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塵より生まれし

作者: 胡子





粗末な麻布が一枚、裸の娘に被せられていた。

血の気無い顔の娘はそのまま床の上で軋む人形のように体を伸ばした。



「気が付いたかえ」



よたよたと老婆が近付いてきた。

歪んだ口からひゅう、ひゅう、と息が漏れている。

(しわ)で埋もれた目から感情は読めないが、どうやら笑っているようだった。



「お前さん、珠のような男の(おのこ)ぞえ」



老婆は娘に見えるように布でくるまれた赤子を見せた。

とたん娘はぎょろりと目を見開き、荒縄の食い込んだ跡が痛々しい両腕を伸ばした。

ひび割れた唇はぶるぶる震え、涎を垂らし、必死に訴えている。

老婆は一瞬怯んだが、用心しながらそっと赤子を渡した。

カタカタと音が鳴りそうなほどぎこちなく、痩せこけた(かいな)が赤子を抱いた。

焦点の定まらないガラス玉のような瞳がひたりと赤子を捕らえた。

娘の荒い息遣いと共に、薄い唇がめくれ上がった。

老婆は危険を感じて娘から赤子を引きはがそうとしたが、途中で止めた。

みるみる娘の表情から力が抜け、震えが治まり始めたのだ。

娘は赤子を潰さないように、苦労して床の上で体を丸めた。

赤子は目を(つむ)り、小さな手足を布の中で絶えず動かしていた。

その振動が、娘を優しくあやしているようであった。

老婆は胸を撫で下ろした。









娘は王の最も若き妾妃だった。

この時代にはよくある事だったが、娘に拒む権利は無かった。

そしてこれもよくある事だったが、娘には既に思い人がいた。

諦めるか、不名誉な死か。

そのどちらかが選択されるのが常だ。

しかし、娘はどちらも選ばなかった。

檻に入れられても決して人に懐かぬ獅子のように、娘は強情で気高かった。

結果、娘は急速に精神を病んだ。

王の寵愛が去るより先に、娘は完全に狂った。

娘の奇行に人々は震え上がり、凶暴で手が付けられなくなった娘はこの塔に幽閉される事になった。

死を待つ罪人達が集められる、この塔に。

その時になって、初めて娘が懐妊している事が知れたのだ。











塔の最上階が娘の牢獄としてあてがわれた。

看守も門兵も娘を恐れた。

よって、娘の世話役に罪人の中から老婆が選ばれた。

老婆はぶつぶつ文句を言ったが、罪人にしては上等な食事と、用事を足すために最上階から看守のいる最下階まで往復する自由を与えられ、機嫌を直した。

だが連れてこられた娘と対面して、老婆は己の考えの甘さを痛感した。

しかし後には引けない。

狂った娘に食い殺されるのは嫌だが、お役御免になって元の監房に戻るのだって嫌だ。

獣は縄張りを闘うことで折り合う。

まずは睨み合いからだった。

生傷が絶えず、よもや死ぬやもと思った事もあったが、老婆だって必死だった。いつしか意地が優先されていたかも知れないが、なんとか老婆は自分の存在を娘に受け入れさせるのに成功した。

