焼蝉
Nさんに聞いた話だ。
夏の終わりの頃だった。Nさんは煙草を吸おうと、ベランダに出た。
ターボライターで火を点けて、煙を吐く。ふと足元を見下ろすと、死んだ蝉の死骸が四つ、転がっていた。
(……わざわざここで死ぬことねぇのによぉ)
彼は舌打ちをすると、一つを掴んで放り投げた。――マンションの七階。軽い骸は風に流されながら、ゆっくりと落ちて行った。
深く煙を吐きだしながら、二つ目を掴んだ。――放り投げる。――落ちてゆく。
三つ目を投げたところで、Nさんの頭にある考えが浮かんだ。彼いわく――我ながらくだらなく、でも思いついてしまうと、やらずにはいられなかった。――という。
煙草を口に咥え、四つ目を左手で拾うと――
――カチッ
右手に持ったターボライターの、点火スイッチを親指で押した。
――シュゴォォォ……
見えない炎を、蝉の羽根に近づける――。
その時。
――ジジジジジジジジジッ‼︎
手にしていた蝉が、大きな声で鳴いた。
生きていたのだ。
「うわっ!」
一瞬にして、火は蝉を包んだ。Nさんはたまらず、外に向かって放り投げた。
――ジジジジジジジ……
蝉は燃えながら、断末魔を上げながら落ちていった。ベランダの柵から身体を乗り出すと、落ちてゆく火が見えた。それはやがて近くの公園の茂みに落ちてゆき――
見えなくなった。
(……紛らわしいんだよ)
心の中で悪態をつき、煙草を揉み消して部屋に入った。
*
――夜。Nさんは悪夢にうなされていた。
浮遊感。下から吹き上げてくる風――。落ちているのだということが、すぐにわかった。しかし、重力をあまり感じない。(……身体が、軽いからだ)。そう、思った。
近くには、見覚えのある建物が立っている。――自分が住んでいるマンションだ。その建物の、上の方。ベランダで、煙草を吸っている男がいる。――紛れもなく、Nさん自身だった。
こちらを見ているNさんは煙草を吸い、にやつきながらこっちを見ている。――ゆっくり、ゆっくり。落ちてゆく。
ふいに、“熱さ”を感じた。足と手、先端部からそれは始まり、じわじわと範囲が広がっていく。――見れば、燃えている。ゆらゆらとその身を揺らす橙色の炎は、生きているかのようだった。身体を飲み込んでいくその様子は、うれしそうにも見える。ゆっくりと、ゆっくりと。全身を蝕んでゆく。
息ができないほどに、熱い。(いっそ、早く殺してくれ!)――叫びたかった。しかし、声帯が言うことを聞かない。発する声は、
――ジジジジジジジジジジジジジジジジジ‼︎
人のものではなかった。
時間は、残酷なほどにゆっくり流れ――
「――! ……ッハァッ、ハァッ、ハァ……」
ようやく目を覚ますと、全身が汗でぐっしょり濡れていた。
静寂に満ちた室内に、蝉の鳴き声にも似た耳鳴りが響いていた。
「その夢は、夏が終わるまで毎日続いたよ」
Nさんは言った。秋が深まると、夢も見なくなったと言う。
「……でも、また夏は来る」
夏が来るのが怖い。最後に彼は、そう言った。