むことにしよう。


 だって―――――。


「マルス様! ブラッドハウンド様が湖水魚の塩焼きを作ってくださいましたよ! 一緒に食べましょう!」


 窓枠にはリーゼ様。


 にこにこと(当社比)嬉しそうにリーゼ様がお昼に呼んでくださったんだもの。

 僕は思わず白い犬になって、リーゼ様の腕に飛び込んだ。


『リーゼ様、食べさせて! 僕も食べさせてあげるからさ!』

「いいですよ。骨を取って差し上げますね」


 すりすりと彼女の腕の中で甘えたのだ。


 いい香り! 

 少し離れただけでもこの香が懐かしくなってしまう。


 後ろでピットブル卿が「まだまだだな」と肩をすくめたような気がしたのだけど、今はリーゼ様と一緒にいたい!


 僕は立派な男性になるよ?

 リーゼ様が惚れるようなさ! 


 ……でも。

 リーゼ様が認めるような男性って、どうすればなるんだろう。


 いや、なってみせるけどさ―――――。




 ――――僕の悩みは、まだまだ尽きないのだ。




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