こうして二人の生活は始まった。






一日二回。

朝と晩に老婆は長い螺旋階段を降り、自分と娘の食事を持って登る。

娘は皿に顔を突っ込みがつがつと食う。

その後はぼんやりと丸くなったり、唸ったり、壁に爪を突き立てたり。

たまに暴れ出して自分自身を傷つけたり。

そんな時、力の弱い老婆でも娘を止められるように、常に娘の四肢は犬のように荒縄で戒められていた。

老婆は娘が暴れ出しさえしなければ何をしていようがお構い無しで、適当に掃除をしたり、調子っぱずれの鼻歌を歌ったり、誰に無く大声で喋ったり。

人間らしい心の通いは皆無であったが、お互いの世界に干渉しない配慮を本能のうちにしていたと言える。





「ありゃ悪魔が憑いているって話だぜ。婆さんよく平気だなあ」



感心してみせる看守に老婆はひ、ひ、と笑って答えた。



「なあに、それが本当だったら苦労せんぞえ。悪魔ってもんは眉目麗しい紳士だって云うじゃあないか。わしは旨い飯が食えればそれでええ」



「でもよお」



首から下げた魔除けの骨を弄りながら看守は続けた。



「恐ろしいじゃねえかよお」



黄色い歯をむき出してへらへら笑う看守に、ふんっ、と老婆は鼻を鳴らした。



確かに狂った娘の行動は人の(ことわり)から大きく外れていた。

だがもっと恐ろしいもの、もっともっと醜くく(おぞ)ましいものがこの世には有る。

そしてそれらは怪奇の中に在るものではない。

老婆は知っていた。

あれは獣なのだ。

娘が獣になったのでは無い。

獣が娘の形をしているだけだ。

獣が人の生を全う出来ないからと言って、誰が責められようか。

昔、老婆が若い娘だった頃。

生きるための激しい欲求が彼女を罪人にした。

そうしなければならなかった。

それだけの事。

きっとこの娘も同じ。









出産は嵐の夜だった。

稲妻が空を縦横無尽に走り、轟々と風と雨が塔を揺るがした。

ありとあらゆる隙間を金切り声を上げながら強風が走り抜け、蝋燭は全て消えた。

娘は獣のように吠え続けた。

荒縄では足りず、鉄の鎖が娘を抑えた。

それでも暴れる娘の咆哮と共に、壁に繋がる鎖の先がガゴン、ガゴン、と互いにぶつかった。



「ひい、悪魔だ!悪魔が怒っている!俺達は死ぬんだぁ!」



わあわあ泣きながら隅で頭を抱えてしゃがみ込む看守に、老婆は怒鳴った。



「この役立たず!手伝わないならせめて静かにおし!」



果てしなく時間が過ぎた気がした。

やがて一際大きな雷鳴が轟いた時、稲光を頼りに老婆は赤子を取り上げた。








老婆は眠る娘と赤子を見つめた。

娘の肌は水牛の乳より白かった。

髪は緩くうねる金糸を連想させた。

この長い荒んだ生活で、痩せて垢にまみれようとも。

それが遥か遠い娘の故郷では当たり前の容姿なのか、どうなのか、老婆には判断できない。

ただ老婆は素直に美しいと思った。

赤子は母親に似ず、この国の男の血を多分に受け継いでいた。

母子がどうなるのか、老婆には見当も付かなかった。







赤子に洗礼を受けさせるべきだと老婆が言い張った時、看守は目を丸くした。


「そんくらい、してやっても罰当たらんじゃろて」



「そうさなあ」



魔除けを首から下げた看守は、珍しく神妙な面持ちで老婆に同意した。



「神は天と地を造りたもう」



塔に出入りする、うらぶれた貧乏祭司が汚い教本を読んだ。

本来の彼の仕事は死んだ罪人の魂をあの世へ送る事だ。

しわがれた声が裏返るたび、老婆と看守は吹き出すのを堪えた。



「そして最後に 神は塵から人間をつくりたもう ああ 偉大なるかな 偉大なるかな」



赤子の額に祭司が小指を伸ばし、紅がちょこんと塗られた。



「一応、教本は本物じゃから、少しは御利益有るかいな」



おどける祭司に、老婆と看守は手を叩いて笑った。







そろそろ飯の時間だ。

老婆は苦労して立ち上がった。

最近、とみに足腰が弱っている。

これから螺旋階段を往復することを思って、老婆は顔をしかめた。

高窓から差し込む午後の光は弱まり、それでも空中の塵を輝かせ、一筋の軌跡を描いていた。

それをぼんやり視界の端に捕らえながら、老婆は足を引きずり螺旋階段へ向かった。

何故そんなしょうもない物から人間を造ったの?

だから人間ってしょうもない生き物なんじゃない。

盗み諸々止めろと言うなら、あんたが養ってくれるの?

あたしらを来世への免罪符にして、自分達は安全な場所から哀れんで。あたしらとあんたの何が違うの?

同じ塵から生まれたくせに。




いきさつは何だったのか、誰に向かって啖呵を切ったのか全く覚えていないが、少女だった老婆は言った。

そういえば、確かにそんな事もあった。

老婆はひゅう、ひゅう、と息を吐きながら、一段一段階段を降り始めた。

塵に崇められる神もまた、塵に違いない。

この塔にいる、自分を含めたありとあらゆる罪人もまた。

どうせ先は長くない、死を待つしかない老婆。

それでも毎食のパンの為に狂った娘と暮らしている。

老婆は笑った。

ひっ、ひっ、とか細い息が、針のように老婆の喉を苦しめた。

目眩を感じた老婆は、暫く壁にもたれていた。



生まれてしまったもんは、しょうもない。

しょうもないから、生きてごらん。



老婆は口を歪めると、再び階段をのたりと降り始めた。










おわり

読んで下さってありがとうございました。



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