恥ずかしい話
あれは1997年のこと。今でも、自身の科学的思考に関する戒めとして、強く記憶していることがあります。
当時、インターネットはまだ黎明期と言ってもよかったと思いますが、私の通っていた高専や進学先の大学はどちらも言わば特区として10Mbpsのインターネット直結回線が整備されていたと記憶しています。10Mbpsってのは当時としては大変な高速回線で、しかもインターネットに直結ってのもすごいことだったんですが(むしろ今はインターネット直結なんて企業や機関はほとんどないですよね、たいていはプロバイダ経由になってます)、まあそのへんは省略。
そんな時代なので、インターネットに直接アクセスしているような人は割と学術研究者が多く、個人サイトと呼ばれるものも結構なものが学術かディープな趣味に偏っていました。
そんな中で、とあるサイトに出会います。
宇宙物理学を趣味で研究している、という個人のサイトです。いまだにサイト名も管理者名も思い出せますが、もちろんここでは書きません。今思えばあの人はたぶん本職のすごい研究者だったんでしょうけど。
さて、その人は、非常に長い文章でいろいろな傍証を付け加えながらも、当時の私には『トンデモ理論』としか受け取れない結論を導いていました。
それは。
『宇宙は加速膨張している』
掲示板もありました。ちょっと理論に自信のある人たち(たぶん学生)が盛んに書き込んでいました。そのほとんどは、その管理者の理論を否定するものでした。
私も参加しました。もちろん、否定者として、です。
一般相対性理論は相当に高精度に検証されていて、それには誤りは見当たらない。少なくともその結論として、宇宙が加速膨張することは絶対にありえない。一般相対論の解は、閉じた宇宙か、平坦な宇宙か、減速しながら広がる宇宙か、この三つしかないのだ、と。
管理者は、それでも証拠は加速膨張を示している、と主張します。一般相対論が誤りだとは思わない、しかし修正が必要だ、と。たとえば、宇宙項を復活させるべきだ、と。
現在では宇宙のエネルギー(質量)の七割を占めるだろう事がほぼ定説になっている『ダークエネルギー』こそがその宇宙項の正体なのですが(そのダークエネルギーの正体はまだわかっていませんが)、私を含め、議論に参加した人は一斉にそれを批判しました。何も証拠の無い宇宙項を導入してまで観測の誤りを正当化するのはどういうことだ、と。
要するに、そこにいる人々は、管理者が示した観測による証拠を『観測の誤り』と断じていたんですね。たとえば、距離測定の前提になっている超新星の明るさの計測、これ一つをとっても、いくらでも恣意的な解釈が可能だ、なんて感じで。その曲線がゆがんでいれば赤方偏移と距離の関係もそもそも狂ってくるではないか、と。そのゆがみが下に凹になっているというグラフの読み取り方こそ誤りだ、と。
皆さんご存知のとおり、その翌年、宇宙の加速膨張が発表され、世界に驚愕を与えました。その事実を突き止めた三人は、2011年、論文発表からわずか14年足らずという(物理学賞としては)驚異的なスピードでノーベル賞に輝いています。
そのサイトは、気付くと消えていました。本来ならばひざまずいて謝罪したいくらいなのですが、もはやそれもかないません。もちろん、管理者もそんなことを望んではいないでしょうけれど。
科学の実践において、客観的な証拠に基づく仮説を、思い込み(常識や定説)で否定する、と言うことは歴史上何度も行われてきました。そうした事例を知った上で、科学的事実に接するときはニュートラルなマインドでそれを検証しなければならない、と自戒していたつもりでも、想定をはるかに超える事実に対しては拒否反応を示して、それを嘘だと決め付けて糾弾する側に回ってしまっていたのです。恥ずかしい話です。
少なくとも、私の本質は『頑迷な保守主義者』なのだということは、この事実から明らかで、だからこそ、少しでも開明的な考え方に対しては敬意を払わねばならないと、自戒しきりなのであります。それができているかどうかは、あまり自信がないですけどね。
ということで、ともかく、新しい科学的仮説に接したときには、まず常識側を疑ってみる、という癖をつけたほうがいいよね、っていうお話。実際、難しいよ。
つづく?




