SFにおける科学的厳密さ
また似たような話になるのですが、SFとは何か、という点について、今回は改めて『科学的厳密さ』を取り上げてみます。
もともと、科学的に厳密で正確であるSFを特に『ハードSF』と呼ぶ向きがあります。
ある作家、作品を指して、ハードSFである、ハードSFでない、と指摘する文脈もあれば、ある作品がハードSFであるかないかについて、読者間で論争になる場合もあります。
ここまで来るとさすがに宗教論争に近いものを感じざるを得ません。
そもそも、SFというジャンルそのものが、やたらと細分化される傾向があります。
SFが好きだったり、SFを書くのが、科学者だったり科学が好きだったりする人が多いのがその原因だと思うのですね。
要するに、観察科学的な分類学をSFというジャンルの中に適用したくなっちゃう感じ。
その中で特にサブジャンルとして強い個性を発揮する信奉者集団を持つのが、ハードSFだと思うのです。
何しろ、ハードSFの定義を『科学的に無謬であること』と言ってしまえば、現状存在するすべての自然科学の法則がその教義・経典ですから、ブレない。
私自身は、SFはハードSFであるべきといいつつ、ハードSFの定義については少し物を言いたいタイプなのです。
つまり、『現存する科学技術に対して矛盾が無いこと』ってことをハードSFの定義にしちゃうと、そもそも空想物語としてのSFの面白さが半減してしまうんですよ。
こんなことできたらいいな、っていうのを形にしちゃうのがSFの一つの醍醐味じゃないですか。
あるいは、未知の現象にいろんな理屈付けをして楽しむのもまたSFの楽しみ。
そういうのを一切禁止しかねないのです、狭義のハードSFを採用してしまうと。
一方、きわめて突飛で荒唐無稽なお話でさえも、なぜかハードSFの要件を満たしてしまってハードSFとなりうる可能性もある。
つまり、『科学的厳密性』だけでハードSFを定義するのは無理なんじゃないかってことなんです。
たとえば。
ある日、未知の金属を拾った。地球上のいかなる物質とも異なり、なおかつ、いかなる検査機でも正体をつかめない。
さまざまなヒントをもとにその正体を追って行った結果、その物質は、実は地球にやってきていた宇宙人が落としたものだった!
これはハードSFでしょうか。
判断不可能?
では、条件を足しましょう。
宇宙人のものと判明した後、宇宙人と対話し、宇宙人が地球に来た目的や航法、未知の物質の正体などを主人公に教えて聞かせた。
……この物語、ハードSFに分類できちゃうんです。少なくとも、宇宙人の語る『事実』が、科学に対して無矛盾であれば。たとえば原子番号135に超安定な物質を発見し、それを利用して作られた部品だった、って言ってもいいんです。宇宙人の寿命は100億年ほどあるので、彼らの星からペダルをこいで星間水素ガスをプロペラで後方に吹きながら地球に来た、って言い出しても、ハードSF。だって、科学がそれを否定できないもん。
……ずるいよね。
後出しだ、って思うよね。
だから私はこういうタイプのSFをハードSFとは呼びたくないと思っています。
私が考えるのは、こんな感じ。
ハードSFとは、作中であらかじめ提示された科学的条件に無矛盾な科学的帰結のみを利用したものであり、提示の条件以外の科学的飛躍を伴わないもの。
たとえばさっきのお話の例なら、『135番目の原子』とか『宇宙人が存在しその寿命は100億年』ってのは作中で最初の段階で提示されなきゃならない。
未提示の科学的飛躍そのものをテーマにしちゃいかんってことです。『宇宙人の発見』とか『135番目の原子』とか、ね。
たとえば、現代物理学では一応超光速運動は禁止されています。一般的なハードSFの定義ではそもそも超光速航行機関を禁止します。一方、私の示すハードSFでは、『仮に超光速運動理論が発見されたとして』から語り始めます。その前提条件をもとに、そこからは飛躍なし、科学的無矛盾な物語の展開が求められる。
そしたら、『仮に○○として』が何でも成り立っちゃうじゃん。
という点に関して、一つのかせをはめておきます。
前にも書きましたが『保存則』です。
この世のすべての理論は保存則で表せます。
だから、最低限、現状は保存されると知られている量は保存されるべきだし、新しい理論を登場させるのなら、その理論中で保存される量を決める(現状の保存量との換算レートを決めておく)んです。
たとえば、超光速航行って言うと必ず、『光速に達するときにエネルギーが無限大になってエネルギー保存則を破る』って話になりますが、私はここで、『光速の壁を通過せずに超光速に移行する、具体的には、虚数時間を浪費して運動することで見かけ上は光速を超えていないようにできる』なんていう理論をこねくりだします(これは、私のメインシリーズ、カノンスペースクロニクルのベース理論の一つです)。ここで、保存される量は従来の理論のもの一そろい、それから、虚数時間内にももうワンセットあるっていうイメージ。そしてその中で実は重力ポテンシャルだけはお互いにわずかな漏れが……なんていう理論的前提条件を示しておいて、それを利用した新しい理論の道が開く、なんて話にしちゃうわけです。
別に科学的に厳密であるために保存則を導入するんじゃないんですね。
保存則があるほうが面白いから。
それに尽きます。
だって、主人公の持つ必殺レーザー銃が無限にエネルギーを生めるとかだったらつまらないじゃないですか。弾切れがあるからドラマが生まれる。それは、理論の世界でも同じです。最初と最後で必ず保存される量があり、それがかせとなるからこそ、そのかせの中であがく人々の間にドラマが生まれる。
私はそういうのをハードSFと呼びたいですね。
最初から条件、限界が示された中で、いかに最良の結果を残そうと人が努力するのか。
最後の最後でいきなり全部ひっくり返す異星人とか未来人とか古代人とか神とかが出てくるのは、いくら科学的に厳密な説明が伴っていてもハードSFじゃないんです。
ということで今後も月立のハードSFをよろしく。
つづく?




